気まぐれが生み出した偉業?? 601日連続投稿してわかったこと。
気まぐれが生み出した偉業??
いつも深夜にひっそりと投稿しているこのアカウントですが、本日で連続投稿601日を迎えます。
思えば始めた当初は、ただの気まぐれ。
誰に届くとも知れない闇に向かって、言葉を投げ込むような行為でした。
それが、いつの間にか私にとって呼吸と同じくらい、欠かせないルーティンになっていました。
「毎日書くなんて、よくできるよね」
「ネタが尽きないの?」
「疲れない?」
正直に言います。疲れますし、ネタなんて毎日あるわけありません。
しかし、この600日という旅路(そこまでの数字でもないけれど)を通して、私はある重要なことを学びました。
それは、
書くことは自己との対話であり、自己を飼いならす技術だ
ということです。
習慣は「支配者」だった
最初のうちは「連続記録を伸ばしたい」というゲームのような高揚感がありました。しかし50日を過ぎる頃には、それは純粋な喜びではなく「義務」に変わっていきました。
書くこと自体が目的ではなく「途切れさせないこと」が目的になる。
夜遅く、今日の記事がないことに気が付くと、心が落ち着かない。焦燥感に追われ、雑な記事を慌てて投下するハメになったこともしばしば……。
私でいうところの「いやんべ記事」ですね。
あ、お初の方のために申し添えておきますが、「いやんべ」とは仙台の方言で「テキトー」という意味です。
付け加えて私は「ほでなす」でもあります。
この時期に学んだのは、習慣は諸刃の剣だということです。習慣は自分を動かす強力なエネルギーになる一方で、コントロールを失えば、それは恐ろしい支配者になります。まるで、凶暴な野獣に自分が引きずり回されているような状態でした。
思考のフィルターを「外す」ということ
この長いトンネルを抜けるきっかけになったのは、ある日の「まったく書けない」という壁でした。350日目あたりのことですが、もう本当に何も書くことがない。脳みそが空っぽ。
そのとき、私は開き直ったんです。
「書くことがないなら、書けないことを書こう」
と。
普段なら投稿しないような内側の葛藤や、誰も興味を示さないであろう日常の些細な観察を、そのままの言葉で吐き出してみました。
そうしたら、意外と反応があったんです。
共感を覚えた、というようなコメントをいただいたこともあります。
ハッとしました。私たちは書き手である前に、生身の人間です。完璧な文章や思考を、毎日用意できるわけはなかった。
この時期に私が学んだのは、
「投稿する文章は、あなたの思考の全てではない」
ということです。
完璧主義という名のフィルターを外し「今の私」をありのままに出すことで、かえって文章に深みと共感が生まれる。読者さんが求めているのは、洗練された知識ではなく、生きた息遣いなんだと気づきました。
これは、自分の中の「理想の書き手」という名の「見栄」を捨て去る作業でした。
私を「道具」として認識する
連続投稿が500日を超え、600日に差し掛かる頃には、書く行為はもはや「苦痛」でも「義務」でもなくなっていました。
それは、私という存在を一つの「道具」として認識できるようになったからです。
私が持つ知識、経験、感情、思考回路。
これらは全て、noteというフォーマットを通じてアウトプットするために存在する素材だと割り切る。
感情が動いたら「これは記事の種だ」とメモを取り、面白い現象を見つけたら「どう言語化できるか」を考える。
この視点を持つと、書くのが驚くほど楽になりました。
「八神夜宵」という人格は、日常の出来事から文章を生み出すための高性能なAIのようなもの。いや、高性能ではない。言い過ぎましたスミマセン。
そのAIを稼働させ続けるためのスイッチが「連続投稿」だったんです。スイッチを押し続ければ、AIは勝手に学び、処理し、結果を出し続けます。
創造性は、インスピレーションよりも仕組みによって生まれる。才能を待つのではなく、仕組みによって強制的に才能を引き出す。そのもっとも単純な仕組みこそが「連続投稿」でした(あくまで私の場合)。
「継続とは、才能ではなく『己を飼いならす技術』である。」
そんなようなことを、誰かが言っていたような……。
600日、文字を打ち続けて私が本当に手に入れたものは、自己肯定感と自己の再構築です。
毎日、どんなに小さなことでも最後までやり遂げたという事実は、「私には継続する力がある」という強固な土台になりました。前述したとおり、私は「いやんべでほでなす」である以上に「怠惰」なのです。
そして、毎日何かを言語化し続けるということは、自分自身を細かく分析し、定義し直すということと同じです。
書く前はモヤモヤしていた感情が、書くことで形を持ち、それを客観視できる。まるで、鏡のない世界で、毎日自分の姿をスケッチし、「今日の私」を固定化するようなものです。
この「固定化された私」を外の世界に晒し、フィードバックという名の光を浴びることで「八神夜宵」がどういう人間なのかが明確になっていったのです。
終わりに「文字は、生きる証」
600日という数字は、通過点に過ぎません。
これからも、私は私という存在を飼いならし、理解し、そして社会と繋がるための実験場として使い続けます。
もし今、何かを継続することに悩んでいる方がいたら、一つだけお伝えしたいことがあります。
それは、
「完璧を目指さなくていいから、とにかく途切れさせないこと」
です。
あなたの書いた文字、描いた絵、奏でた音は、あなたがこの世界に確かに生きた証です。その証を毎日残すという行為は、未来の自分への、最高の贈り物になるはずです。
なんか偉そうですが、歯磨きやストレッチなんかと同じで、それ自体をしなくても命に別状があるわけではないけれど、続けていくと未来の自分にいいことがあるかも知れない、そんなイメージです。
さあ、今夜もまた、深淵に向けて文字を投げ込みましょう。
それは、あなた自身の「輝かしい未来」に繋がっているかも知れません。
今年学んだこと。
——それは「継続とは、自分を理解し続ける行為だ」ということです。
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