「マタイによる福音書」第7章13節~19節「見過ごされる門」
8月2日の尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による説教は「マタイによる福音書」第7章13節~19節「見過ごされる門」。

「狭き門」と聞いて、何を思い浮かべるだろうか。昭和後期には大学受験で有名大学に現役で入ることは至難の業だった。最近では少子高齢化で以前よりは楽になったかもしれないが、超難関高はあまり変わらないだろう。しかしイエスが言う「狭き門」とは、人との競争ではなく、誰もが見向きもしない、気づかない門のことである。

「広き門」とは、滅びに通ずる門である。多くの人はここを通る。皆と同じ行動を取ると、人は安心する。「赤信号みんなで渡れば怖くない」というコントがあったが、本当は怖いことである。このような傾向は日本人には、とても強い。人は成功を願い祈る。しかし成功すると、人は高慢になる。挫折は自分の限界を教える。そのことで謙遜となり、他者を思いやることができる。そして神を求める。わざと失敗する必要はないが、命に通ずる門は狭い。この世の栄光に執着することが、滅びへの道となる。
水野源三という詩人がいた。幼少時に赤痢に罹り、脳性麻痺となって、長野県の山奥に蟄居して暮らした。しかし彼は「瞬きの詩人」と呼ばれ、苦しみの中の楽しみ、病の中の神への感謝を謳った。
◆「悲しみよ」
悲しみよ悲しみよ
本当にありがとう
お前が来なかったら
つよくなかったなら
私は今どうなったか
悲しみよ悲しみよ
お前が私を
この世にはない
大きな喜びが
かわらない平安がある
主イエス様のみもとに
つれて来てくれたのだ

「ヨハネによる福音書」第10章9節には「わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう」とある。「ヨハネによる福音書」第14章6節には「イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」とある。つまりイエスは門であり、道である。そして父なる神に通じる命なのである。そう、イエスこそは「狭き門」なのである。イエスは決して誰もがなりたい👦生き方ではない。ビル・ゲイツのようにビジネスで成功したわけでもない。大谷翔平のようにスポーツ⚾️で活躍できたわけでもない。それどころか十字架にかけられて処刑された。ある意味で人生の敗北者であって、負け組である。しかしイエスは復活によって、死に勝利した。そして私たちは罪を赦され、永遠の命を授けられた。
13節までは「狭き門」というミニテーマが与えられて。それが15節からはニュアンスが変わって「偽預言者」のテーマとなる。偽預言者とは、神の言葉を騙って、偽りを教える。羊の皮を被った強欲な狼🐺は、私たちを滅びの広い門に導く。20節からは「実によって木を知る」テーマだが、そのまま引き続いて「偽預言者に注意」でもいいくらいだ。21世紀の偽預言者について、NHKが人間の脳🧠の癖について解説した番組があった。それによれば、ある情報を繰り返されると、言われたことが本当に思えてくる。テレビ、新聞、雑誌、インターネット。SNSなどから様々な情報が入ってくる。そこには世間の声、有名人の声、占い師の声などが、私たちを説得する。概ね「物やお金が全て」という錯覚に落とされる。われわれは言われたことを、自分たちの頭で考えてみる必要がある。それは木の実を見ればわかる。木の実とは、その人の人格、生き方、教えの結果などである。イエスこそ真実の木と実であり、われわれはその前に悔い改めるべきであろう。

