「メディテーションズ」 インパルスのコルトレーン 8 John Coltrane on Impulse 8 "Meditations"
今回は「メディテーションズ」。
個人的にこの作品がコルトレーンの中で一番の愛聴盤である。特にB面は構成、演奏ともに文句のない出来だ。
レコーディング・セッションは65年の11月23日にヴァンゲルダー・スタジオで行われたのであるが、コルトレーンが存命中に発売されたもので、これが最後のマッコイ・タイナー、エルヴィン・ジョーンズ参加のセッションということになる。黄金のカルテットがここで終焉を迎えた。
他にファラオ・サンダーズがレギュラー・メンバーとして参加、さらにラシッド・アリが加わり2ドラム体制となった。
以前にも書いたがこのアルバムは「A Love Supreme」の発展形であり「A Love Supreme」がハリウッドの大作映画のような、ある意味ポピュラーなものであったとすると、この「Meditations」にはニューシネマ的思い切りの良さがあり、潔さがある。しかも難解なわけではなく、ある種のトリップ体験を聴くものに与えることに成功していると思う。
まずはいつものようにナット・ヘントフのライナー・ノーツからコルトレーンの発言を拾ってみよう。
「この生命統一の『力』(フォース)に一度気づいてしまったら、それを忘れることはできない。それはあなたの全ての行為の一部となる。常に『力』(フォース)と共にあるのだが、私の『力』(フォース)に対するコンセプションが形を変え続けるゆえに、この作品は「A Love Supreme」の延長だと言える。」としている。
『生命統一の力』(this force for unity in life)に覚醒後、その力の概念(conception)は彼の中で形態を変え続けており、それゆえ作品が生み出され続ける...のだと彼は創作の源泉を語っているわけだが、この発言は、この論理というか確信を源泉に、多様な作品が生み出されて行く可能性を同時に示唆している。このようにフォースに目覚め期待に満ちあふれていたコルトレーンであったが、このセッションのほぼ1年半後に亡くなるのである。
他にも、今回採用した2ドラムに関して発言しているのだが、「より多くのタイムとリズムに囲まれる必要を感じた。」とし、「ドラムを複数にすることで、リズムを多方向的にできた」としている。ファラオに関してもコメントしていて、「彼の演奏の強さ、演奏への確信が好きだ」とし、さらに「彼は意志とスピリットを持っている。それらは人間の持つクオリティーの中で私が最も好むものだ」とした。
さて、内容であるが「A Love Supreme」同様組曲として構成されており、
A面がThe Father And The Son And The Holy GhostとCompassionの2部
B面がLove, Consequences, Serenityの3部
からなっている。
A面は集団即興演奏の冒頭によくあるタイプのパルス音が連発される中、テーマの提示が始まる、このテーマはB面の「Love」でも主なテーマとして登場する。
その後すぐにコルトレーン・ソロ、強いて言えば前作の「Vigil」に連なるような演奏で、本人はこの作品を「A Love Supreme」の延長としているが、こと演奏面でのやり方は「A Love Supreme」とは全く異なっている。次にファラオのソロが続くが、これはこの時点でのファラオの典型的演奏である。シャウトし続けるその在り方は、コルトレーンに影響を与えずにおかない。そこから2本のホーンでの冒頭と類似のパルスとテーマの世界が再び現れる。
その後リズムが3拍子に変化し、マッコイのソロ。ここから「Compassion」が始まったのかブリッジなのかは不明であるが、この3拍子は「My Favorite Thing」的なものからは随分離れており、よりアフリカ的という表現が当たるのではないであろうか?
そしてコルトレーンが登場。強いて言えば、「A Love Supreme」の終章のような、祈祷文的な訥々とした語り口のメロディーが奏されこの章は終結へと向かう。
さて、B面であるが、この面は個人的に一番よく聴くコルトレーンである。
「Love」で現れるテーマは螺旋状に旋回し続け、上昇を続ける無限音階のようなイメージを与える。目の前に無限の階段が現れ、行きつ戻りつ障害もありながらではあるが、しかし螺旋状に旋回しながらどこまでも上昇し続けるのである。この螺旋状のメロディーに関しては「A Love Supreme」からの着実な進歩を感じる。「A Love Supreme」では上昇しきれないもどかしさが付いてまわったが、その解答がここで見出された感がある。
ビブラートをかけたテーマのリフレインとともに上昇は終わる。そこにファラオ・サンダーズが参入。しばしパルス的フレーズのアンサンブルがあった後、ファラオのシャウトが始まる。すると今度はどこかに引きずり込まれて行くような感覚に襲われる。ファラオのシャウトは果てしなく力がかかり続けるようなシャウトで、激烈に回転し続けるブラック・ホールのコアのようなイメージである。別の表現を探すと、過重な重力の中をのたうちまわっているようなイメージでもあり、とてつもない力の果てのない現れのようでもある。僕はこの部分でフランシス・ベーコンの一連の絵画を想起する。(ベーコンに関しては別稿あります。http://condenegra.blogspot.jp/2013/05/francis-bacon.html)この部分が「Consequences」に当たるのだろう。
そこに、再度コルトレーンが登場する。ハイトーンで息も絶え絶えな中、身体の最深部から聞こえてくる呼吸のような音。その後再び短いパルスの提示があり、この頃のコルトレーンお気に入り鈴の音が聞こえ、マッコイ・タイナーのピアノ・ソロが始まる。導入は下降を続けるチムチムチェリーのモチーフを使ったものである。例によってラジオ・ボイス的にレンジの狭いピアノの音であるが、ここではそれが適切な場を得た音に聴こえる。ここはナット・ヘントフの解説によると「Serenity」へのブリッジということになっているが、前章の果てしない力が消え、一旦弛緩、緊張からの解放が体験される。
そして、何度も同じ表現になってしまうが、祈りのようなコルトレーンのテナーのメロディーが始まる。ここからが「Serenity」ということになる。このメロディーが「Serenity」というには途中随分な盛り上がりを見せる。2つのドラム、ベース、ピアノという編成なのであるから盛り上がりがちになるのも当然であるのだが、最終的にはやはりビブラートのかかったコルトレーンのフレーズをビブラートのかかったファラオによるリフレインが引き継ぎ、その最終音が引き延ばされる中、フェイド・アウト的に音が消え去る。
このラストは前作の「Welcom」のようなピース・フルなイメージへの最終解決ではなく、終わらない、解決に至らなかった中で静寂へ移行する、といった印象である。この微妙な余韻が長く尾を引き、「Meditations」を中毒性の高いアルバムとしている。
コルトレーンは以下のような発言している。意訳の上拙訳ですが...
「終は決してない。常に新たなサウンドが想起され、新たな感覚をつかむ。それには、常に感覚やサウンドを純粋に保つ必要がある。その保ちの故に、その純粋状態の中での発見を現実的に見ることができ、故に自分自身をよりクリアに見ることができる。そのようにして我々は「エッセンス」に耳を傾ける者たちに、我々のベストであるところの我々自身を与えることができるのだが、都度そうするために、我々自身の内部の鏡を常にクリアに保ち続けなければならない。」
ナット・ヘントフはこの言を受け、「メディテーションとは、その都度可能な限り遠くまで見とうせるように、自身の内なる鏡をクリーンにする行為であり、音楽を、自身ができ得る限界まで赤裸々であるようにするための行為である」とし、彼の論考を終えている。
彼の言を引き継ぐと、この「Meditations」は純粋状態を保つための体験であり、このアルバムを聴く行為はそのためのトリップ体験である。
として、僕の論を閉じようと思う。
