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母との別れ【看取り体験記】有料

令和6年1月5日に母は82歳の生涯を終えた。

noteを始めたのは今年4月
母が亡くなって3か月たったころ。

仕事や家事の間は忘れている母のこと

ふとした時に思い出して立ち止まる自分。

なにか新しいこと始めなくては

そうだ。最近話題のnoteだ!

流産経験のブログをnoteにうつそう!

そういう作業に没頭していれば
死んだ母のことを考える時間がなくなる。

そこから始まったnoteだった。


一周期を終え、母の死を
文字に残す作業をしようという気持ちになりました。

長文です。今回初めて有料記事とします。
ひとつの体験記として読みたい時が来たら、手に取って読んでいただければ幸いです。

今身近な人を看とり中という方、また今後そういった状況に直面したとき
他の人はどんな気持ちだっただろう?
どうやってその時間を過ごしたのだろう?

大切な人が余命宣告を受けた時、最後の時間をどう過ごしたらいいのか
死んでいく人に寄り添うということは、不安で悲しいしやっぱり怖い。
さまざまな感情が湧いてきて揺れ動きます。
揺れる感情のまま迎えた母との別れの瞬間までを綴っています。


途中までは無料で読めます。




【はじめに】


母が老衰、寿命だと言われてから息を引き取るまでの2か月、自分の弱さ、心の狭さ、ずるさを思い知りました。今でもあの時のあの場所にひき戻される時があります。福岡と島根、側にいられる時間は限られていました。頭では、母の寿命を受け入れる準備が出来たつもりで覚悟を決めて過ごしていました。いつ危篤の知らせが来ても動じないように。
しかし現実は違いました。あんなにハツラツとしていた母親が日に日に弱っていく姿を見るとどうしようもなく悲しく虚しくなり、死への恐れと自分の無力さを嘆き、どこにもぶつけることの出来ない憤りのようなものを抱えて過ごす日々。

そんな日にも、終わりがやってきました。

母の意識がなくなっていく瞬間と
息をスッと吸って命を終えた最期の瞬間もただ一人、私は側にいました。

あの日からもうすぐ1年になろうとしています。

今感じるのは
別れは辛くて悲しい。けれど
別れたことより、縁あって母娘でいられたこと
私を産んで育ててくれたこと、出会えたことを喜び感謝したい。
もう会えない寂しさよりも何百倍も
出会えた幸せ、明るい笑顔に包まれていた幸せな日々の方が大きい。
そのことを決して忘れないで生きていく。



【1章】2024年1月5日19時2分


1月5日19時2分 母は息を引き取りました。
82歳、老衰。
まさかこの日に亡くなるなんて。
1月5日に福岡から島根に帰ることを決めたのは前日1月4日の昼
仕事が始まる前に、直接会って新年の挨拶をしておこう!
1月4日の昼、姉と妹に「明日5日に帰る」と連絡しました。


母の自宅(実家)から車で5分の病院312号室
ついさっきまで昨年結婚した孫なっちゃんが、母の横に座って話かけていた。話が終わり、涙で赤くなった目を私に向けて
「yaaちゃん、なんか食べた?」
「食べてないけど大丈夫。なっちゃん仕事帰りやろ?
看護師さんに聞いたら、この状態(下顎呼吸)がどのくらい続くかはわからないって。夕食食べてからまたおいで。みんな一旦家に帰ってなんか食べてくるって言ってたよ。なっちゃん、間に合ってよかったよ、おばあちゃん、声は最後まで聞こえるらしいから」
「わかった、じゃあ帰ってまたすぐ来る!」
そう言ってなっちゃんが病室を出たのが18時50分だった。

