【つの版】倭の五王への道05・東国遠征01
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
魏志倭人伝には「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」とありましたが、これはヤマト(邪馬臺國・女王國)の東、伊勢湾を渡った東海地方であることは以前書きました(後漢書では狗奴國と混同していますが別です)。纒向遺跡からも東海地方の土器が出土しており、既にそれなりの勢力と交流があったことは確かめられています。
今回は3世紀から4世紀にかけての東海地方とその東、関東や東北南部、また北陸などを概観します。ちまちま古墳の分布を数え上げていてもきりがないため、この頃の東国に関する伝承をざっと見て、後から考古学的に検証した方が手っ取り早そうです。なので、そうします。詳しくは調べて下さい。
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伊勢
ヤマトの東には宇陀・名張ないし伊賀を経て伊勢があります。魏志倭人伝の記述からすれば、伊勢は一応邪馬臺國の範囲に含まれてはいます。ただ山々の彼方ですから奈良盆地以上に独自の勢力がいたことは推測できます。
神話伝説の時系列上、伊勢地方に最初にいたのは、天孫降臨の道案内を行った猿田彦命とされます。『日本書紀』本文にはなく一書によれば、彼は日向の高千穂へ天孫を導いた後、伊勢の狭長田の五十鈴川の川上に赴きました。伊勢神宮の近くには猿田彦神社があります。また『古事記』によれば、彼は阿邪訶(一志郡阿坂村、現松阪市小阿坂町)の海で漁をしている時、比良夫貝に手を挟まれて溺死したといいます。彼の妃は天宇受売命で猿女君の祖とされますが、氏族というより巫女・俳優を指す職名です。そも伊勢と日向は遠すぎて繋がりはなく、空を飛べる神々による架空の話に過ぎません。
記紀には出てきませんが、『伊勢国風土記』などには伊勢津彦という神が現れます。彼は出雲建子命、櫛玉命ともいい、神武天皇が派遣した天日別命に攻められて国を譲り、強い風(神風)を起こして東へ去って行ったといいます。また異説では伊賀の穴石(穴石神社)にいたのを阿倍志彦神(阿倍氏の祖・大彦命か)に追われて去ったともいい、出雲国造の祖・天穂日命の孫で建比良鳥命の子にあたり、素賀国造(静岡県掛川市)・相武(相模)国造・武蔵国造らの祖であると伝えられます。
出雲系の神々は畿内や北陸、信濃、関東など広い範囲に分布しており、西日本で勢力を弱めつつあった出雲族が新天地を求めて東国開拓に参加したのかも知れません。実際伊勢には前方後方墳が比較的多く分布しています。なお伊勢津彦の娘は天日別命が娶り、その子孫が伊勢国造になったといいます。
伊賀市には4世紀後半に前方後円墳の石山古墳が築造され、墳丘長が120mもあることからこの地方の首長と思われます。また三重県松阪市には久保古墳があり、直径52.5mの円墳ですが、三角縁神獣鏡が2面出土しました。うち1面が舶載鏡で、京都府椿井大塚山古墳、岡山県備前車塚古墳、静岡県上平川大塚古墳の出土鏡と同笵(鋳型が同じ)です。
『日本書紀』における東国経営伝承は、崇神天皇の時の四道将軍と豊城入彦命(及び子孫)、景行天皇の時の日本武尊に大きく分けられます。
四道将軍
四道将軍のうち大吉備津彦命は西道(播磨・吉備)、彦坐王は丹波、大彦命は北陸、大彦命の子の武渟川別命は「東国十二道」(東海・関東諸国)へ派遣されました。いずれも皇族にあたり、多くの氏族の祖で、代々の天皇にも彼らの子孫が嫁いでいるなど系譜上も重要です。大彦命が東国、武渟川別命が北陸へ派遣されたのではと思いますが、一応もとのままにしておきます。
