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短編小説 「魚のいない水槽」

 東京の冬は、どこまでも乾いていた。

 環七沿いにある築四十年のワンルームマンション。
 その部屋の隅で、熱帯魚のいない空の水槽が、青白いLEDに照らされて低い音を立て続けている。

 夜になると、その音はやけに大きく聞こえた。
 エアコンの切れ目、外を走るトラックの唸り、そのすべての隙間を縫うように、水槽の音だけが部屋に残る。

 「ねえ、修平。これ、いつまで回しとくの?」

 ソファに足を上げて座ったナオが、缶チューハイを傾けながら言った。
 剥げかけの銀色の爪が、缶の縁を軽く叩く。
 その音が、水槽の振動とわずかに重なった。

 キッチンでレトルトのカレーを温めていた修平は、湯気の向こうで曖昧に笑った。

 「水が腐るからさ。濾過器を止めたら、ただの箱になるだろ」
 「中身、いないのに。もう三ヶ月だよ」

 三ヶ月前まで、そこには二匹のエンゼルフィッシュがいた。
 修平が前の仕事を辞めた日に、ナオが駅前の小さなペットショップで買ってきたものだ。

 袋の中で、ひらひらと揺れる薄いヒレを見て、「自由の象徴」と彼女は言った。その言葉が少しだけ浮いて聞こえたのを、修平は覚えていた。

 一匹目は一週間で死んだ。
 朝、カーテンを開けたとき、腹を上にして浮かんでいた。水面に反射する光が、やけに綺麗だった。

 もう一匹は、ある夜から見当たらなくなった。翌日、フィルターの影に沈んでいるのを修平が見つけた。水草は動かず、音だけが続いていた。

 「水の音がないとさ、この部屋、静かすぎるんだよ」

 修平はカレーを皿に盛り、小さなテーブルに置いた。
 二人分の皿を並べても、テーブルの隙間がやけに広く見えた。

 修平は今、遺品整理のアルバイトをしている。
 他人の人生の残りを用途別に仕分け、捨てる物と捨てない物に仕分ける。意外と性に合っていると話していた。
 
 ナオは、いつ潰れるか分からない地下のライブハウスで、客の来ない時間にカウンターに立っている。製氷機が氷を作る音だけが、仕事をしている証拠だと思っている。

 この二人の関係は、部屋の水槽に似ていた。
 愛情という「魚」はもういない。それでも、共有した時間という「水」だけは捨てられず、惰性という濾過器を通して、透明さだけを保って循環している。

 まるで、透明であることだけが正しいことのように。


 「今日さ、変な家に行ったんだ」

 修平が言う。ナオはスマホを見たまま、顔を上げることもしなかった。

 「独り暮らしの老人の家でさ。部屋中、時計だらけだった。全部、少しずつズレて動いてて」
 「……なんか嫌な感じ」
 「夕方の五時になると、一分おきにアラームが鳴るんだよ。まるで『お帰り』って言ってるみたいに。一時間くらい、誰もいない部屋で次々とアラームが鳴るんだ」

 修平はカレーを一口飲み込んだ。

 「死んでから一週間経ってたらしい。俺らが部屋に入った瞬間に鳴り始めてさ。……人生の終わりを機械が告げているみたいで、ちょっと気味が悪かったよ」

 ナオがスマホを置いた。水槽の青い光が、彼女の瞳に映る。

 「それ、キレイじゃない?」
 「え?」
 「誰も待ってなくても、自分で作った仕組みだけは最後まで動いてたんでしょ? 私たちのこれより、ずっと正直」

 ナオは立ち上がり、水槽のガラスを銀色の爪で叩いた。
 小さな波紋が広がり、気泡が弾けた。

 沈黙。

 修平は、ナオが来週この部屋を出ていくことを知っている。クローゼットの空間にも、洗面台から消えたヘアオイルにも、気付かないふりをしてきた。

 ナオも、何も言い出さなかった。

 それが、二人が選んだ「濾過」だった。

 「明日、雪らしいよ」
 「知ってる。仕事、気をつけてね」

 その言葉が、修平の胸に小さく刺さった。ナオの気遣いが、逆によそよそしさに感じられた。

 「……私たちさ、魚になれなかったね」

 ナオは水槽を見つめたまま言った。

 「水として、溜まってただけ」

 修平は、皿に伸ばしかけた手を止めた。

 「水だけでも、別に今はいいだろ。濁ったら捨てればいいし、また何か迎えることもできる。……まだ澄んでるんだから」」

 それは願いに近い言葉だった。
 ナオは何も答えず、スマホを手にベッドに横たわった。

 修平は水槽のLEDを消した。途端に部屋は暗くなる。
 時折、環七を通る車のヘッドライトが、室内に影を落としていく。

 濾過器の音だけが変わらない。
 規則正しく、無関心な音を立て続けている。

 来週、この水槽は空になる。
 修平が一人で水を捨て、砂利を洗い、ガラスを拭くことになる。

 そのとき残るのは、銀色の爪が触れたガラスの感触だけだろう。
 そして修平はきっと、それをキレイとは思えないだろう。

「……おやすみ」
「おやすみ」

 それでも、水の音は止まらない。
 意味も救いも持たないまま、終わりへ向かって循環し続ける。

 水槽の中で気泡だけが浮かび、そして消えていった。
 
 白い雪は、まだ落ちてこない。


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