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7214文字、テキストを読むという行為を生かし切るとは、および、日本社会の実力が上がるのを阻害してる人とは

2026-1-005

対テキストを、読み手と書き手の間の分かり合えなさが不可避なそれに抑えられてる時と、実際有り様とのズレ部分だけを修正余地扱いする内容として捉えつつ、
不可避な分かり合えなさと言えるのは、両者が共に修正余地ない有限性有り様(何をどの程度できて何をどの程度できないか等の有り様)の時である、
言い換えると、有限性は内外境界線の発生の事なので、両者が共に取り違え最小な内外事情にしか応じない態度の時であるとしましょう。

逆に言うと、価値観の相違(時代性込み)であれ、誤読(AもBもCも含んだ話なのにAだけの話と受け止める矮小化受容込み)の発生であれ、
それ自体が問題なのではなく、修正余地なさを持たせる前の内外境界線(個別性が根拠になる局面では個別性は負わせて良いのに偽装された個別性、

真善美を割り引かれる前状態=理想とした時の理想を割り引く程度を最小にしつつ成り立たせてる現実の偽装でもあるこれ)を負わせる事
(書き手が抽象状態を用意し、読み手が具体化条件を用意するという関係において、用意されたものの少なくともどちらかがこの種の内外境界線の産物である事態)が問題であるとしましょう。


つまり、対テキストは、同態度な読み手が書き手の同態度とのズレ部分を修正余地として掴まえられてる時
(前提レベルで要請されてるのが個別性取り違え最小化か個別性捨象かの違いなだけで、算数の公式も代入する値も間違えてない場合の計算と実際有り様とのズレ部分の有無を把握するのと話は同じ)にやっと、
内実確からしさが上限化される(そうでない時のテキスト経験は生かし切れてないので、情報の表面だけを消費して捨ててるようなものである)と解しましょう。

ちなみに、この理解は、自他関係を価値は場が決めるが場の性質は取り違えられ得るという問題意識に落とし込んだもの、
自己についての意味付け(例えば、死は場に通用してないとの位置づけの極端なケース)が、他者の内面世界や他者の集積である社会や他者の問題解決の集積である文化によって具体化される際に、
具体化条件(それら場が持つ問題意識)の肥大化部分(個別性の防げる類の取り違え部分)に付き合わないようにしながら具体化結果をフィードバックする方針を採用する事で、

自己の確からしさを改善上限に導く(仮説と検証の関係を機能させる)し、自己の変遷に特化の過不足が反映されるのを防ぐ
(実力不足対策を取り込みつつ置かれてる場に自身を通用させ続けるという存在課題をこなす)枠組みと整合的です。
(この整合性は概念内容の改善や変遷に対する内実確からしさの検討が形骸でない類の対テキストであると期待できる必要条件でもあるはずです。

また、魂論に踏み込む場合も個人的には同枠組みを用いるべき、つまり、肉体を具体化条件とした時の具体化条件が付される前状態である抽象次元の話になるだけに過ぎず、論点は同じなので、
情報帰属の有り様自体への反応のような他の問題意識を持つ必要はなく、持ってしまうと抽象次元の改善や変遷に内実確からしさを持たせるべく要請される、
具体化条件の、この場合、現世の他の肉体であろうと来世の肉体であろうと話は変わらないこれの肥大化部分に付き合わない方針の実践が阻害されると考えます。)


一方で、学校教育によって内面化させられる理解力像は、指差されてる対象や指差してる意図が分かるという実態露呈(表層の汚れをぬぐうだけの表層次元限定な帰属修正)止まりです。
この理解力像が有害なのは、実態に合わせる合わさないの二択に問題解決を矮小化してしまう点(帰属修正余地のないものしか負わせたり負わされたりしてない状態と解決とが分断されてしまう点)です。

これが常識だとか、これが法律だとか、これがここのルールだとか、そういった実態露呈に対して実態に合わせる合わさないの二択しかないなら、
場の本質(場が持たざるを得ない偏りである肥大化してない実態であり、真善美を割り引かれてない状態=理想とした時の、理想を割り引く程度が最小で済む現実に相当するもの)を、

場全体に行き渡らせる為に組み上げられた形式と実際有り様とのズレ部分だけを修正余地として掴まえる能力
(ズレ部分と付き合わないだけでなく、ズレ部分を修正しにいくのにも必要なので、変化への支持が改悪への加担を意味しない為の条件でもある)が埋没する
(社会に特化の過不足が蓄積されていく原因であり、その人の内面世界にも古い常識が修正されないまま居座ってる的事態が言える)わけです。