どのようなルートを通ったかは記されませんが、父子である二将軍は会津で出会い、それでこの地を会津(相津)と名付けたといいます。ということは北陸からは阿賀野川(阿賀川)を遡ったに違いありません。古来北陸と会津を繋ぐ大動脈です。纒向から宇陀・名張・伊賀・甲賀・近江・敦賀を経て、北陸へ向かうルートでしょう。およそ716km、1日30kmで24日かかります。

東海・関東からは、那須高原を抜けて白河・須賀川と北上し、郡山から西に曲がって猪苗代湖の北側を通るコース(磐越西線)と、日光から鬼怒川を遡って男鹿高原を抜け、阿賀川を下って進むコースがあります。同じ津(港)ではち合わせしたのですから、おそらく後者でしょう。伊賀の柘植で別れて伊勢へ進み、東海・関東を通り、茨城西部から鬼怒川を遡ったのです。
東国十二道とは令制国でいう伊賀・伊勢・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・相模・武蔵・常陸・下野・陸奥の十二国でしょう。国造国ならもっとありますが、令制国の成立は記紀編纂の少し前、701年の大宝律令からです。

北陸や会津に関しては上の記事で触れました。
ただ3世紀にこのような大遠征があったかは微妙で、あったとしても4世紀に入ってからではないかと思われます。またそれぞれの土地がヤマトに服属したわけでもなく、武装商人を何度か派遣して既存の交易路を辿ってみた、というだけかも知れません。それでも会津の地には四隅突出型墳丘墓に続いて前方後円墳が出現し、ヤマトと接点を持つことになります。
毛野と房総
毛野についてもこの記事で触れました。
四道将軍の派遣から30年後、崇神天皇は活目入彦尊(垂仁天皇)を皇太子とし、武勇を好んだ豊城入彦命には「東国を治めよ」と命じました。彼は上毛野君・下毛野君の祖となりますが、実際には東国へ派遣されておらず、子の八綱田は垂仁天皇の時の狭穂彦王の反乱を鎮圧し、倭日向武日向彦という称号を授かっています(実際は子孫からの諡号でしょうか)。その子の彦狭島王は景行天皇の55年に「東山道十五国都督」に任命されましたが、春日の穴咋邑(奈良市穴吹神社か)で病死し、子の御諸別王(豊城入彦命の曾孫)が翌年東国に派遣されて善政を敷いたといいます。毛野に大勢力が定着するのは景行天皇の後、4世紀中頃から後半といったところでしょうか。
内陸の毛野に比べて、房総半島など関東南部には早くから海路でヤマトの交易網が及んでおり、なんと3世紀中頃には千葉県市原市に纒向型前方後円墳(神門古墳群)が出現します。伊勢から浜松や下田、伊豆大島を経て東京湾に入ったものでしょうか。4世紀後半には市原市に姉崎古墳群が出現しました。房総南部の安房(あわ)国は、四国徳島県の阿波(あわ)国から人が移住して名付けたとの伝承もあり、黒潮による交流のダイナミックさが理解ります。しかし行きは黒潮に乗ればよくても、帰りは陸路でしょうか。

武内宿禰の派遣
廿五年秋七月庚辰朔壬午、遣武內宿禰、令察北陸及東方諸國之地形、且百姓之消息也。廿七年春二月辛丑朔壬子、武內宿禰、自東國還之奏言「東夷之中、有日高見國、其國人男女、並椎結文身、爲人勇悍、是總曰蝦夷。亦土地沃壤而曠之、擊可取也。」
九州遠征から帰って6年後、景行天皇の25年7月に、武内宿禰(たけしうちのすくね)が北陸及び東方諸国に派遣されたと『日本書紀』にあります。彼は景行27年2月に帰還すると、こう報告しました。「東夷の中に日高見国(ひたかみのくに)があり、国人の男女は椎(才槌髷)を結い、体に入れ墨をしています。人となりは勇悍で、これを総称して蝦夷(えみし)といいます。またその土地は肥沃で広く、攻撃してこれを取るべきです」
