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【つの版】倭の五王への道06・東国遠征02

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

引き続きヤマトタケル(日本武尊・倭建命)の東国遠征伝説を『日本書紀』をベースとして見ていきます。前回は出発から尾張に来たところまでです。

◆HE◆

◆RO◆

尾張から駿河へ

経路は記紀にはありませんが、海路で通り過ぎるよりは後背地の豪族の支持を取り付けておいた方が戦うには安全ですから、陸路で三河・遠江を通ったのでしょう。大府・知立・安城・岡崎・湖西と伝承地があり、吉見から船で浜名湖を渡ると浜松市の雄踏(おぶみ)に着いたといいます。しかし浜松からは馬込川を下って遠州灘に出、海路で焼津に向かったとされますから、遠江国(磐田市)や久努国(袋井市)や素賀国(掛川市)には踏み込まなかったわけですね。あるいは別働隊が平定したのでしょうか。

焼津

日本武尊初至駿河、其處賊陽從之欺曰「是野也、糜鹿甚多、氣如朝霧、足如茂林。臨而應狩。」日本武尊信其言、入野中而覓獸。賊有殺王之情王謂日本武尊也、放火燒其野。王、知被欺則以燧出火之、向燒而得免。一云、王所佩劒藂雲、自抽之、薙攘王之傍草。因是得免、故號其劒曰草薙也。藂雲、此云茂羅玖毛。王曰「殆被欺。」則悉焚其賊衆而滅之、故號其處曰燒津。(日本書紀)

駿河に赴くと、賊徒が欺いて草原に誘き出し火を放ちます。そこで尊は火打ち石で迎え火を焚き、炎を退け生還しました。それでこの地を「焼津(やきつ)」といいます(現静岡県焼津市)。また天叢雲剣で草を薙ぎ払い、それで草薙剣と呼ばれたともいいますが、もとは八岐大蛇より得たことから(あるいは剣を蛇にたとえて)「奇し蛇(くし・なぎ)」の剣と呼ばれたのだともいいます。見栄えがして派手なシーンなのでウキヨエもあります。

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地名伝承とは元あった地名に新たな意味を被せるものですが、焼津の地名はなんと天然ガスが噴出して燃えていたからという説があり、実際天然ガス田が存在します。事実は神話より奇なり。

故爾到相武國之時。其國造詐白。於此野中。有大沼。住是沼中之神。甚道速振神也。於是看行其神。入坐其野。爾其國造。火著其野。故知見欺而。解開其姨倭比賣命之所給嚢口而見者。火打有其嚢。於是先以其御刀苅撥草。以其火打而。打出火。著向火而。燒退。還出。皆切滅。其國造等。即著火燒。故其地者。於今謂燒津也。(古事記)

古事記では駿河の賊徒ではなく相武国造の仕業とされますが、相模(神奈川県)に焼津はありませんし、駿河との間には伊豆があります。焼津から相模までの経路は不明ですが、陸路を取って静岡・富士宮・熱海・御殿場から足柄坂を抜け、相模の各地で反乱者を平定したという伝承があります。相模でも焼かれかけたのでしょうか。古事記だと足柄坂は帰り道に通っています。

走水

亦進相摸、欲往上總、望海高言曰「是小海耳、可立跳渡。」乃至于海中、暴風忽起、王船漂蕩而不可渡。時、有從王之妾曰弟橘媛、穗積氏忍山宿禰之女也、啓王曰「今風起浪泌、王船欲沒、是必海神心也。願賤妾之身、贖王之命而入海。」言訖乃披瀾入之。暴風卽止、船得著岸。故時人號其海、曰馳水也。(日本書紀)
自其入幸。渡走水海之時。其渡神興浪。廻船。不得進渡。爾其后。名弟橘比賣命白之。妾易御子而入海中。御子者。所遣之政遂應復奏。將入海時。以菅疊八重。皮疊八重。絁疊八重。敷于波上而。下坐其上。於是其暴浪自伏。御船得進。爾其后歌曰。 佐泥佐斯。佐賀牟能袁怒邇。毛由流肥能。本那迦邇多知弖。斗比斯岐美波母。故七日之後。其后御櫛依于海邊。乃取其櫛。作御陵而。治置也。(古事記)

相模(神奈川)から上総(千葉)へ船で渡ろうとしますが、尊が「こんな小さな海はひとっ飛びだ」と言い放ったところ、暴風と荒波に遭って船が沈みそうになります。そこで妃の弟橘媛(穂積氏)が「これは海神の怒りでしょう。私が身代わりとなります」といい、海に身を投じました。すると暴風はやみ、船は対岸に着きました。これを馳水(走水/はしりみず、浦賀水道)といいます。横須賀市に走水神社があり、木更津市付近に弟橘媛の伝承地があります。劇的なシーンなのでウキヨエも多くあります。