もちろん、先の態度は内在場外在場によらず場が持たざるを得ない偏りのみが反映されてる秩序有り様を支持してるのと同じなので、
場に合わせる合わさないの二択によって場の本質にのみ合わせる方向を埋没させるこの理解力像ではテキスト経験を生かし切れません。


対戦ものが分かりやすいように、右を攻められた際に反応できないとか、右を攻められたからといって過剰に反応し左側の無防備さを不必要に拡大させていては相手が目的を楽に達成できてしまいますから、通用してるとは言えません。
つまり、特化の過不足は実力不足を意味してます。(ちなみに、何らかの専門分野に特化してある程度時間を経たなら知覚も相応に特化してるわけで、

特化に過不足がある有り様を生きてる人の知覚は実力不足に相当する状態にあると言えて、
この知覚の質の差異を無視して純粋な経験があるとか、純粋な欲望があるといった主張をしてる思想体系は、
実態が肥大化しているいないの差異を扱えてない、言い換えると、内実確からしさの差異が見えてない以上、人間の表層部分しか語ってません。)

そして、場に合わせる合わさないの二択、言い換えると、実態の肥大化部分を押し付けてくる相対主義的事態に誘導するか、実態との齟齬を押し付けてくる絶対主義的事態に誘導するかの二択は特化の過不足そのものです。
例えば、資本主義と共産主義の対立構図は正にこの誘導二択ですから、この対立構図がまかり通る空間は実力不足空間であって、
この種の空間を齎してきたのが、場に合わせる合わさないの二択発想を実力不足と結び付けるのでなく、知的権威と結び付けてきた学校教育における理解力像であるわけです。


したがって、学校教育における理解力像を支持し続けてる人(それが何であれ各場の本質と整合的な意味付けしか負わされないよう、
先の態度を誰もが要求され、誰もがそれ以上を要求されない平等世界の実現を阻害してる人であり、

日常レベルで空気を読むが故に、場の表層に合わせる有り様から場の本質にのみ合わせる有り様へとワンステップで済む、
という文系領域における日本文化の優位性を潰してる人)は、同像に由来する個人や社会の実力不足を許容してるのと変わりません。

もちろん、不可避な不完全さは、それ以上を求めると疑似問題(修正余地のないものを修正余地があるかのごとく扱ってる)になりますから受容に値しますが、
不可避な不完全さは修正余地ない有限性有り様(内在場外在場によらず場が持たざるを得ない偏りのみが反映されてる秩序有り様を支持してる態度)の時のできないや失敗の事なので、
場の本質にのみ合わせる方向性を潰してる二択に由来する実力不足は該当しません。

したがって、その許容は、不可避でない不完全さを不可避な不完全さとして扱う疑似解決(修正余地のあるものを修正余地がないかのごとく扱ってる)です
(同態度を生きてないのに、自分が自分である限りこうならざるを得ないとか、対偶然性込みでここから先は自分の責任でないとか、環境がこうだから仕方ないとか、
内外境界線に修正余地がないかのように見せかけて、負わされるに値しない境界線の受容を強いる泣き寝入り強要に、加担してる立場です)。

疑似問題の許容が修正余地以外を修正余地扱いしない帰属修正について問題解決と見なしてない証拠であるように、
疑似解決の許容は修正余地を修正余地扱いする帰属修正について問題解決と見なしてない証拠です。


帰属修正余地の総体を抽象的な問題状態として扱うのに失敗してる人(差し伸べた手を払い除けられても責任帰属の明確化は得られるわけで、
差し伸べるかどうかをその主体の取り違え最小な内外事情以外で決めて良いとしてるならこれが言えますし、
言えてしまう時点で感謝や謝罪すらそれらが帰属修正行為である以上、林檎を数えられないのに蜜柑はできてるつもり的な内実しか持たせられないでいるのが確定です)が、

何らかの不幸に接した際の反応には、不可避な不幸と不可避でない不幸の分別失敗が反映されてますし、
何らかの幸福に接した際の反応には、幸福に含まれてる搾取(不可避でない不幸)の把握の失敗が反映されてますから、

疑似解決を生きてる人の覚えた世界有り様に対する印象は真に受けるに値しませんし
(そもそも疑似解決を許容してる時点で、理想を割り引く程度を最小にする地点にいく前に現実を成り立たせる言わば、チキンレースで即離脱するスタイル故に、

