短編小説 「退職理由は通知過多」
居酒屋「すだち」は高知県産の絶品カツオが一年中食べられることで有名な店だった。その広い個室に、三行出版の社員たちが勢ぞろいしていた。
「相沢聡子さん送別会」という題名で社内メールが回り、参加可能だった26名の社員が集まっていたが、ここにいる誰もが、肝心の「相沢聡子」を知らなかった。
「メールではたまに見かけるよな?」
「確かに。でも、部署も顔も知らない…。」
「会社が送別会開くくらいだから、そこそこの人なんだろ?」
「しかし本人がいない送別会なんてあるのか?」
三行出版は3年前に新社屋に移り、その際に大幅な人員の刷新とSlackを導入していた。業務効率は確かに上がったが、人と人との関係性は少し希薄になったような気がする。
今回の件も、そうした現代的な問題がちょっと露見した些細な出来事。
ほぼ全員がそういう受け止め方で、あまり深くは考えていなかった。
要するに、ただ酒が飲めるなら、理由などなんでも良かったのだ。
「えー、それでは……時間もありますのでそろそろ……。」
この会場で一番上席に当たる管理部の部長が乾杯の音頭を取ろうとした時、個室の入り口から初老の男性が顔を覗かせた。
「あ……経理部長!」
「おいおい、経理部長は止めてくれよ。こっちは退職した身なんだから。周年行事の飲み会だって呼ばれたんだけどね……」
奥の壁に貼られた「相沢聡子さん送別会」の文字を見て、元経理部長の大友は怪訝な表情を浮かべた。
「……相沢さんの送別会だって?」
大友さんは、この中で唯一面識のある管理部長にそう言った。その表情に、どことなく怒りの表情が見え隠れする。
「え、ええ……。社内メールで呼び掛けられてこうして集まったんですが、肝心の相沢さんを誰も知らなくて……。それに……周年行事……って?」
管理部長が助けを求めて居並ぶ顔ぶれを見回したが、視線の合った全員が首を振り、誰も事情を知らないようだった。
次に語られた大友さんの言葉に、全員が固まった。
「相沢聡子さんは……故人だよ。経理部でね、長年私の元で働いてもらっていたんだが……。質の悪いイタズラってわけじゃなさそうだな?」
相沢聡子さん。
三行出版創成期から経理部で業務を支えてくれた、真面目で優秀な社員だったらしい。
業務中に倒れ、救急車で運ばれたものの、二か月後に入院先でそのまま亡くなったのだと言う。
「……いや、でも俺、相沢さんにメールの添削してもらいましたよ?」
「実は僕も……一桁間違えて送った発注メールを相沢さんが差し戻してくれて事なきを得たことがあります……。」
「必要な資料が見つからなくて大騒ぎになった時も、いつのまにか添付で送られて来ました。相沢さんにお礼に行かないと、なんて制作班で話になったこともありますよ?」
次々に上がる「相沢さんの気配」に、大友さんがため息を吐いた。
「そんなこと、現実にあるのかね?」
末席に座っていた編集の一人が、テーブルでパソコンを開いた。
確認してみると、確かに「相沢聡子」からのメール履歴やチャネル上のチャットログなどが残っている。
「……誰の仕業か知らないが、業務とは言え、故人の名前を使うのは感心しないな……」
大友さんがそう言った時、「相沢聡子送別会」で開かれていたチャネルに文字が現れた。
『トモさんお久しぶりです。お元気そうで何よりです。』
パソコンを覗いていた全員が驚きの声を上げてのけぞった。正面にいた大友さんだけがなぜか冷静で、数瞬の間を置いて文字を打ち込み始めた。
『サトちゃん、君なの?』
「こ、これ……ど、どういうことですか!?」
管理部長は大友さんに掴みかからんばかりに詰め寄った。社員登録されていない人間がSlack上に現れるのは、管理部長としては見逃せなかったのだろう。
「どういうことなのか、私にもさっぱりだよ。ただね、このトモさんという呼び方。これは私が平社員の頃に呼ばれていたあだ名だよ」
「ええっ!? そ……それじゃ……!」
「うん。画面の向こうにいるのが誰にせよ、その頃の私を知っている人間とみて、間違いないだろう」
『ごめんなさい。最後にどうしてもトモさんにお礼が言いたくって、こういう形にしてしまいました』
『お礼?どういうことだい?』
『私、見ていたんです。トモさんが週に何度も病院に見舞って下さって、その度に子供たちや母にまでお気遣いをいただいて……』
『あの時、意識があったの?』
『いえ……詳しくはお話できないんですが、いわゆる魂というものは、あの時点で私の体から離れていたんです。』
大友さんが背筋を伸ばし、深呼吸をした。
管理部長に視線を移し、大きく頷く。
「間違いないよ。画面の向こうにいるのはサトちゃん……相沢さんだ」
まるで「だから安心していいよ」と言わんばかりの口ぶりだったが、誰も「なんだ、そうだったのか」とは思えなかった。
