【つの版】ウマと人類史EX13:西海馬牧
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
古事記や日本書紀によれば、天皇家の始祖は日向国、すなわち南九州に天下り、神武天皇が一族郎党を率いてヤマトへ遷ってきたとされます。いわゆる神武東征ですが、南九州が火山性草原に富み、多くの馬牧が存在したことは確かです。推古天皇も蘇我氏を「馬ならば日向の駒」と評したほど、古代から馬飼の盛んな地だったのです。それらを見てみましょう。

◆DRAMATIC◆
◆JOURNEY◆
西海馬牧
朝鮮半島から最も近い九州(西海道)には、古くから牧が作られました。『延喜式』に見える「諸国牧」のうち、西海道には馬牧8つ、牛牧7つが存在しますが、うち肥前と日向に馬牧・牛牧が3つずつあり、肥後には馬牧が2つあります。筑前には牛牧が1つだけで、豊前・豊後には牧がありません。
牛牧
筑前:能臣嶋(能古島)
肥前:柏嶋(唐津市神集島)、樋野および早崎(島原半島)
日向:野波野(小林市野尻町)、長野(都城市高城町長野)、三野原(西都市三納)馬牧
肥前:鹿嶋(鹿島市)、庇羅(平戸島)、生属(生月島)
肥後:二重と波良(ともに阿蘇市西部)
日向:野波野(小林市野尻町)、堤野(小林市堤)、都農野(児湯郡都農町)このうち能古島、神集島、生月島は比較的小島で、周囲が海に囲まれていて牛馬の逃げ場がない「牧島」です。平戸島はかなり大きいですが、本土との間には海峡があります。地質的にも火山性の玄武岩があり、海辺で潮風が吹くこともあって森林はあまり発達せず、草原が発達しています。牧を設置するには良い場所と言えるでしょう。
佐賀県鹿島市は有明海に面し、南部には経ヶ岳という火山があります。その南の島原半島には雲仙岳があり、現在も活発な火山活動が見られます。阿蘇山の麓には広大な草原が広がり、牧場とするにはもってこいです。小林市や都城市は霧島連山の麓です。宮崎平野北部の西都市や都農町もシラス台地にあり、火山灰土・黒ボク土(アンドソル)が広がっています。
日向古墳
西都市域においては、4世紀初頭から7世紀前半にかけて300基以上もの古墳が築造されました。西都原古墳群です。このうち男狭穂塚と女狭穂塚(帆立貝形と前方後円、ともに5世紀前半、墳丘長176m)は九州最大で、宮崎市の生目古墳群(3世紀後半-5世紀)、鹿児島県の大隅半島にある唐仁大塚・塚崎・岡崎・横瀬・神領の古墳群にもこれらに匹敵するほどの巨大古墳が存在します。北部九州でこれに匹敵するのは、6世紀前半の筑紫君磐井の墓とされる福岡県八女市の岩戸古墳(135m)ぐらいです。
しかし、南九州はヤマトから見れば遥か遠くの辺境です。火山灰土のため農業にも向きませんし、古墳時代には大規模な鉱山経営や海外貿易を行っていた様子もまだありません。朝鮮半島に最も近く先進地域のはずの北部九州ではなく、なぜ南九州にこれほどの古墳群が存在したのでしょうか。
西都原古墳群からは見事な金銅製馬具が出土しており、やはりウマや牛の飼育・牧畜が関わっていそうです。すると神武東征よろしく日向からヤマトへ騎馬遊牧民が進出し征服したのでしょうか? しかし天孫降臨や神武東征はのちに作られた神話に過ぎず、前方後円墳が出現するのは3世紀のヤマトにおいてのことで、南九州よりも先です。また4世紀末から5世紀には倭国が朝鮮半島へ盛んに進出し、ウマや牛が大規模に倭国へ持ち込まれています。
つまり、おそらくは朝鮮半島へ出兵するための後方基地として、ヤマト王権により日向にウマや牛の牧が形成され、この地に畿内式の古墳が多数築造されたと考えられるのです。北部九州にこれほどの古墳群がないのは、日向が後進地域かつ牧に向いており、ヤマト王権による大規模な牧場を経営しやすかったからでしょう。船で運ぶにも日向灘を北上すれば済みます。

日本書紀によると、ヤマト纏向に宮を置いた景行天皇は九州へ遠征し、豊前を経て熊襲国(南九州)へ向かい、西都市に高屋宮を築き、そこを東方に開けていることから「日向」と名付けました。さらに西へ進んで夷守(小林市)で歓待を受け、有明海や島原半島、阿蘇山を経て筑後に至ったといいます。小林市や阿蘇、島原にも牧が置かれていますから、ヤマト王権がこれらの地域の豪族と牧に関するフランチャイズ契約を結んだのでしょうか。彼の皇子・ヤマトタケルはのちにクマソタケル討伐に派遣されていますが、『古事記』には景行の九州遠征は記されず、ヤマトタケルの話だけです。