加工自体は不可避としつつ嘘や演出といった加工を必要最小限に抑える働きが、
つまりは、限定を受ける前状態という程度の意味で理想を用いるのと同様、具体化条件が付される前状態という程度の意味で抽象状態を用いるとして、その具体化条件の取り違えを抑える働きが欠けていて、

認識の論点は確実性でなく、有限者故に対内在であれ対外在であれ負わせてしまう偏りを不可避なものに抑えてるかどうかなのに、自己把握にも他者把握にも世界把握にも不必要な加工を負わせてるのが確定です)、
真に受けるに値しない印象を土台として構築した理論は前提に過不足があるので、前提の過不足を修正する働きである哲学が機能してる人にとっては退ける対象でしかありません。

(とはいえ、哲学空間も学校教育と地続き故に、大きいのも小さいのも林檎は林檎だ的な内容捨象が要請されてる個別性が根拠にならない局面と、
実質的内容を残すべく形骸化ケースを捨象するよう要請されてる個別性が根拠になる局面との区別が不在で、

個別性が根拠になる局面に個別性捨象を持ち込む絶対主義的方向か、個別性捨象から個別性を単に守るだけの相対主義的方向かの二択が、
まかり通る実力不足空間なので、その種のぬるさが許されないほど同働きが機能してるわけではありません。

実際、後者要請が認められていれば、明晰と曖昧の関係は両者を両極とするスペクトラム上の点選抜が取り違え最小な局面事情によって決まるので、ラッセル系譜とニーチェ系譜の関係は実力不足空間の現れですし、
同一なものが変化するという実像を構成してる同一性に必要な抽象化も変化性に必要な具体化条件も実質的内容を残す処理になるので、この処理を持たない歴史観や論理観が哲学領域で根拠扱いされてきたのも同現れです。)



例えば、ドーピングによる金メダルは薬の効き具合という余計な観点を序列付けに持ち込んでる形なので、フィードバックすると仮説改悪になる不備のある実験の結果と情報価値は同じですが、
逆に、序列付けに反動反発して、みんなで一緒にゴールする的な発想を対等性の理念をもって正当化してしまうと、
世界の実態から切り離された空間でしか生きられない不自由の強要が人間尊重の中身になってしまいます。

もちろん、事実に振り回され過ぎるなら隔離策も妥当ですが、疑似解決を生きてる人が次善の策を運用すると、
次善の策に頼らずに済む実力がある状況でも次善の策を選ぶ、あるいは、頼らずに済むレベルまで実力を上げにいく余裕がある局面でも上げにいかないといった運用不全が許されてしまう

(言わば、マニュアルの持つ粗雑さが、チキンレースで即離脱する的な感覚で許容されてしまう)為、
その種の人には次善の策の意味合いですら、序列付けに反動反発してる内容の理論(例えば、ルソー)を語らせるのは危険となるはずです。


なので、あくまで対序列付けの本筋は、余計な観点の持ち込み(場の本質が場全体に行き渡るように形式を組み上げるのに失敗してる原因)に対してだけの否定とし、
対等性は、場Aでは上位だからといって場Bの性質と関係なく場Bでも上位と言い張る越境を防ぐ、
かつ、場Bの性質の取り違えが最小化されてないなら場Bは越境を受けてるのと同じとする、この二点から成る内容(各場の対等性)を支持し、

次善の策の運用も、価値は場(状況や局面も込み)が決めるが場の性質は取り違えられ得るという問題意識に落とし込みましょう。
(この本筋と整合的な政治観は、管理者立場もプレーヤー立場もそれぞれが他方に対して同否定だけを要求できる秩序像ですが、

両者共に取り違え最小な内外事情にしか応じない態度であれば、前者立場の内在場と後者立場の外在場が一致し、
かつ、そこについて両者共に場が持たざるを得ない偏りのみが反映されてる優勢劣勢有り様や役回り振り分けを支持する為、
どの主体も同態度が要求され、どの主体もそれ以上を要求されない平等世界と整合してると言えます。)



例えば、我思う、故に我在り(確からしさがないを徹底すると確からしさがあるに繋がる有無反転が前半と後半を繋いでる)を始点に同等の確からしさ持つものだけ認める方針に対して、
前半部分を経験可能世界と繋ぎ、その外部については指針とする方針が提示され、
次いで、前半部分の内容捨象を終点、後半部分の内容捨象を始点、両点を繋いでるのは対立の発生とその解消が連鎖する歴史展開(存在の内容捨象が無および統合に繋がる有無反転込み)とする像が提示されたと解するとして、