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有名な北斎のウキヨエ「神奈川沖浪裏」は、横浜市神奈川区神奈川の沖から富士山を見る位置なので、まさに木更津を背にした浦賀水道にあたります。偶然だと思いますが、弟橘媛の受難をイメジするのにぴったりです。実際に潮流が早く強風も吹く難所ではあります。そう言えば黒船も初代ゴジラもこのあたりに来ていますね。

木更津市付近は上総国望陀(もうだ)郡で、古代には馬来田(まくた)国造が治めており、君津市には4世紀の前方後円墳(89-105m)がいくつかあります。海路でヤマトと繋がりがあったのでしょう。纒向からここまでおおよそ500km、1日平均25km進めば20日で、10月末頃(旧暦)です。

なお千葉県君津市鹿野山に「上総国を支配していた阿久留王を日本武尊が退治した」という鬼退治伝説がありますが、記紀にも風土記にも見えません。実は鎌倉時代以後に発生した悪路王伝説を元ネタとして江戸時代末期に創作された新しい神話のようです。こういうのは山程あります。日本武尊は蝦夷討伐の英雄なので、後世の蝦夷討伐伝説も遡って結び付けられるのです。

上総から陸奥へ

爰日本武尊、則從上總轉、入陸奧國。時、大鏡懸於王船、從海路𢌞於葦浦、横渡玉浦、至蝦夷境。(日本書紀)
自其入幸。悉言向荒夫琉蝦夷等。亦平和山河荒神等而。(古事記)

古事記ではこの先を詳しく記しませんが、日本書紀では「上総から転じて陸奥国へ入った。時に船に大きな鏡を懸け、海路で葦浦を巡り、玉浦を横に渡って、蝦夷の境に至った」とあります。木更津から陸沿いに北上し、上海上国(かみつ・うなかみのくに、市原市付近)を経て下総国船橋に至り(意富比神社、船橋大神宮は日本武尊の創建と伝えます)、江戸川(太日川)を遡って野田市で下総台地の北端を右に回り込むと、目の前は香取海です。

これは印旛沼と霞ヶ浦、手賀沼などを合わせ、現在の利根川下流域に広がっていた広大な内海で、鹿島神宮(常陸国一宮)と香取神宮(下総国一宮)の間から太平洋(鹿島灘)へ向かって大きく口を開けていました。古墳時代から奈良・平安時代にかけて、倭国=日本国が盛んに蝦夷を討伐しますが、その拠点となったのがこの香取海です。船便で大量の物資や兵を運べますし、周辺から商品や租税を調達するにも便利です。日本武尊も(彼のモデルとなった人々は)このルートを通って鹿島灘へ出たに違いありません。『常陸国風土記』には、「倭武天皇」が常陸国信太郡の浮嶋(稲敷市)に船で訪れたことを記しています。

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木更津から鹿島神宮まで180kmほど、水行なら3日で着きます。葦浦や玉浦はこの経路上のどこかでしょう。目的地は陸奥の蝦夷ですから、房総半島を南から回り込んだわけではなさそうです。

陸奥の蝦夷

蝦夷賊首嶋津神・國津神等、屯於竹水門而欲距。

鹿島灘に出た日本武尊の船は、陸沿いに北上して竹水門(たかのみなと)に至りました。この場所の候補地はいくつかあります。常陸国北端(北茨城市等)には多賀郡があり、多珂国造が置かれました。また福島県の南相馬市は陸奥国行方郡にあたり、多珂郷を含んでいます。さらに北上すると陸奥国名取郡(宮城県名取市)に多加神社があり、その北に陸奥国宮城郡多賀郷(宮城県多賀城市)があります。すぐ北には有名な松島湾があります。

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多賀城が築かれるのは日本書紀編纂よりわずか4年後の724年ですが、対蝦夷の最前線基地として陸奥国府が置かれたほどの重要拠点ですから、このあたりが竹水門でしょう。4世紀にはいざしらず、日本書紀の編纂時にはホットな地名だったわけです。いわき市や相馬郡など福島県の浜通りにも伝承地がありますが、鹿島神宮から多賀城市まで270kmありますから5日はかかり、各地の沿岸部に上陸して休息・平定したわけです。

然遙視王船、豫怖其威勢而心裏知之不可勝、悉捨弓矢、望拜之曰「仰視君容、秀於人倫、若神之乎。欲知姓名。」王對之曰「吾是現人神之子也。」於是、蝦夷等悉慄、則褰裳披浪、自扶王船而着岸。仍面縛服罪、故免其罪、因以、俘其首帥而令從身也。