下顎呼吸は見ている方は苦しそうだけど、本人はもう意識がないから苦しみを感じないという。
うちの子も含めて総勢8人の孫が危篤状態の母と、電話であったり、対面してお別れの言葉を伝えたことになる。
ふと私は7時のニュースでもみるかとTVのリモコンを探し始めたその時だ。
ベッドサイドモニターの音がピーーッとなった。
若い看護師さんが慌ててやってきて
『脈が止まりそうです。ご家族にすぐに連絡を。
 主治医をよんできます』と足早に病室を出た。

すぐ姉と妹に電話をした。そのあとすぐ母の左手を握って
耳元で大きな声で話しかけた。まだ口元(下顎)は動いている。

意識がなくなっても声は聞こえる、最後まで話しかけてあげてください」という看護師さんの言葉を信じて

『おかあさん!娘三人を産んで育ててくれてありがとう。
 〇子・yaa・〇美、願い込めてつけてくれた名前の通り、娘3人しっかりやっていくから!』
まだあたたかい母の手を握りながら、耳の遠い母に届くようにと大声で私達3姉妹の名前を泣きながら叫んだ。

次の瞬間、下顎で吸って吐いてを繰り返していた母の呼吸が止まった。
最後、吸って、、、終わった。私はずっと母の顔、呼吸を見ていた。
吸うと同時に目をカッと最後見開いたような気がした。

私の頭の中は、幼少期から最近までの母との思い出が断片的に次から次へと蘇る。他愛のない日々の中、微笑んでいる母の顔しか浮かばなかった。
そのあと姉と妹がやってきて、呼吸が止まっている母に各々最後の最期の想いを伝えお別れをした
バタバタと主治医がやってきて
脈と瞳孔を確かめて
「19時18分死亡確認いたしました。」
82歳、天寿を全うした。


【2章】2か月前

母転ぶ救急車(令和5年10月29日)

10月29日(日)夕方
姉からの電話。
「お母さんが転んでひざを骨折した、今救急車で米子の病院」
日曜日の夕方家の周りを散歩途中よろめいてブロックで膝を打ったようだ。
転んだわけではなく打撲からの骨折らしい。
もともと瘦せていたので筋力がなく、この年の春頃から食欲もなかった。
甘いものは好きで、和菓子やアイス、プリンなどは食べていたようだが食事は、ほんの少し。家族一緒の夕食、食卓につくもののちょっと食べてダイニングからすぐ自分の部屋へ戻り、ベッドで横になって過ごすことが多かった。

このころ母は電話で
とにかく転ばないように
大事なものをなくさないように
みんなに迷惑をかけないように
一日一日無事過ごせるよう、それだけだわ。

長生きするのも大変だわ。と話していた。

私は手術前、母の携帯に電話をした。
「全身麻酔でお姉ちゃんもついてるし、大丈夫。」
「私はなんでここの病院にいるの?明日手術?怖いわ~」
自分が転んだこともあいまいな記憶になっているようだった。
11月3日に手術が無事終わり、リハビリ頑張って1か月半で退院の予定だった。個室から大部屋にうつったころ、私が母の携帯電話にかけても出なくなりメールも読まなくなった。病院の食事も食べなくなり、リハビリも痛がってなかなか進んでいないと、姉妹から連絡があった。
それでもまだこの頃は、母の容態を重く受け止めてはいなかった。
きっと一時的なもので、またやる気になってごはんも食べるだろうと呑気に考えていた。

【3章】1か月前

近くの病院に転院(11月28日)

食欲も戻らず、リハビリも進まないまま車いすでの転院となる。
この時体重は30キロしかなかった。

転院先は実家から車で5分の病院だ
そこは母にとって馴染みのある病院で、肺炎で入院したり、定期的に認知症の検査、週に一度リハビリにも通っている田舎の総合病院だ。
転院の日、私は福岡から新幹線とやくもを乗り継いで米子の病院に向かった
母を車椅子のまま福祉タクシーに乗せてもらい、母の横に座り約30分
息子や旦那、義父母の話など思いつくまま話しかけた。時折頷き私の手を強く握る。

