創作大賞感想 公務員の加賀美
まず好きになったのは、人ではなく町だった
アルロンさんの「公務員の加賀美」を拝読させていただきました。
物語を読み始めてしばらくのあいだ、私は主人公の静夜ではなく、恵黒町のことを見ていました。
朝の光が差し込む部屋。閉店時間の早いスーパー。冷房のない役場。仕事帰りに立ち寄る居酒屋の炭火の匂い。どれも派手ではありません。でも、そのひとつひとつが積み重なることで、「ああ、この町にはちゃんと人が暮らしているんだな」と感じられるのです。
不思議だったのは、読んでいるうちに恵黒町が舞台装置ではなく、一人の登場人物のように思えてきたことでした。
物語の中には、強烈な個性を持つ人たちが次々と現れます。それでも彼らを包み込んでいるのは、どこまでも大きなこの町の空気です。北海道らしい広さと、地方だからこその近さ。誰かが誰かのことを知っていて、放っておけなくて、時には踏み込みすぎる。その距離感が妙にリアルでした。
読み終えた今、私の頭に真っ先に浮かぶのは、誰かの台詞ではありません。朝の白い光や、赤ちょうちんの灯りです。
物語の舞台に「住んでみたい」と思った作品は、そう多くありません。けれど恵黒町には、数日だけでもいいから暮らしてみたい。そんな気持ちになりました。
『いい人』は、案外しんどい
主人公は、いわゆる「いい人」です。
頼まれごとは断らない。相手を立てる。誰かが困っていれば、自分のことを後回しにする。現実にも、こういう人はいます。そして、そういう人ほど、自分のことを「大した人間ではない」と思っている気がします。
読んでいて何度も感じたのは、「がんばれ」と声をかけるのがためらわれる主人公だということでした。
周囲の人たちは、主人公のことを見ています。認めています。気にかけています。でも、彼自身はその言葉を素直に受け取れない。そのすれ違いが、とても苦しくて、とても人間らしい。
特に印象に残ったのは、「いい人にはなっちゃダメだよ」という言葉です。
優しい言葉なのに、どこか切実で、少しだけ痛い。
「いい人」であることは美徳だと、私たちはつい思いがちです。
でも本作は、それが時に、自分自身をすり減らす生き方でもあるのだ、と静かに教えてくれます。
これは成長物語である前に、「優しい人が、自分のために生きることを覚えていく話」なのかもしれません。そんなふうに感じています。
豆腐サラダの記憶
読後、内容を思い返していて、自分でも少し驚きました。
なぜか私の頭に残っていたのは、仕事の場面でも名言でもなく、豆腐サラダだったのです。
もちろん、それだけではありません。トーストとコーヒー、仕事終わりのビール、湯気の立つチャーハン。思い返してみると、この物語にはたくさんの「食べる時間」が描かれていました。
人は弱っているときほど、何を食べたかを覚えているのかもしれません。
主人公が空腹を抱えて帰宅する場面には、彼の疲れや寂しさが滲んでいます。誰かと食卓を囲む場面には、言葉にならない救いがあります。そして、何気なく選んだ食べ物に、その人らしさが顔を出す。
だからきっと、私は「豆腐サラダ」を覚えているのでしょう。
大きな事件や劇的な展開ではなく、「あのとき、あの人と食べたもの」が記憶に残る。それは現実の人生にも少し似ています。
読み終えたあと、彼の履歴書ではなく、彼の食卓の風景を思い出している自分がいました。
きっとこの作品は、誰かの人生を遠くから眺める物語ではなく、隣の席に座って一緒にご飯を食べるような物語なのだと思います。
静かな朝があって、理不尽な一日があって、誰かの言葉に救われる夜がある。その繰り返しのなかで、人は少しずつ前を向いていく。
そんな当たり前のことを、こんなにも丁寧に描いてくれる作品に出会えたことが、何よりうれしい読書体験でした。
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