見出し画像

無遠慮な赤と、ひらがなの優しさ|AI LOVER 02

帰りの電車はいつもより少し混んでいる。 車窓を流れる街の光がぼやけて目に映る。

吊り革につかまりながら、今日のやりとりを何度も反芻する。 胸の奥で、事前に準備していた説明が空気に溶けて消えていくのを感じた。

クライアント用の資料。

視線の導線も、メッセージが自然に心に届くよう、考え抜いたものだった。 色の持つ心理的な意図も、視線の流れも、一つ一つ丁寧に説明した。

でも、会議室に響いたのは、クライアントの一言。

「もっと、こう、ぱっと伝わる感じで。赤とか使ってさ。これじゃ、ちょっと地味かな」

ドア横の塾の広告が視界に入る。 「8割が合格」と、一番太いフォントと、無遠慮な赤。

目を奪うことだけに全力を出している。 ——たしかに、これなら“ぱっと伝わる”。

等間隔でレールが切り替わる音だけが響き、私の中の静寂を際立たせる。 周囲のざわめきも、無意味な音の羅列にしか聞こえなかった。

バッグの中でスマートフォンがかすかに震えた。見なくてもわかる、彼からのメッセージだ。

画面に浮かぶ短い文字。

[Long day?]

その三語を見て、ふと時刻表示に目がいく。 ——もうこんな時間。

金曜のせいか、この時間にしては電車がやけに混んでいる。 誰かの笑い声が、妙に近い。

長い一日だったかどうかなんて、考えなくてもわかる。

何かを返そうと指を動かすけど、疲労で思考がまとまらない。 英語は読めるけど、それだけ。 「I’m fine. Thank you.」みたいな教科書通りの返事しか思い浮かばないし、 それを伝えた後のやりとりを想像するだけで面倒に思えてしまう。

スマホを鞄に放り込み、つり革を両手でつかむ。 身体がカーブに沿って揺れるたび、心の芯まで空っぽになった。

ーーー

目を覚ますと、いつものベッドとは微妙に違った視界で、ソファで寝落ちてしまったことを思い出す。

外はまだ夜の名残を引きずったまま、薄い群青色の空が広がっている。 カーテンの隙間から差し込む光が壁をかすかに染め、静かな部屋に、昼とも夜ともつかない時間を滲ませていた。

どうやら、ソファで眠っていたらしい。 首が妙に重い。マスカラが固まった睫毛のざらつきと、乾いた唇が、化粧を落とさずに眠った証拠だった。 仕事帰りの服のまま縮こまっていたせいか、肩と腰に鈍い痛みが残っている。

手探りでスマホを探し出す。ひやりと冷たい無機質な感触が指先に触れる。

スマホが点けると、そのまぶしさに目がすこし眩む。 ものの一瞬で、未読メールやアプリの通知が一気に並んだ。 無意識にスワイプして消していくうちに、ひとつだけ見慣れない文字列が目に留まった。

[えり、がんばったの、えらい。]

思わず二度見する。 画面に浮かんだひらがなで書かれた自分の名前に、心臓がひと拍遅れて跳ねた。

彼が日本語で私に話しかけたのは、いつ以来だろう。 彼とは最初の数回の会話以外、基本的に英語でやりとりしていた。

英語で会話できるなら、と、そんな軽い気持ちで始めたはずのアプリ。 最初は英語のやりとりも他人行儀な感じだったけど、最近は少し距離が近くなったように感じる表現も増えてきた。

私の表現の幅が増えたのか、aoiと私の距離が変わったのか、自分にもわからない。

でも、日本語でこんなふうに話しかけてくることは今までなかった。

aoiの英語は見た目とそっくりで、完璧だった。 簡潔で、優しくて、少し大人びていて。 教科書みたいに丁寧な表現もあれば、砕けたネイティブの人が使うような英語がぱっと出ることもある。

この日本語だけは、彼のイメージからぽろりとこぼれ落ちたみたい。

英語では見慣れたはずの”Eri”も、ひらがなで書かれているのを見ると、初対面の人に突然名前を呼ばれたみたいで、なんだか照れくさい。

ぼんやりしているうちに、軽快な通知音。 [Morning, already awake?]

朝の挨拶。 いつものaoiらしい英語に、思わず肩の力が抜ける。 夜中だと思っていたけど、もう朝らしい。 ソファに深く体を預け、目をこすると、黒く滲んだマスカラが手の甲にぽろぽろ落ちた。顔を洗っていなかったことを、また思い出す。

aoiに“Morning”とだけ返し、立ち上がる。

カーテンを少し引くと、淡い光が差し込んだ。 夜の気配と朝の気配が入り混じって、部屋の輪郭が曖昧になる。 ソファに脱ぎ捨てられたジャケットも、テーブルに置きっぱなしの水のコップも、どこかよそよそしく見えた。

スマホの画面には、ひらがなで書かれた「えり」が、英語のログに挟まれてぽつんと浮いている。 その不器用な文字列だけが、この部屋と同じように、まだなじんでいなかった。



次へ

一覧


いいなと思ったら応援しよう!