三原の歩き方〜和田沖のすゝめ・三菱MIHARA試験センターウォッチ〜
広島県といえばどのような情景を思い浮かべるだろうか。
広島市内の原爆ドームは広島を語る上で外すことは出来ない、他にも軍港のある呉、海に浮かぶ鳥居が有名な宮島、港と坂の町である尾道…。
様々な情景、様々な魅力がある広島県。
しかし、一部のニッチな鉄道ファンが想像する広島県の情景といえば三原市だろう。
関西の玄関口、新大阪から新幹線で最速約2時間。
東京からだと新幹線で最速約4時間。
基本こだまのみが停車する三原駅。
駅舎は毛利元就の三男で戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、小早川隆景が1567年に築城(1873年明治維新により廃城)した三原城の本丸および天守台跡を南北に分断するように建てられている。

そんな三原駅から南に25分ほど歩いたところに瀬戸内海へ注ぐ沼田川(ぬたがわ)という川がある。
すぐ東には瀬戸内海があり、すでにこの辺りは潮の香りがする。
河川敷の対岸に筆影山、その麓に三菱重工の大きな施設が存在する。三菱重工三原製作所和田沖工場である。
その敷地を囲うように1周3.2kmの線路と新交通システムの試験線(こちらは片方向1.5km)が引かれている。技術開発やデモンストレーション、研修・訓練のためのプラットフォーム設備を提供する総合交通システム検証施設「MIHARA試験センター」である。
敷地内には蒸気機関車C57や高速AGT試験車、時折新造されて間もない広電向けの路面電車や新交通システムの車両(総合車両製作所や近畿車輛、川崎車輛と同じく和田沖工場は車両メーカーであるため、撮影は推奨しない)がいる。
それらの中にマルーン色をした2両の車両がいる。
元阪急2159-2110、のちに能勢電鉄に譲渡され1554-(1534-1584-)1504として活躍した車両だ。
その為車番は能勢電鉄時代の番号を維持しているが、ここに来て愛称もつけられた。MIHARA-Liner GENKI君。C#1504が1号、C#1554が2号である。

阪急2159×2R→能勢電鉄1554×2R→MIHARA-Liner GENKI君である。
ちなみに「C#」は「カーナンバー」と読む、阪急系列の企業を中心に一部の鉄道会社で使用されている。
この1554-1504の編成そのものを指す時はC#1554×2R(この場合C#は略すことがある)とする。
阪急(能勢電)は梅田方先頭車を編成の呼称として機能させているので、番号が若いC#1504(2110)よりもC#1554(2159)が編成全体の代表番号になっている。
もっとも、三原ではC#1504がGENKI君1号なのだが。
この車両が三原の土地に来て11年が経とうとしている2026年5月上旬。一部界隈に激震が走った。
根拠はないにせよ、東京の京浜急行で運用を離脱した1725編成がこのMIHARA試験センターに譲渡されるというのだ。
しかし、納得がいく部分もある。
1554×2RがMIHARA試験センターに譲渡されてから2度の車体修繕・再塗装の機会があった。
阪急の車両は法律に基づき重要部検査が4年以内または60万km走行ごと(VVVFインバータ制御車に関しては新重要部検査が適用となり6年以内または60万km走行ごとになっている)、全般検査が8年以内ごとに実施されるが、この際にパテなどによる車体修繕と再塗装が行われる。
この補修整備などを手掛ける興国車両が正雀から三原に出張し、普段は自動吹付機で塗装している阪急マルーンを手塗りしていた。
1554×2Rの最終検査出場は2011年2月であり、8年は再塗装していなかったが、塩害の問題もあったのか2019年春の再塗装後は3年後の2022年春に再塗装されている。
ということは周期的に2025年春に車体修繕や再塗装の機会があってもおかしくなかったのだが、手が加えられることもなく2026年度に入ってからも少し色褪せたマルーン色をしている。
能勢電鉄1500系の全廃から10年。車齢はまもなく64歳だ。
よくもった方だと思うし、動くか動かないかギャンブル性が極めて高い被写体を関西から10年間、30回通って記録した私もなかなかだと思う。
もし京急の車両が譲渡されるのならば1554×2Rは高い確率で解体されるだろう。
そうなれば私が三原に行く頻度も激減するだろう。
であれば、これから1554×2Rに会いに行く人や京急車を目当てに三原を訪問する人に有意義な時間を過ごしてほしいと考え、今、筆をとっている。