「い……いや、でも……まさか、そ、それじゃあ今、我々は幽霊と話している、ということ!?」
「……まあ、平たく言えばそういうことになるんだろうな」
「平たく言えばって……」
会場は水を打ったように静まり返った。広い個室なのに、全員がパソコンの画面が見える位置に固まっていて、様子を見に来た「すだち」の若い店員が驚いた顔で固まってしまった。
「あ、あの……お時間なんですけど……始めさせてもらっていいスカ?」
ようやく我に返った面々が、とりあえず飲み物を注文し、全員分の飲み物が揃ったところで、奇妙な飲み会が始まった。
相沢さんは中ジョッキをご所望だった。
「幽霊が主賓の送別会って、つまり告別式ってことか?」
誰かがそう言った。
言われてみれば、確かにそうだ。
大友さんと相沢さんのチャットは続いていた。
一通りお互いの話が済むと、相沢さんに「お世話になった」社員が交代でお礼を述べた。
例の桁数を間違えた社員は、やんわりと叱られ、どんなに忙しくても数字を見返すクセを付けるように諭された。
どんな文章でも口語体で打つ若い社員には、例え電子上のやりとりとは言え、時と相手をわきまえた言葉遣いができるよう、使用頻度の高い定型文のファイルが添付で送られてきた。
また、旧社屋からの引っ越しで行方不明になっている資料をまとめたファイルも届けられた。
不思議ではあったが、会場の全員が相沢さんの存在を認め、感謝し、心から祝福して送り出したい、という気持ちになっていた。
和やかに進む送別会も終盤に差し掛かった時、誰かが疑問を口にした。
「それにしても相沢さん、どうして退職する気になったんですかね?」
「そりゃ、いくら働いても給料出ないんじゃあな!」
「でも、実際はどうなんだろ?」
一部界隈で出た話が、全体の疑問になった。
代表して、大友さんが聞いてみることにした。
「どうして退職することにしたんだい? サトちゃんはまだ必要とされてるみたいだよ?」
画面に現れた文字は、意外なものだった。
『だって、Slackの通知が多すぎて……成仏できないんですもの。』
一旦静まった場に、爆笑の渦が巻き起こった。
「それは……確かに!」
「うちのSlack、通知地獄ですもんね……」
「幽霊にも働き方改革が必要だよな!」
『最初は、ちょっとだけ……って思ってたんです。資料の整理とか、メールや数字のチェックとか。でも気づいたら、週5で働いてました』
相沢さんのチャットが続く。
『さすがに地縛霊にはなりたくないので、最後にトモさんにお礼を言ったら、晴れて退職させていただこうかと』
「いつまでもサトちゃんらしいねぇ! 真面目で律儀で、ちょっと頑張りすぎるところがあって」
大友さんが眼鏡を外して目頭を押さえた。
静まり返った全員が見つめる中、静かにキーボードに指を走らせる。
『サトちゃん。長いこと三行出版を支えてくれて、どうもありがとう。これからはこの若い世代の社員たちが、サトちゃんの思いを引き継いで会社を支えてくれるはずだ。私も手伝えることがあったら、サトちゃんを見習って手伝うようにするよ。退職して、ゆっくり休んでね。』
『皆さん、ありがとうございました。三行出版で働けて本当に幸せでした。本日で退職させていただきます。通知はオフにしますけど、皆さんの仕事ぶりはちゃんと見守っていますからね。それでは皆さん、お元気で。』
最後の文字が画面に浮かび上がると、「相沢聡子」のアカウントがログアウト表示になり、チャネルが静かになった。
誰も口を開かなかった。
画面を見つめ、涙を流す者もいた。
最後に全員で献杯し、会計になったところにまた驚きがあった。
「コース料理と飲み放題、28名様分、電子決済でいただいておりますので、本日のお会計はありませんよ!」
大友さんを含めて27名。それに自分を加えた28名分、きっちりと支払いが終わっていた。
「最後の最後まで、本当にきっちりして旅立っていったんだなぁ。」
店を出た大友さんが、感慨深げにつぶやき、満天の星空を見上げた。
まるでそこに、相沢さんの姿を探すように。
送別会の翌週、三行出版の管理部に一通の封書が届いた。
差出人名は「居酒屋すだち」とあり、中には丁寧に折りたたまれた領収書が一枚。
「三行出版管理部 様」
管理部長が封筒の中身を確認すると、そこには完璧な経理処理が施された明細書が添えられていた。
送別会の会計は『管理部持ち』だった。
「相沢さん、最後までとことん経理部の人間だな……」
管理部長は、苦笑交じりに承認印を押した。
Slackの画面に、投稿者不明のスタンプが現れた。
「経費処理完了」
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