するり
耳からイヤホンが抜ける感覚を、まだ身体が覚えていた。
電車が揺れるたび、隣に座った男の子のイヤホンコードが、彼の膝の上で小さく跳ねた。白いコード。両耳に一本ずつ、Y字に分かれている。
彼はスマホを鞄にしまったまま、コードだけを指でくるくると巻いていた。音楽が鳴っているのかどうかもわからない。
ただ、コードを巻く指の動きだけが、規則正しく続いていた。
急ブレーキで、傘が少し倒れた。
露先が、隣の男の子のイヤホンのコードを拾う。
細い白い線が、一瞬だけ私とつながった。
思わず、手の力を抜く。
あと少し引けば、耳からするりと抜けてしまう。
あの感触を、身体は知っていた。
昔は、よく友達のイヤホンを引っこ抜いていた。
後ろからコードをつまんで、ほんの少しだけ引く。
耳から外れたイヤホンを押さえながら振り返る友達に、「ねえ」と声をかける。
名前を呼ぶより、ずっと早かった。
振り返った友達は、少しだけ迷惑そうな顔をして、それでも笑った。
「なに?」
その一言だけで、十分だった。
抜き取ったイヤホンを、確かめもせずそのまま自分の耳に入れる。
大抵、二人で好きだったバンドの曲がかかっていた。
イントロの途中からでも、何のアルバムの何曲目かは、聴かなくてもわかった。
歌詞の、ちょうどサビの手前あたりで、友達がこっちを見る。
「でしょ」と言うみたいな顔をする。
何も言わなくても、それで通じた。
あの頃は、何かを伝えたいとき、言葉より先に線を引っ張っていた。
鞄の中では、イヤホンはよく絡まった。
何度ほどいても、次の日にはまた固く結ばれている。
だから、ワイヤレスイヤホンが出たときは、これでようやく自由になれると思った。
コードは絡まらなくなった。
鞄の中も、ポケットの中も、ずいぶんすっきりした。
「すみません」
隣の男の子が、小さく頭を下げた。
ほんの一瞬、眉のあたりに、面倒そうな色が浮かんで、消えた。
彼はイヤホンのコードを指でつまみ直すと、何ごともなかったように、また丁寧に巻き始めた。
私は慌てて傘を持ち直す。
私の傘の露先と繋がったコードは、するりとほどけた。
電車が完全に止まる。ドアが開く音がして、男の子は一度もこちらを見ないまま、人の流れの中に降りていった。
白いコードだけが、最後まで、彼の指の中で巻かれ続けていた。
私は、耳からイヤホンが抜ける感覚を、まだ身体のどこかで待っている。
