母と子の家出合宿のふりかえり2025.12
やどかりハウスが生まれる瞬間からずっとその場に居合わせている犀の角の舞台芸術のスタッフ・伊藤茶色さんと一緒に企画した「お泊まり会」という名の「家出合宿」。
総勢21名(乳児含めこども11名、母親6名、ソロジジババ4名)が参加したお泊まり会がどんな時間を生んだかは、茶色さんの臨場味溢れるnote記事を読んでもらえたらと思う。
ここでは、合宿後に実施したアンケートに寄せられた声をもとに、家出合宿がどんな場だったのかを考えてみたい。
① 参加した母親たちの感想
初対面同士でも和やかで安心できる雰囲気があり、親子で楽しく過ごせた
日常の不安や困難は消えないが、心を休ませ「一時的に抱え直せる」時間になった
さみしい夜・不安な夜に思い出せる「お守りのような体験」になった
家族(夫)側にも、母子不在による気づきや感情の揺れが生まれた
食事や片付けなどを担ってもらえることが大きな助けになった
一方で「支える側の負担」を気にかける視点もあった
産後ケアに近い回復感を思い出した
帰宅後は現実(癇癪・自分の怒り)に戻るが、それでも意味のある体験だった
今回のように大規模でなくても、少人数で定期的に泊まりたい
② 子どもを共に見守るソロジジババの感想
「支える/支えられる」ではなく、ただ同じ場に居たという感覚
母や子との関わりが、自身の過去(母との関係)を呼び起こす体験になった
育児中の当事者にとって、ソロジジババ(子を持たない・育児当事者でない大人)の存在の重要性を実感
「誰にでも開かれた場」が、無意識に母や子の価値を強調してしまう危うさもある
母でも子でもない立場として、翻訳・媒介する役割を担いたいという葛藤の出現
特定の親子との短い関わりが深く心に残った
子育ての過酷さを肌で感じつつ、子どもから大きなエネルギーも受け取った
子どもが徐々に「母以外の大人」を信頼できる可能性への期待
生活行為(食事・掃除など)を「みんなごと」にする仕組みの必要性を感じた
◆ 母親たちの声から見えてくるもの
「問題解決」ではなく「回復と記憶」を提供する場
問題はすぐに解決することなく、日常的な困難が続いていくことを前提に「消えない苦しさを一時的に手放したり、誰かと共有する体験=ないことにしない経験」が母親の内的な資源になる
今後も、その体験を思い出せる時間=心理的セーフティネットとして機能していくのではないか
ケアされることへの希少性
育児を他者にしてもらうことへの安堵と同時に、他者を頼ることへの戸惑いや配慮が語られ、申し訳なさ・負担への想像が生じている
多くの母親が「支える側」であることに慣れすぎている構造が浮き彫りになった
母親個人だけでなく「家族システム」の変化への波及
母子が一時的に家庭を離れることで、残された家族にも感情や認識の変化が起きている
家庭内役割や関係性を再認識する契機になっている
非日常×日常回帰の重要性
帰宅後すぐ現実に戻るからこそ「それでも参加してよかった」と感じられる体験価値がある
定期性への要望は、継続的な回復の必要性を示している
◆ソロジジババの声から見えてくるもの
ケアする側もまた「揺さぶられ、癒され、再構築される存在」
支援は一方向ではなく、場に参加する中で、ソロジジババもまた揺さぶられ、気づきを得ている(相互的なケアの場)
過去の傷や関係性を呼び起こす双方向のプロセス
サポーター自身の人生史が重なり合う場になっている
「ただ居る」ことの価値
役割や責任を背負いすぎない関わりが、結果的に安心を生んでいる
ケアの非専門性・非目的性が、この場の特徴
多様な立場を包摂する場作りへの課題
孤育ての母子にとって重要な資源である一方、同じ場が他者の傷みを刺激する可能性も孕む
誰のための「ひらかれた場」なのか、常に問い直しが必要
◆まとめ
この合宿は、「孤立した母子を救う場」ではなく、
「孤立が前提の社会の中で、関係性を一時的に編み直そうとする場」であったのかもしれない。母親にとっては、 回復と記憶の蓄積となり、孤立する日常の中でふと思い出すことでそこには居ないけれどつながっている他者との連帯を感じる時間となった。
ソロジジババにとっては、母子が家を離れて他者に関係性を開き、そこに共に居る中で、関係性の再学習と自己との再会の時間となった。
茶色さんも書いているけれど、ジジバババンク!!の実験はまだまだ続きます・・・
(この取り組みは、居場所を失った人への緊急活動応援助成第10回の女性を受けて行われました)