有と無を統合せずにそのまま土台にする試みが、有と無の内外境界線を肥大化した文化に決めさせる話に繋がったのがハイデガー問題だと考えれば、この自我バージョンもあるとなるはずです。
にもかかわらず、自我立脚にどれだけ励もうとも自我は文化に絶対的に規定されるとの像提示

(文化間を単純に対等化する為、得る資格を内実不問で開放する教義故に求め続ける者の登場という秩序破綻を理論が内包してる事情で、中世キリスト教や共産主義は個人の精神を縛る正当性を用意する必要があった問題の、
文化を縛るバージョンが言える)を受けて、この絶対性を切り崩しにいくという戦略を採ったが故に上下論の外に出られなくなったというのがニーチェ系譜の流れ
(ニーチェ系譜が自我と文化の関係をこねくり回してるだけの話に成り下がった経緯)であると解せます。

したがって、自我を内在的な問題意識、文化を外在的な問題意識、両者の肥大化部分だけを否定し、両者自体は肯定する態度の採用は、
ニーチェ系譜を脱してると言えるはずですし、デカルトにおける有無反転の不十分さ(ハイデガー問題の自我バージョンとしてのデカルト問題)も解消される為、近代の始点からのやり直しにもなっていて、

存在に対しては内容捨象でなく、実質的内容を残す形骸化ケース捨象であるが故に、統覚にも拡張すれば、経験の論点を形骸化ケースの捨象にする事が可能です。
逆に言うと、各主体の内外境界線に修正余地なさを持たせる前に加害被害構図を踏まえさせる枠組みは、
形骸化ケースな経験の寄せ集めな世界像を何らかの指針をとっかえひっかえしながらなだめすかすのが関の山です。


もちろん、個別性が根拠になる局面で取り違えが最小化されてる個別性を根拠として持ち出してるのではない振る舞いすべてを善的か悪的かによらず修正対象とする立場にとっての解決阻害ですし、
冒頭の話で言うと、算数の公式か代入する値の少なくとも一方を間違えてるのにスルーしてるのと同じです。

なので、実存も概念の用いられ方も抽象状態である内在性質と具体化条件である外在性質の統合結果として扱いつつ、両性質の取り違え具合を検討する冒頭の対テキスト
(分かり合えなさを不可避な内外境界線しか負わせない者同士の間で生じるそれへと抑える試みに落とし込んだ書き手読み手関係)を形骸でない文系知性であり、

主体に関する同検討は、両性質の取り違えが最小である主体像と実際有り様とが一致してる時から見てそれ以上を要求する責任観を疑似問題、それ以下しか要求しない責任観を疑似解決とする倫理
(偶然性含め、負わせて良いのは修正余地なさを持たせた内外境界線だけとする倫理、

歪んでいるいないの分別が不十分なまま神の名の下に愛を推奨して歪んだ愛の帰結を神の責任に擦り付けるパターンが、人間由来の理不尽と世界との間で生じるのを、
ひいては、理不尽をリアリティとして求めるのを、個別性が根拠になる局面での負わせて良い根拠かどうかの分別によって防いでもいるこれ)に繋がるとした時の、
形骸な文系知性として、学校教育における理解力像やそれによって矮小化されてる思考像を位置づけ、

次いで、それらと理系知性や反知性とを対置させる有り様を、場に合わせる合わさないの表層形反転二択、ひいては、実力不足や解決阻害として位置づける事で、
文系空間に場の表層に合わせるのではなく、場の本質を場全体に行き渡らせる為のものになってないという意味で場の本質と整合してない形式に対しては形式よりも場の本質に与し、整合してない部分だけを否定する
(形式自体の否定は肥大化してない部分まで否定する反動反発として、言い換えると、修正余地のないものを修正余地があるかのごとく扱う疑似問題として退ける)程度には、

場を荒らす展開も許容(理性を、次元設定自在性という人間性にとっての対局面での特化の過不足を防ぐ実力不足対策とする、
したがって、場の本質である取り違え最小な局面事情と形式である着目無視設定との合致をもって、
種の形式であるこの自在性を生かし切ってる時だけ形骸化を免れてるものとする捉え直し込み)しつつ場の本質にのみ合わせる深化方向を、可能にしにいきましょう。

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