上下転換装置としての「仁義」 / 中国ドラマ「司馬懿」
※画像=仔牛
「も〜」と、牛は鳴きます。と言う事は?この画像は「こうし」であり「もうし」でもあります。分かりますね?
牛は「地道」の象徴。このドラマでも司馬懿が牛に上奏書を沢山積んで、長い路を1人歩くシーンがありました。
初めて、自分で買って読んだ本が「正史三国志」の解説本だった(中古の文庫本)タイトルは忘れたけど、著者は「守屋洋」その後も、この著者の本をばかり買って、高校時代は電車の帰りに読んでいた。
この記事を三国志を知らない人が読むのか?分からない。簡単に言えば「正史三国志」は1800年前の国の歴史書。確かその1000年後くらいに書かれた物語が「三国志演義」このどちらを依拠するかで、かなり話しは変わる。
この中国ドラマ「司馬懿 軍師連盟」は、どちらか?と言えば正史よりの作品。単純に言って演義では「司馬懿」は長らく悪役として描かれて来た筈。確か吉田松陰も曹操と司馬懿を悪く言ってたと思う。
それが!まさかの主役ドラマが作られるなんてっ!!と初めてwowowで予告を見た時には心底驚いた。更に側室とのロマンスまで描かれ、そこにリアル恐妻で名を馳せる「張春華」も参戦し大活躍!(このドラマの張春華は武力85くらいある)
最近は「献帝」が主役のドラマまで作られていたりする。こっちでも司馬懿は主役的扱い。
最初に読んだ本では、司馬懿の優れた面が沢山説明されていたから、そんな司馬懿好きな自分にたまらない作品。しかも昔から司馬懿は「兎と亀」の両方の性質の持つ人物だと思っていたら、亀を拾い「意馬」と名付け大事に飼うシーンに「やっぱり!!」と興奮した。
実はそこ迄「三国志」に詳しく無い。元々が薄い文庫本で物語としてより。誰々がこの状況でこんな対処をしたと、そこに筆者の解説が付く、歴史書的な書き方をしていた本だった。
だから、出来事の構造や、物事の考え方、人物の捉え方、などに強く影響を受けはしても、一つ繋ぎの物語としては、殆ど知らないままにいた。通して読んだのは三国志漫画の「蒼天航路」だけで、他はKoeiの三国志ゲーム「三国無双」シリーズと、こうして改めて書いてみると随分と偏っている😅
でも、三国志は3国の立場を、入れ替えて見た時の違いがコソが、魅力だと思うから初めて読んだ本としては、先入観を持たずに済んで本当に良かったと思う。
司馬懿と三国志の魅力だけで随分語ってしまいました。でも本題は「儒教」昨今の日本では、よく「儒教的○○」と、何かと否定の対象に成っている印象。正直自分が扱うテーマとしては難し過ぎる。
以前こんなコメントを頂いてしまった↓
【生徒が教師の権力に逆らうのと、孔子、孟子、老子、荘子が権力に逆らうことがどのように違うのかを、yagoさんの視点から書かれた記事を読んでみたくなりました】
実は具体的に「孔孟老荘」の名は出さないようにしていた。最初これを見た時は、遂に来てしまったか!と困り果てた。これはイヤがらせではなかろか?とも思ったりもした(笑)だって、コメントをした人物のプロフィールの経歴を見ると、そう思ってしまう人物だ😨
【今は子どもに逆らえない教師が増えているので、重要なテーマだと思います。】
ただし今回のテーマでは、コメントの後半にあった、この答えには役立たないかも知れない。何故なら、自分は本来の中国古典は、自分自身を庶民だと思っている人向けではなく、コテコテのエリート主義だと思っている。古典だけに、、、コテ、、、
三国志を知っている人は、正史だとか他の演義との違いを気にせず、読んで欲しいです。
《先ずはドラマの状況説明》
細かい経緯は忘れました。設定自体はこの説明に余り関係無いです。8〜10話目くらいです、サラッとだけ確認しました。
徐庶と言う人物が、司馬懿が所属する「魏」を離れ、年老いた母と帰郷すると言う。
非常に優秀な人物なので、他国に行くのを恐れて、秘密裏に殺す命令が特殊警察のような組織に下される。
その密命を受けたのが侠客出身の「汲布(きゅうふ)」 ※汲布はドラマオリジナルキャラ
結局、汲布は徐庶と母のお互いを想い合う情を見て、殺せずに見逃してしまう。でもこれは当然死刑の対象に成ってしまう。
曹丕は、この特殊警察的組織の長を任される身。でも自身の教育を任されていた、徐庶を先生として尊敬しており、元々逃したかったので望む結果に。司馬懿も汲布には大恩があった。
そこで司馬懿と曹丕は、利害の一致で汲布を何とか助ける話しへと進む。利害の一致とは曹丕はこの組織の長として、汲布の任務失敗の罪を問われる立場でもあり、司馬懿は曹丕の部下でもある。
