ニアジエア
朝、台所のシンクの中で、ハエトリグモが滑っていた。
壁や天井を平然と歩くくせに、濡れたステンレスだけは勝手が違うらしい。
銀色の曲面を、脚だけが忙しく上下している。
熱い鉄板の上で踊らされているみたいだった。
けれど身体は、少しも前へ進まない。
登っては、あと少しのところで、するりと底へ戻る。
そのたびに小さな身体がかすかに跳ね、また何事もなかったように同じ場所へ向かっていく。
濡れた脚先の毛が、光を細く弾いていた。
私は蜘蛛が好きじゃない。
それでも、シンクの中で見る彼らは、部屋の壁を歩いているときよりずっと貧相だった。
私は蛇口をひねる手を止めた。
朝食の皿はまだ泡のついたまま流しに積まれている。
水を流せば、この小さな生き物はもっとひどく翻弄されるだろうと思った。
その朝の私は、珍しく余裕があった。
生かすか、流すかを決められるくらいには。
助けようと思えば、すぐ助けられる。
紙を一枚差し出して、そこへ乗せてやればいいだけだ。
そう思って、メモ帳を一枚ちぎり、そっと蜘蛛の前に置いた。
白い足場は、濡れた金属よりずっとましに見えた。
けれど蜘蛛は、その意味を知らない。
紙の縁に触れかけて、ふいに向きを変え、また銀色の斜面へ向かった。
何度も。
何度も。
見ているうちに、私は少し苛立って、少し可笑しくなった。
指先を差し出すと、蜘蛛は立ち止まった。
二本の前脚だけを持ち上げて、しばらくこちらを見ているようだった。
それから、何を納得したのか、私の爪へ移った。
正面の二つの目だけが妙に大きい。
こちらを見ている気がするのは、そのせいかもしれない。
窓を開けると、外の風が流れ込んだ。洗剤と朝の湿気の混じった部屋の空気が押し出され、遠くで車の走る音がした。
ほとんど出ないベランダは、手すりも、足元も、時間が積もってざらついていた。
私は蜘蛛を、ベランダの手すりへ移した。
向かいのマンションの窓が、目の高さに並んでいた。
蜘蛛はしばらく動かなかった。
ここがどこなのか考えているようにも、何も考えていないようにも見えた。
やがて細い脚をひとつずつ動かし、手すりの端まで歩いていく。
私は少し離れて、その背中を見ていた。
その向こうには、普段は茶けた窓から見ていた街があった。
信号を待つ人も、走る車も、ここからでは音だけが届く。
蜘蛛は端で立ち止まり、するりと手すりの外側へ回った。
思わず身を乗り出す。
もう、どこにもいなかった。
壁を歩いていったのか、糸を垂らしたのか。
それとも落ちたのか、私にはわからない。
私は手すりに手を置いた。
さっきまで蜘蛛がいた細い金属は、朝の空気を吸って冷たかった。
身を乗り出すと、風が頬を抜けた。
道路を歩く人は、思っていたよりずっと小さい。
誰も上なんて見ていなかった。
私も、ここから飛べるだろうか。