阪急ファンにとっては寂しいことであるが、京急ファンにとっては楽しい場所になるだろう。(Geminiにて作成)
この記事では三原とはなんぞや、MIHARA試験センターの俯瞰スポット、回り方やグルメ、お土産に至る迄。
私の知る限りの三原を伝えたいと思う。
1.三原のあれこれ
1.三原について
三原の地名は三原市街地の北部にそびえる桜山などの谷間、川の流れ出たところに湧原、駒ヶ原、小西原の3つの「原(=土地・平地)」が出来たことが由来と言われている。
三原市は尾道市の西側に隣接しており、かつては城下町として栄えた町だった。三原城については後述する。
近年は重厚長大型産業(鉄鋼や造船など原材料を大量消費し、重く・厚く・長く・大きな製品を扱う産業)や繊維の町として栄えた。代表例は前者は今回紹介する三菱重工やシャープ、後者は帝人である。
また漁業も盛んで、三原は明石と同じくタコが名産である。こちらも後述する。
交通に関しては広島空港、三原駅、三原港があり陸海空すべてが揃っている。
しかし、人口は減少傾向で2026年4月30日現在は85,075人である。
2.三原やっさタコについて
三原は本州の対岸に佐木島、生口島、向島、うさぎ島こと因島などの島々があり、これらに囲まれるように三原湾が存在する。
瀬戸内海は潮の流れが早いが、地形的に三原は特に潮の流れが早くなる。
潮の流れが早いと植物性プランクトンなどの動きが活発になり、それを食すために動物性プランクトン、それを食すために小魚、それを食すためにカニやエビ、貝類、それを食すためにタコがやってくる。
三原で取れるのは主にマダコで、狭いところを好む習性があり、岩場や砂場の隙間に生息する。
また住処には食べた後の殻などは巣穴に持ち込まないなど綺麗好きな一面があるが、三原は水質も比較的綺麗で水温も安定している。
また水温は15〜25℃で安定しており、水温の変化があると移動してしまうタコにとっては願ったり叶ったり、三原湾はまさにタコの天国なのである。
また、三原のタコは歯応えがしっかりしている。
これは先述の通り潮の流れが早く、流されないように岩場に足を張り付けて生活している為足が鍛えられるのだ。タコ自身もタコの天国を離れたくはないだろう。
漁は江戸時代から世襲制で受け継がれており、蛸壺を使用した漁が行われている。
三原湾は多くの船が航行するためブイなどは浮かんでいない。
漁師が数日前に沈めたおよそ100個の蛸壺がついたロープを引き揚げる際は山だてという山の形や建物の重なり具合を覚えておく方法でロープの場所を特定する。
水揚げされたタコは水膨れを防ぐためにすぐ塩水で洗われ、傷がなく見た目が綺麗なものをぬめりを取って旨みを閉じ込めるべく急速冷凍し、市場に回る。
取りすぎを防ぐべく、毎年3月と9〜10月は禁漁期間となっており、漁師はこの期間で蛸壷を徹底的に掃除するという。
綺麗な蛸壺とそうでない蛸壺ではタコの入りが全く違うというタコの綺麗好きを象徴する話だ。
三原のタコは先述のやっさ踊りにちなんで三原やっさタコと名前で2014年からブランド化している。
受験シーズンにはタコ=オクトパスにちなみ、置くとパスする絵馬の配布がある。タコの町ならではである。
3.三原城について
街の玄関口にあたるJR西日本の三原駅は毛利元就の三男で戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、小早川隆景が1567年に築城した三原城の本丸および天守台跡を南北に分断するように建てられている。
三原城天守台跡(実際には天守は建てられなかったとされている)は三原駅に直結しており、改札を出て右側、新幹線高架下に入り口が設置されている。入場は無料で06:30〜22:00までの間見学が可能である。
天守台跡の高さはおよせ13mで、新幹線ホームと目線がほぼ同じだ。
北・西・南の三方を堀に囲まれており、東側に駅舎がある。ここにもかつて沼田川が流れており、その河口の小さな島や中洲を埋め立て繋いで築城。
お堀に海水を引き込んだ海城で、舟入も設けられ三原湾から出陣出来る毛利水軍の拠点にもなっていた。
海側から見ると満潮時に城が浮いているように見えたことから三原城は別名「浮城(うきしろ)」と呼ばれていた。
三原城の築城を祝って人々が「ヤッサヤッサ」の掛け声で踊ったことが現在も語り継がれており、毎年8月には三原やっさ祭りが開催されている。
4.駅舎と城跡
1894年に山陽鉄道(現在のJR西日本山陽本線)が糸崎〜広島間を延伸する際に三原城本丸跡の石垣を崩して三原駅を建設。
海と山に挟まれて平地がなかった当時の三原市街地では致し方のないことであった。
なお本丸跡の石垣は糸崎港の建設用材として転用されている。
1975年に岡山〜博多間を延伸開業する山陽新幹線では駅誘致をめぐって尾道市と対立。
国鉄は福山〜広島間の中間駅設置は1つとしており、尾道市内設置案と三原市内設置案の2つが存在した。
線形的に問題はなくとも地形的な制約や駅周辺の用地買収問題で劣勢であった三原市だったが、地権者や住民3,828名の署名を当時の三原市長が国鉄本社に持参。
用地買収に問題がないこと、また三原城跡の本丸跡や天守台跡を駅の用地として差し出せること、福山〜広島間の中間地点であること、何より在来線駅に新幹線駅を併設できる方が望ましいことから福山〜広島間の新幹線中間駅は三原駅となった。
一方の尾道市内案は尾道駅へは地形的に新幹線を乗り入れできず、約2.5 km北に建設予定のバイパス道路沿いに新駅を建設する構想であった。
1988年、駅新設に伴う工事費62億円全額を地元が負担して新尾道駅が開業している。