司馬懿は一計を案じ一発逆転を狙う。曹丕に町で「仁義」の旗を掲げさせ「汲布の任務の顛末」を何度も何度も何度も演説させる。
最初は誰一人として見向きもしなかったが、町人達は「徐庶の孝と汲布の仁と義」 に感動し、次第に沢山の人が集まり、遂には大歓声が上がる。それが「力」と成り様々な人達の思惑も巻き込み、最終的に汲布の「減罪」に漕ぎ着ける。
この話しは、「策」として「仁義」を利用した話しです。でも事の発端は、優秀で人柄も良い人物を国の都合で、殺しても良いのか?という人として、どうあるべきか。の問いでもありました。
他の三国志や歴史ドラマでも様々なパターンで、「国の法」としては正しくても、それは「仁」や「義」に照らすとどうなのか?は必ずと言って良いほど、中国ドラマに出てくるテーマだと思います。
これらのドラマを見て思ったのがタイトルの【上下転換装置としての仁義】でした。
《性善説と性悪説のバランス》
例えば、何でもかんでも性悪説を元に、厳密にルールを決めてしまうと、得をしないどころか、人助けをしても罰を受ける様では、人助けをしない人ばかりに成ってしまう。
今回の場合で言えば、年老いた親子を殺す以外無く、それに似た行為を繰り返し続ければ、誰も自分自身の良心に従わない、主体性の無い世界に成りかねない。
「法」は天地自然の法則を元にし、その間に在る人の世を考慮して仕組みを作る。でも所詮は「人」が作り運用している。人から主体性が失われ、そこから世代を経て、暫くすれば「法」の根拠自体を、いずれ人は支えられなく成る。
古代は、尚更ルールを緩くは出来ない。そこで出て来るのが「仁義」の議論だと思いました。
仁義を扱えるのは一定の見識がある儒者達。勿論これらには問題が有ります「腐れ儒者」の言葉通り、ルールを悪用する者達は沢山居ます。
でもここは大昔。この時代の民衆には現代人程の知性は有りません。だからそれは仕方が無い、としか言えない。
これは孔子の考えなのか?元々儒家系の考えなのか?は自分には分かりません。でも少なくとも応急処置的に、権力者に異議を唱え、絶対的な権力構造に「下から上へ」と影響を与える事は出来る。それが正に命懸けだったりしますが、、、この時代では解決出来ない権力構造の問題は、後世に託されたのだと思っています。
「儒教的」が否定の意味として使われる理由の大抵は、「上意下達」と「父権的」の事を言っているのだと思います。
でも、ある程度大きな社会を作ると、最初はどうしてもこの形に成ってしまう。むしろ儒家思想はその形を整えて、責任の所在をハッキリさせた上で、その力の流れを変えられる「仁義」が組み込まれている。
昨今の儒教的と悪く言う風潮自体が、少しズレていると思っていて。そもそもが儒家が重視する「仁義」の定義自体が固定化しずらいのは、その時代に合わせて権力と葛藤する様に、組み込まれた装置として考えると、儒家の思想を現代でも、それなりに納得出来るのではないのか?と思います。
高校生の頃は何故「仁義?」と思っていました。定義がよく分からないし、何となくでしたが、ルール的に合わないような?と、変な感じがしました。
だから今の自分が納得する、それっぽい理屈を付けるなら「仁義礼智信」の「礼智信」はルールの構築維持の為。
「仁と義」は柔軟性と権力監視の為。もしくは単なる決まり事にしないことで、仕組みに対して常に、仁とは?義とは?と問わざるを得ない事で、人に主体性を失わせない為。と考えるのはどうでしょうか。
《あとがき》
ここで漸くコメントに頂いた【生徒が教師の権力に逆らうのと、孔子、孟子が権力に逆らうことがどのように違うのかを、yagoさんの視点から書かれた記事を読んでみたくなりました】に繋がりました。たぶん、、、
高校生時代にここまで考えた訳では有りませんが、でもルールにただ従う事も、ただ先生に反対するのも、同じ価値基準の直線上に居る。
それとは違い、儒家の理想はルールそのものを問う事、程度はその頃に一応は考えていました。と言うより今思えば、【著者がそう考える様に誘導】していたのだと思います。
未だに、世の中に余り馴染めないでいる人間がなんとか、捻り出した儒家思想の「仁義論」正直これを公開するのは、いやだなぁと、そんな感じです。かなり大袈裟な言い回しも使いました。
本当によく知っている人から見れば、コイツ何も知らねぇな、と思われそうですから。
「yagoさんの視点から」書いてくれと、言われのだから自分のせいでは有りません(笑)と言い訳して終わります。