何か食べたいものは?
うなぎは?アイスクリーム?饅頭?
母の好きなものを言ってみた。

うなぎに少し目を輝かせたような気がしたが、目を閉じた。
タクシーの窓から外の景色を見ることもしない。
あっという間の30分間、病院へ到着した。
病院には同居しているひ孫二人娘が保育園を休んで待ち構えていた。車いすの母に駆け寄り「ばあば~」と母の手にタッチした。
母はニコっとしたがすぐ険しい表情に変わった。
ここでまた入院?足が痛いからリハビリなんて嫌だ」と言う。
一緒にいた妹が母に
ここは家から近いし、よく来てる病院だからリハビリして退院できるようにがんばろうよ!私も毎日仕事帰りに来るよ」と話しかけるが、不安そうなしかめっ面は変わらなかった。

【4章】余命宣告

転院先でもとろみ食を一口も食べることなく点滴だけの生活になる。
12月2日土曜日姉から電話があった。母の血圧が低く頻脈も出ているとのこと。家族は念の為病院へ来るようにと。
かなり動揺した。ちょうど土曜日、私は1泊の準備をして新幹線に飛び乗った。容態は落ち着いたものの、その日から私たち家族、親族は面会いつでもOKとなった。ただし、一日3人までで中学生以上。
この頃主治医から余命宣告を受ける。
お母様は嚥下機能も衰えていて、老衰と考えていいでしょう。早くて年内、長く持って1月中旬です。
間質性肺炎・膠原病などの持病があって、よく頑張って今まで生きてこられました」

直接主治医からこの言葉を聞いた私達、
主治医の言う通りなんだろうと自分たちに言い聞かせた。


【5章】延命治療

次に主治医から聞かれたことが延命治療について。
嚥下機能が衰えているが胃腸は丈夫なので胃ろう、または経鼻管での栄養摂取はどうですか?
これに対して私と姉は以下の質問を主治医にぶつけた

・鼻から管を通しての栄養摂取は一時的なもので、いずれ口から食べられるようになるのか?

これに対して
それはほぼ望めない】との答えだった。
おいしいものが大好きで美食家だった母。
味のわからない流動食を鼻から管で入れられるのは苦痛でしかないだろう。寝たきりで生きていくことは望んでいなかった。
私と姉は胃ろう・鼻から管を通す栄養摂取を断ることにした。
点滴に関しても最低限の水分補給栄養補給だけの点滴をお願いした。
母が認知症になる前に話していたことを優先すべきと考えたからだ。

痛いのは嫌、延命治療はしなくていい

はじめ1000ml 1Lだった点滴も、12月14日から500mmに減らすことにした。
自分で飲み込んだり吐くことができないので
痰の吸引を看護師さんにやってもらうけど、これがとても辛そうだった。

【6章】【1月4日】前日 嫌な予感

午後、姉からラインが届いた
母の様子と写真も一緒に送ってくれる。そこに写っていた母は目がうつろで1月2日の写真よりもさらに覇気がなくなっている。
私は決めた。
「明日帰るわ。新年のあいさつをしに」と姉と妹に伝えた。
姉はすぐに返事をくれた。
「わかった、ありがとう。私は明日は仕事に行くから新しい下着を玄関に置いておくね。持って行って。気を付けて帰ってね」

この日の夜23時頃、次男が私のところにやってきた。
さっきふくらはぎがブチっていった、多分肉離れ」
嫌な予感がした。次男はこの日友達と遊び、サッカーを遅くまでして疲れて帰ってきた。
明日は高校始業式後、新年早々【実力テスト】があるというのに。

「ブチって?痛い?明日朝病院行く?」
「ストレッチしてのばしたらブチって音がした。
痛い、けどテストは休みたくない」
「シップして寝て、明日朝決めなさい。私は島根に帰るけど整形外科一緒に行ってからでもいいから。」

右ふくらはぎ【肉離れ】?
母も右膝だった。なんとなく嫌な予感。


【7章】【1月5日】最後の対話

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