「日高見国」とは「日を高く見る国」すなわち日の出の方角、東の地を漠然と指す地名ですが、ここでは盛岡から一関まで南北に長く伸びる北上盆地のことかも知れません。話の流れからすると、この後に蝦夷への遠征が行われると思うのですが、同年から翌年には日本武尊の熊襲征伐の話があり、東国へ派遣されるのは景行40年からです。
武内宿禰は孝元天皇の子孫という謎めいた人物です。「成務天皇と同日の生まれ」ともされますが、成務は景行60年に即位し、在位60年で107歳で崩御したため景行14年生まれで、景行25年には数え12歳でしかありません。父・武雄心命は景行3年に紀伊国へ派遣され、そこで妻を娶っていますから景行4年の誤りでしょう。日本武尊の遠征には随行していませんが、景行・成務・仲哀・神功・応神・仁徳の6代に仕え、仁徳50年を最後に登場しなくなります。53年後の允恭5年には彼の墓の記事があり、後世の説では仁徳55年に薨去したといいますから、景行4年から仁徳55年までとしても282年は生きています。実在して成務と同世代とすれば4世紀中頃の人でしょうか。彼は葛城氏・蘇我氏・紀氏・平群氏など様々な有力氏族(特に葛城周辺)の祖とされています。そうした氏族の共通祖神として後から作られた存在でしょう。
ヤマトタケルの東征
いよいよヤマトタケル(日本武尊、倭建命)の出番です。彼の事績は日本書紀・古事記・風土記等に描かれますが、ここでは日本書紀に記す事績を主に追ってみましょう。途中が飛び飛びなので古事記や風土記、社伝等を参考に補って行きます。日本書紀は古事記の悲劇的物語を漢文風に修飾して天皇バンザイムードで覆っている感がありありですが、一応こっちが正史です。
景行天皇は、若建吉備津彦命の娘・播磨稲日大郎女を娶り、大碓(オオウス)命と小碓(ヲウス)命という双子を儲けました。景行27年10月、16歳の小碓命は(つまり景行12年生まれ)熊襲の魁帥(酋長)の取石鹿文(トロシカヤ)、またの名を川上梟帥の討伐に派遣されます。彼は美濃国の弓の名手である弟彦ら従者を伴い、12月に熊襲に着くと、まず国の様子や地形を探ります。そして酒宴の席に女装して忍び込み(身長が1丈=3mもある巨漢ですが)、川上梟帥を暗殺すると、残党を討伐し平定しました。これより日本武尊と名乗ります。ヤマトに戻る途中では、吉備と難波の海峡を塞ぐ悪神を殺しました。さらっと神殺しを行っています。
帰還は景行28年2月。奈良県桜井市から熊本県人吉市までとして、景行と同じく瀬戸内海・豊予海峡・宮崎平野と進めば、片道おおよそ700km。片道が2ヶ月(60日)だと1日平均12kmしか進みませんが、潮待ち風待ちや準備や後始末もあるでしょう。肥前国風土記では佐賀平野まで遠征し、土蜘蛛を征伐しています。古事記では従者がおらず、女装のための衣装を伊勢の倭比売命から授かっていますが、熊襲へ行く前に逆方向の伊勢へ行くのも妙な話です。出雲建討伐は古事記だけで、日本書紀には記されません。
景行40年、東夷が多く叛き辺境が騒動したため、景行天皇は蝦夷への遠征軍を派遣します。まず日本武尊の推薦で大碓命を行かせようとしましたが、彼は恐れて草むらに逃げ隠れたため、そのまま美濃国に封建されました。そして結局は日本武尊が派遣されます。時に29歳で、年齢に不足もありません。天皇は尊を褒め称え、吉備武彦と大伴武日、七掬脛らを伴につけます。
冬十月壬子朔癸丑、日本武尊發路之。戊午、抂道拜伊勢神宮、仍辭于倭姬命曰「今被天皇之命而東征將誅諸叛者、故辭之。」於是、倭姬命取草薙劒、授日本武尊曰「愼之。莫怠也。」
冬10月2日に纒向日代宮(奈良県桜井市穴師)を出発すると、10月7日には伊勢神宮に赴き、斎宮の倭姫命から草薙剣を授かりました。