蝦夷の酋長たちも現れ、すわ戦闘かと思えば、大きな鏡を掲げた船を見るや恐れおののいて武器を捨て、王(日本武尊)に平伏し服属したといいます。武力のみならず、こうした魔術的な手段も時には有効でしょう。尊の船は彼らの助けで着岸しましたが、その先へは進んだのでしょうか。

岩手県一関市の配志和神社が日本武尊伝説の北端で、延喜式神名帳にも記載があります。日本書紀に「蝦夷既平、自日高見國還之」とあり、前述のように日高見国が北上盆地を指すとすれば、その入口までは来たわけです。石巻から北上川を遡ったのでしょうか。多賀城から石巻を経て配志和神社までは100km余り。纒向から1000km、ここが到達限界点となりました。

蝦夷

さて、蝦夷(えみし)とはいかなる勢力だったのでしょうか。『日本書紀』神武紀には愛瀰詩(えみし)と書き、神武が忍坂(桜井市南東部)から攻め込んだ時に歌われたという「来目歌」に出てきます。

今、來目部歌而後大哂、是其緣也。又歌之曰、「愛瀰詩烏 毗儾利毛々那比苔 比苔破易陪廼毛 多牟伽毗毛勢儒(えみしを、ひとりももなひと、ひとはいえども、たむかひもせず/エミシは一人で百人に当たると人は言うが、抵抗もせずにやられたぞ)」。此皆承密旨而歌之、非敢自專者也。

するとヤマトにもといた勢力をそう呼んだことになりますが、その後は景行紀まで出てきません。要は、この場面は久米氏が語り伝えた蝦夷征討歌を、後から適当にハメ込んで作ったプロパガンダ用の公式MADです。

朕聞、其東夷也、識性暴强、凌犯爲宗、村之無長、邑之勿首、各貪封堺、並相盜略。亦山有邪神、郊有姦鬼、遮衢塞俓、多令苦人。其東夷之中、蝦夷是尤强焉、男女交居、父子無別、冬則宿穴、夏則住樔、衣毛飲血、昆弟相疑、登山如飛禽、行草如走獸。承恩則忘、見怨必報、是以、箭藏頭髻、刀佩衣中。或聚黨類、而犯邊堺、或伺農桑、以略人民。擊則隱草、追則入山、故往古以來、未染王化。(日本書紀)

日本武尊を送り出す時、景行天皇は東夷(蝦夷)をこう語りますが、漢文からの引用が多く、狩猟民っぽい描写はあっても彼らの実態を示しているかわかりません。武内宿禰の報告も同様です。

西暦478年の倭王武の南朝宋への上奏文に「自昔、祖禰躬環甲冑跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」とありますが、この毛人が蝦夷のことともいいます。ただ55+66=121国はほぼ倭国全土の国造の数に相当するため、ヤマトを除いた東方と西方の国造国を挙げただけかも知れません。海北95国は朝鮮半島中南部の諸国です。関東の毛野は毛人/東夷(あずまえびす)扱いされていたのでしょうか。

古墳時代の前方後円墳の分布を見ると、前期の北端は新潟平野中部・会津盆地・仙台平野、終末期の北端は村上地方や北上盆地まで北上します(日本海沿岸では中越まで後退します)。中部・関東・東北地方にも弥生文化や古墳文化は届いていましたが、山間部や北方には縄文以来の生活伝統が続いていたようです(続縄文文化)。ヤマトから「エミシ/エビス」と呼ばれた人々はそのような存在だったでしょう。

樺太アイヌは自分たちを「エンチュ」と称しており、エミシの語源ともいいますが定かではありません。蝦(カ、倭訓:えび)の字を使うのはエビス/エミシの読みを残したものでしょうか。

しばしば戦争や衝突は起きたものの、交易や交流も盛んでした。ヤマトは関東の豪族である上毛野氏・下毛野氏を通して間接的にエミシと接触していましたが、特にヤマトとエミシの接触が多くなるのは7世紀以後です。

後のアイヌに直結するというわけではありませんが、アイヌ語で解読できる地名は東北北部には多数存在します。7世紀から13世紀頃までの北海道には擦文文化が存在し、オホーツク文化や和人の影響を受けてアイヌ文化へと変容して行きます。中世以後の蝦夷(えぞ)とは彼らを指し、蝦夷(えみし)とはやや異なった存在のようです。…あまり深入りすると戻れませんので、つのもここまでとしておきます。後はご自分でお調べ下さい。

◆金◆

◆神◆

さて、目的の蝦夷平定は成し遂げました。ここからは帰路です。無事ヤマトに帰りつけるでしょうか。

【続く】

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