神の存在証明をどのように考えていくか
この記事で整理整頓したいこと
私(筆者)は神の存在証明に関心があるが、(1)あまりにも大きな、そして漠然としていて絡み合った問題あるいは問題集であり、また(2)筆者自身の学問的な技量不足・鍛錬不足もあるため、全体としてどのような調査方針あるいは研究方針で行くかを確かめ直しておきたい。
さらに、(3)従来はがむしゃらに何か関連しそうな文献を渉猟するといった感じであったが、たとえ思いつきであったとしても、問題を分割した上で小口の予想や見当を自分で立ててから文献に当たった方が「当たり」「外れ」が生まれて有意義な結果につながりやすいのではないか、と期待する。これまでと違ったやり方を試していきたい、ということである。
動機づけ
筆者は大学(学部生)のときにドイツ古典哲学に触れた。むろんそれ以外の哲学や思想も瞥見する機会があったのではあるが、そこにはいつも何がしかの「超越概念」とでも呼ぶべき鍵概念key conceptがあった(ここでいう超越とは経験・現象・表象を超越していること)。
それは例えば「物自体」とか「存在」とか「我」とか「天才」とか「社会」とか「国民」とか分野によって様々に変わるのであるが、それら直接には触れ得ない(知覚可能ではない、経験可能ではない)もの、超越的なものによって我々は制約され、媒介され、つながり合っていたり、新たなつながりを持つことができるのだと感じるようになった(個人の感想です)。
筆者は寂しく孤独に囚われやすい人間である。だから、何かそういった超越者や絶対者に接近することで他の人々とうまくつながりたいという色気(欲望)があった。そしてまた、そのような基盤があるとしたら、それを確実ならしめる保証が欲しいとも思った。
そこで、「神の存在証明」というのはキリスト教神学、あるいは一神教神学に固有のものではあるかもしれないが、何か我々人間の理性(推論能力)に訴えかけるような、挑発的であるようなものにみえた。
もし「神の存在証明」を求めざるを得ない心証、つまりただ唯一にして全知全能の神(のような基盤的存在)の存在を信仰し前提するだけではなくて、それをわざわざ知的に証明(論証、推論)しようとする心理やメカニズムが明らかになれば、我々の知的な欲求と社会的な欲求(つまり何らかの確実な基盤を通じて他者とつながりたいという欲求)の両方について見通しをよくすることができるかもしれない。そのような期待が私にはあったし、今もその疼きがある。
さて、「神の存在証明」という仰々しい字面からして、ただちにこのフレーズが三つの大きな課題あるいは課題群を抱えていることがわかるだろう。
(1)「神」
ここで念頭におかれている「神」とは唯一神であり、それは固有名(だいたい文法上の固有名詞に一致)である(そういう意味では「ヤハウェ」や「アラー」と言うのが本当はまだ適切である)。
しかし、一般に固有名の名指し(=対象を指示すること)はいかにして可能であろうか。あるいはそれは不可能なのだろうか。というのも、一般名詞であれば、何らかの特徴付けによって対象を指示することが可能であり、その特徴付けを対象が持たなくなれば当然その名詞でその対象を指すことはできないのに対し、固有名詞は対象の特徴付けが変化しても相変わらず同じ名前で呼ばれ続けるという不思議な性質を持っているからである。
ここで我々はまず準備として固有名詞の指示機能について考察する必要がある。特に、固有名詞について古典的かつ真理論的な見解を示したMill、Frege、Russelらの見解の整理、それから、Rosenzweigの名前論(固有名詞の同一性は名前それ自体が担保するという立場)、およびEvansによる指示論とKripke因果説の比較対照が必要そうである。
固有名に関する解釈としては、歴史的に大きく記述説(記述によって指示対象を確定させ、さらに固有名を含む命題の意味も確定し得るとする立場)とそれに対する批判としての因果説(命名された対象から発話者への因果関係を固有名の本質とする)との対立がある。
(2)存在
指示対象が存在するとはどういうことであろうか。例えばシェークスピアやシャーロックホームズのような名前を我々はごく当たり前に使用することができる。しかし、シェークスピアやシャーロックホームズはそれぞれの仕方で現存していない。そうすると、指示対象としてのシェークスピアやシャーロックホームズの存在論的身分をどのように考えたらよいだろうか。神もそのような身分を持って呼ばれているだけで現存しないのではないかという疑いも生じてくる。
また、特に神の存在証明における存在はどこまでの要請が許されるか。それは例えば物理的なものではないであろうし、生成消滅変化し得るようなものかどうかも未定である。どのような身分における存在あるいは非存在であり得るかはあらかじめ数え上げておかなければならないだろう。
存在についての先行研究として、Quineの存在論と新マイノング主義Neo-Meinongismの対立を検討する必要があるだろう。
(3)証明?
一般に証明においては、仮定から帰結に至るまで真理が保持されなければならない。然るに、神の存在証明における真理性は他の数学的証明の真理とはどう異なるのか。あるいは異ならないのか?
まず、前提あるいは仮定として何を設置することが許されるだろうか? 一般に何かが存在することを示すためには一般にそれの特徴付けが必要であるが、素朴に考えれば神とは我々を超越した存在であり、その特徴(が仮にあるとして)を時間的にも認識能力においても限られた存在である我々が知り得るはずが無いとも考え得る。そうであれば、神の特徴がわからない以上、それがどこかに存在するかどうかも検証できないし、仮に存在して遭遇することがあったとしてもそれが神であるとは認識できないということになってしまうだろう。
また、そもそもそれは通常の意味での真理に関わることなのかどうかが問題である。数学的真理だけが真理ではないという考えもあり、実存主義的真理や哲学的な意味での(非物理学的な意味での)時間と関わりを持つような種類の真理も考えられる。
どの程度の推論を持って「証明」「論証」と呼ぶに値するかは意見が分かれることであろう。哲学史上の神の存在証明がそれをどの程度の、どのタイプの「推論」で試みたかを復習しておきたいところである。
利用したい・位置付けを与えたい文献
村岡晋一『名前の哲学』講談社選書メチエ719、2020。
入不二基義『現実性の問題』筑摩書房、2020。
谷口一平「ゾンビに語りうることと、A変容」「永井均先生古希記念ワークショップ:私・今・現実」発表PDF、2022 https://twitter.com/Taroupho/status/1504370593210064897?s=20&t=UPN06EXilw3OuI0hgPnZtg
藤川直也『名前に何の意味があるのか』
プリースト『存在しないものに向かって』
Evans, G “Collected Papers“
安藤孝行『神の存在証明』
黒澤雅惠『言語と指示』
クリプキ『名指しと必然性』
問題の耐えがたいどうでもよさ
それにしても、私自身がどれだけ執着しているとしても、神の存在証明という話題は全くウケないし、誰と共有していいかわからない主題である。動機付けに多少それらしいことを書いてはみたものの、どうして自分がこんな不毛なテーマに関心があるのか、わからないところがある。
ただ、ときどき考えていて不思議な高揚感に駆られるテーマであるとも思える。それは、私の身体、あるいは神経系の中の意味論的にこじれた部分がこの解決不可能なほどにもつれたパズルによってしか刺激されないからなのかもしれない。
