2025 西部軍司令部事案及び九州大学医学部事案慰霊法要
今年も油山観音慰霊祭が開催された。毎年、福岡大空襲のあった6月20日に開催される。太平洋戦争末期に陸軍西部軍で起きた3つの捕虜処刑事件。その一つ「油山事件」にまつわる行事である。捕虜の虐待は国際法で禁じられている。亡父が油山でのB29搭乗員捕虜の処刑に関与したため、BC級戦犯となって、巣鴨プリズンに収容された。そのことから慰霊祭に、関係者遺族として参加することになった。慰霊祭を主宰しているのが、深尾裕之氏である。氏は特に事件の関係者ではないが、処刑された米兵遺族と出会ったことをきっかけに、事件を後世に伝える意義を感じて、日米の関係者に声をかけて自腹で開催して下さっている。

遠隔地故に二年に一度の現地参加としているが、今年はオンライン参加とした。それと言うのも、来年は米軍捕虜側の遺族たち(孫)が大挙して訪れるため。会場には多くのマスコミが来場し、それに加えて今年は米国🇺🇸領事館からロブ・フォース領事、在日米陸軍・従軍牧師のクリストファー・ウォレス大佐が参加。オンラインでもアメリカ🇺🇸から15人ほどの参加があった。事件関係者として、アメリカ🇺🇸からはオンラインで2人、日本🇯🇵からは現地在住の作家・冬至堅太郎氏のご子息である冬至克也氏がリアルで、そして自分も8分ほどスピーチ🎤。
◆以下は私のスピーチである↓
本日は米軍機搭乗員犠牲者慰霊法要に参加させて頂きまして、ありがとうございます。例年このような法要の開催に努めて下さっている深尾裕之さまに御礼申し上げます。
私は油山事件に関与した左田野修の長男である左田野渉です。過去に2回現地で参加させて頂いておりますが、今年はリモート参加で失礼いたします。父は平成元年に65歳で他界しましたので、既に36年が経ちました。今年と同じように日本では参議院選挙が行われ、土井たか子が率いる社会党が圧勝した選挙でした。夏の真っ盛りの7月23日で、その日のわれわれ家族は投票所に行けませんでした。油山事件も含めて、父は真夏にまつわる人生だったような気がします。
父は陸軍中野学校を卒業して日本陸軍西部軍に見習い士官として配属されました。九州は福岡県出身だった故の配属だと思います。しかし戦況は太平洋戦争も終盤も終盤で、もはや干戈を交える段階ではありませんでした。着任がもっと早ければ前線に派遣されて、今の私の出生はなかったかもしれません。ちなみに母が住んでいたのは小倉で、天候の関係で原爆投下が長崎になったので、これも天候が天候なら、私の出生はありませんでした。いっそ父の着任がもう少し遅ければ、油山事件に関わることもなかったと思います。
私は二十歳になった時に父に別室に呼ばれて、戦時の話を聞きました。父は寡黙で多くを語る人ではありませんでした。従って私は油山事件など一切知りませんでした。父は淡々と話していましたが、その衝撃的な内容に私は激しいショックを受けました。父は油山において米軍捕虜の一人を日本刀で処刑し、戦後BC級戦犯となって、岐阜県多治見市の陶器工場に潜伏しました。幸いにして三年半も逃げおおせたので、中華人民共和国の誕生や朝鮮戦争などで戦争裁判の風向きが変わって、巣鴨プリズンに三年間収監されるだけで生還しました。終戦初期の頃のBC級戦犯は片っ端から絞首刑でした。しかしながら逃亡期間中に父の家族は戦後日本の警察に拘留されて、拷問に近い形で尋問を受けました。そのために亡くなった姉妹もいたとのことでした。正直言って父から話を聞いたのは、今から47年前であり、あまりにショックだったことから何を言われたかハッキリ覚えていません。そして父はメモ魔でした。ですからその後読んだ記録と父の話しが記憶の中で混沌としています。
それでも父から伝わってきたのは「ハング」に対する恐怖でした。逃亡中は捕まった時のための自殺用にピストルを携帯していたそうです。『拳銃自殺するなら、絞首刑も同じではないか』と思いましたが、それはまったく別のことのようでした。処刑の際は上官に命じられたということで、嫌な仕事を部下に振る軍隊の不条理に憤っていました。しかし命令を拒否すれば処罰される上意下達は、現代でもそうでしょうが、当時はもっと人を強く縛っていました。そんな上官を憎みながらも、裁判では上官の罪が重くなって絞首刑にならないように配慮していたことが自分には不思議でした。処刑については指名された時のショック、自分の順番が回ってくる時の身体の震え、目隠しされた若者の怯えた様子、無我夢中で振り下ろした軍刀、掘った穴に捕虜が落ちた音、いくら刀を洗っても脂で血が落ちなかった焦りなど、本当に人を殺した者にしかわからない感触でした。ティモシー・ラング様の挨拶をお聴きして、実体験した方の語りは迫力やリアル感が違うと思いました。
父はたまたま日本で最後に逮捕されて、横浜裁判で最後に判決を受けたBC級戦犯でした。父の母である小波(さなみ)が判決の日に、原告側である米国の検事に花を贈呈したということが美談になり、雑誌LIFEの表紙を飾ったと聞いています。残念ながらその雑誌は私の手元にありません。数奇な運命に翻弄された父の体験を、たまたま私が日本フィナンソロピー協会のホームページに紹介しました。それを読んだ日経新聞の影井記者が本紙に紹介しました。それを読んだ故小林弘忠氏が、毎日新聞社から「逃亡『油山事件』戦犯告白録」という単行本を出しました。その本は日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しました。さらにその本を読んだNHKの柳川強ディレクターが、2009年に「最後の戦犯」というテレビドラマ化を5年間かけて実現しました。父を井浦新が、父の母親を倍賞美津子が演じていました。父は作家である故吉村昭先生から、創作材料として裁判資料の提供を求められていましたが(手紙も残っています)、「上官に迷惑がかかる」と断っていました。しかしその一方で残した記録は、章立てして、自作のイラストを入れた、明らかに発表を意識した構成でした。私が小林弘忠先生からの資料要求に応えたのはこのためでした。父は上官を気遣いながらも、心の中では自身の戦争の悲劇を伝えねばならないと思っていたと確信しました。よもやテレビドラマにまでなるとは父も思っていなかったでしょうけれど、油山事件の忌まわしい記憶を後世に伝えることは、子孫である私の務めだと思いました。


世界ではウクライナへのロシア侵攻、ガザ地区へのイスラエルの爆撃に続いて、イランとイスラエルの相互爆撃が始まっています。他にも北朝鮮の核問題、中国の領海侵犯、アフリカ大陸の内戦と枚挙にいとまがありません。人間は太古から歴史上ずっと戦争を続けてきました。今の地球は第三次世界大戦への緊張が満ち満ちています。科学が発達した今、日本もアメリカも他人事ではありません。80年前の悪夢がまた頭をもたげています。私たちは太平洋戦争で苦しんだ父や、異国の地で命と希望を喪った米軍捕虜の方々の悲劇を忘れてはいけません。その記憶を後世に伝えて、再び起こる悲劇を食い止めなければなりません。本日は福岡米国領事館のロブ・フォース領事、在日米陸軍従軍牧師のクリストファー・ウォーレン大佐もご臨席の中で、このような認識を共有させて頂きたいと思います。
