「飽きることは、悪い」を再解釈してみた
僕は昔から、ずっとミーハーだと言われてきた。
新しいもの、洋服、未知の体験が大好きで、
興味関心があちこちに移る。
一つの場所に腰を据えるタイプというより、
インドア派のくせに、友だちから
「遊牧民みたいやな」、と言われたこともある。
当時は、少し皮肉のように聞こえた。
落ち着きがない、と言われている気もした。
今思えば、まぁ、当たっていると認めよう。
一般的に「続けること」は美徳とされる。
令和になっても。
三日坊主はよくない。
飽きっぽいのは短所だ。
何かを始めたら続けるべきだ、
という価値観を感じるシーンは多々ある。
時代が移り、変わって来ていると思うが、
「すぐ辞めること」がニュースになるのだから、
やはりまだ「理解し難い感覚」なんだと思う。
でも、過去「飽きっぽい偉人」がいたとして、
仮に「諦めの名言」みたいなものを残しても、
あんまり、見たことはない。
調べれば出てきそうだが、
そういうことではない。
もちろん、
本当に好きなことと出会い、
ずっと続けられていて幸せなら、
それは本当に素敵なことだと思う。
でも、義務感や世間体で続けているものまで、
「続けている」という事実だけで
正当化されてしまうのは、ちょっと息苦しい。
そこで静かに提唱したい。
飽きることは、「関係の終わり」じゃない。
距離が変わっただけ、と考えてみてはどうか。
好奇心が移動する。
視線が横にずれる。
それだけの話なのに、「飽きた」という言葉は、
やけに強く受け取られがちではないか。
棚上げ、開き直りでは決してない。
考えてみると、
飽きるから選べる。
飽きるから比べられる。
飽きるから、自分の輪郭が見えてくる。
そして不思議なことに、
人は本当に大事なものには、また戻っていく。
少し距離を置いたあとで、
前より静かに、でも確かに。
逆に言えば、
掘り返しても何も出てこないのに、
惰性で続けているものほど、
手放すきっかけを失っていく。
飽き性で得をしたことも、正直たくさんある。
無理に合わない場所に居続けずに済んだし、
「これは違うな」と思えたことで、
次の選択肢に早く辿り着けた。
続けられなかったことを、
全部失敗だと数えていたら、
今の自分はたぶん残っていない。
飽きる瞬間は、永遠の別れじゃない。
「今はここじゃない」という、
心のサインみたいなものだ。
こんな価値観を表に出していいか、
ちょっと迷ったりしたのだが、
1人でも共感してくれる方が、
どこかにいると信じて、
書いておくことにする。
飽きることは、悪くない。
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