倭姫命は豊鍬入姫命から天照大神の神籬を引き継ぎ、各地を放浪した末に伊勢神宮を創建した人物です。天孫降臨以来の三種の神器であったという八咫鏡や草薙剣は、彼女が受け継いでいたのでしょう。豊鍬入姫命を臺與とすれば、卑彌呼以来の倭の女王の系譜は伊勢の斎宮に繋がっているわけです。
ただし景行20年には「五百野皇女に天照大神を祀らせた」とあり、倭姫命は彼女に代わったとすれば引退しているはずです。また斎宮は何度か断絶しており、斎宮制度が確立するのは天武天皇以後のことです。古事記や日本書紀はそうした裏事情も鑑みて読んで下さい。
穴師から初瀬・宇陀を通り、川沿いに伊勢参宮街道を通れば108kmほどで伊勢神宮に到達します。山道ですが5日あれば充分でしょう。ただ現在の伊勢神宮からなら知多半島か渥美半島へ渡ればいいですが、桑名の多度から名和へ渡ったとの伝承があるため、倭姫命が諸国放浪中で桑名の野代宮にいた頃のことかも知れません。であれば宇陀から名張・伊賀・亀山・桑名と進んだ(120km)のでしょうか。しかし垂仁25年にはこの場所にあったともいいますし、どのみち日本武尊の物語は天武天皇以後に編纂された話なので、伊勢神宮は現在の位置と想定されているのでしょう。それで「抂道拜伊勢神宮(寄り道をして伊勢神宮に参拝した)」と書かれています。
古事記では熊曾から帰るとすぐ東方へ派遣され、吉備の御鋤友耳建日子が伴につけられます。倭建命は伊勢の倭比売命に「父は私に死ねというのか」と愚痴りますが、比売は草那藝剣と火打ち石の入った袋を授けます。また大碓命は熊曾征伐より前に美濃で小碓命に惨殺されており、天皇はそれを恐れて小碓命に無理難題を押し付けたとしています。美濃はこの頃には景行天皇が訪れて妃を招くほどにはヤマトに従っていたようです。

伊勢から尾張へ
伊勢から駿河までの旅路や日程は記されませんが、古事記では尾張国造の家に赴き、美夜受比売(宮簀媛、ミヤズヒメ)と婚約しています。
故到尾張國。入坐。尾張國造之祖。美夜受比賣之家。乃雖思將婚。亦思還上之時將婚。期定而。幸于東國。悉言向和平。山河荒神。及不伏人等。
尾張国造が正式に任命されるのは成務天皇の時ですが、天孫・天火明命の子孫の乎止与(おとよ)命が既にこの地を開拓して土着しており、娘が宮簀媛です。媛の兄の建稲種命は日本武尊の東征に副将として随行しました。
尾張国を開拓したのは、葛城山地東麓の「高尾張(高丘墾)」からの移住者とされます。愛西市に4世紀の円墳がある他、名古屋市東部から瀬戸市には4世紀から7世紀まで志段味古墳群が築かれ、尾張国造の墓所と思われます。
各地の社伝をたどれば、伊勢神宮から北上して、三重県桑名市多度町の尾津から船に乗り、愛知県東海市名和町の船津に渡ったといいます。今は陸地化していますが、古代には名古屋市の中区と熱田区から西は遠浅の海か潟で、人が住んでいたのは名古屋台地と熱田台地以東でした。
この地図画像はWikipediaの「氷上姉子神社」の記事からです。

尾張国造の拠点は熱田台地付近にあったようです。多度と名和を直線で繋げば26.6kmで、江戸時代まで続いた「七里(28km)の渡し」です。これほど離れていたので、魏志倭人伝に「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」とあるわけです。東海地方は文字通り東海の彼方なのです。
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今回はここまでです。次回もヤマトタケルの東征を見ていきます。
【続く】
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