景行天皇は崇神天皇の孫で仲哀天皇の祖父ですから、年代的には4世紀前半の人物とみられ、西都原古墳群などの初期にあたるものの、まだ倭国には(大規模には)牛馬が入ってきていません。仲哀の妃の神功皇后が三韓征伐を行い、その子の応神天皇の時に百済からウマが贈られたと記紀にはあります。そして応神の子・仁徳天皇は、遥か日向から妃を娶っています。
記紀によれば、応神天皇は日向国の諸県の君(宮崎県と鹿児島県にまたがる地域の豪族)である牛諸井(牛)の娘・髪長媛の容貌が美麗であると聞きつけ、彼女を遥か河内まで召し寄せました。しかし歓迎に出た太子(のちの仁徳天皇)が彼女に一目惚れし、大臣の武内宿禰に申し出たので、応神天皇は彼女を太子に賜ったといいます。
『日本書紀』によれば景行天皇は日向国の豪族の娘(日向髪長大田根、襲武媛、日向御刀媛)を娶って皇子を儲け、豊国別皇子は日向国造の祖になったといいますから、倭王と日向の婚姻関係は景行の時代から続いていたことになります。また髪長媛は皇后とはなりませんでしたが、彼女の産んだ草香幡梭姫皇女はのち雄略天皇の皇后となっています。美人だからって遥か日向から妃を娶るというのも妙な話で、やはり日向の牧とヤマトの繋がりを強化するためのことでしょう。髪長媛の父の名が「牛」というのも示唆的です。
熊襲隼人
南九州の住民は、ヤマトから熊襲(クマソ)・隼人(ハヤト)と呼ばれました。肥後国球磨(くま)郡と大隅国曽於(そお)郡が中心地で、両者を合わせてクマソといい、ハヤトは後の呼び名とも総称ともいいます。ヤマトの王は服属したハヤトらを畿内へ召し寄せ、私的な家来・護衛として用いていました。イスラム世界でマムルークが重用されたように、彼らは故郷の部族から遠く離れた私的な奴隷的存在ですから、利害関係が複雑な各地の豪族よりも主君に忠実に仕えたのです。とはいえ裏切りもあったようですが。
『古事記』によると仁徳天皇の子・墨江之中津王/住吉仲皇子はソバカリ(日本書紀ではサシヒレ)というハヤトを近習としていました。仁徳崩御後、中津王は皇太子のイザホワケ(履中天皇)を殺そうとしましたが逃げられ、難波に孤立しました。この時イザホワケと中津王の弟ミツハワケ(反正天皇)はソバカリに「中津王を殺せばお前を大臣に任命しよう」と約束して主君を殺させましたが、祝宴の席でソバカリを斬り殺したといいます。
彼らクマソ・ハヤトは、おそらく南九州の縄文文化を色濃く残した人々でした。戦いに際しては勇敢で、矛や盾を装備して戦ったと伝えられますが、狩猟の民として弓矢の扱いにも秀でていたでしょう。ウマの牧が多くあり、弓矢も得意となれば、騎射という高等武芸を習得する下地はありますね。8世紀に編纂された『肥前国風土記』には、松浦郡値嘉郷(五島列島)の海人たちは容貌が隼人に似ており、常に騎射を好み、その言語は周辺住民と異なるという記述があります。であれば隼人も騎射を行ったのでしょうか。
かように日向はウマの畜産が盛んな地域でしたから、6世紀には百済へ筑紫(九州)の馬が輸出されましたし、推古天皇が蘇我氏を指して「馬ならば日向の駒」と評したというのは立派な褒め言葉になるわけです。しかし倭国は次第に朝鮮半島から手を引き、百済が滅び白村江の戦いで敗れた後は、朝鮮半島から完全に撤退します。それを境に古墳時代も終わり、南九州の古墳群も終焉を迎えます。隼人は引き続き倭王権に仕えて軍事力を提供し、また「蛮夷」として服属儀礼を行うことで倭王の権威を高めました。
しかし8世紀に入ると倭国は律令国家「日本」に変身し、南西諸島経由での遣唐使の派遣のため、南九州を律令制度の下に組み込もうと圧力をかけます。すなわち豪族たちの私有する土地を国家が没収し、公田として貸しつけて租税を取ろうというのですから、豪族たちは強く反発しました。日本国政府は豊前から移民を派遣して指導させますが反発は強まり、ついに隼人は720年に反乱を起こして大隅国司を殺害、1年半もの間戦い続けました。
南九州はその後も長く牧が置かれ、中世には摂関家の所有する広大な荘園「島津荘」が設置されました。その政庁・島津院は日向国の諸県郡にあり、鎌倉時代からは摂関家の家司であった惟宗氏が源頼朝の御家人として下司職(荘園代官)に任命され、島津氏を名乗り始めました。彼らは各地にウマの牧を作って軍事力を高め、大名へと発展していくのです。
宮崎県串間市の都井岬には「御崎馬」と呼ばれる日本在来馬の集団が残存しています。これは江戸時代前期の1697年、この地を納めていた高鍋藩主の秋月種政の命令で放牧されたものの子孫で、300年以上にわたって人為的管理をほとんど加えていない半野生のウマです。古墳時代のウマもこのように放牧されていたのでしょう。
◆島◆
◆津◆
【続く】
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