夫婦のかたち1
序章:暗がりのスイートルーム、見知らぬ足音
暗めの照明が灯るホテルのスイートルーム。窓の外には、きらめく街の夜景が冷ややかに広がっている。張り詰めた沈黙の中に、衣擦れの音だけが微かに響いていた。
慶子は、鏡に映る自分の姿をじっと見つめていた。肌に吸い付くような、真っ白なタイトのナイトドレス。身体のラインを容赦なく強調するそのドレスを選んだのは、夫である幸広だった。
「ねえパパ、本当にいいの? 後悔しても知らないからね」
その「パパ」という呼び名は、慶子にとって世界で一番安全な場所への信頼の証。それを受け止める幸広の目は、嫉妬に狂っているようでもあり、同時に狂おしいほどの興奮を湛(たた)えているようでもあった。
(大丈夫。私、パパ以外の男の人になんか、絶対に感じないから……)
心の中で何度もそう唱え、自分に言い聞かせる。だが、胸の高鳴りは激しくなるばかりだった。なぜ、自分がこんな場所にいるのか。時計の針を巻き戻すように、慶子の脳裏にこれまでの3ヶ月の記憶が、鮮烈に蘇っていった。
第一章:ベッドの中の囁き――最初の波紋
すべての始まりは、3ヶ月前、いつもの自宅のベッドの中だった。シーツの擦れる音だけが響く夜の静寂。幸広の腕に抱かれながら、慶子は耳元で囁かれた言葉に、一瞬、耳を疑った。
「慶子がさ、他の男に抱かれて身体開いてくところ、見てみたいんだよね。俺じゃない男の指とか声に、のたうち回るくらい感じてるところ」
幸広の低い声は、冗談を言っているようには思えなかった。濃厚な熱を帯びて鼓動するその言葉を受け止めた瞬間、慶子は強張った身体で幸広を見上げた。
「何を言ってるの、パパ……」
戸惑いと、にわかには信じられない思いが入り混じった声。しかし、幸広は慶子の頬を包み込み、熱を孕(はら)んだ瞳でじっと見つめ返してくる。
「頼むよ」
その一言の重みに、慶子は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。悪戯なんかじゃない、本気なのだと悟り、強く拒絶する。
「嫌にきまってるでしょ。もうやめて」
慶子は幸広の胸に顔を埋め、縋(すが)りつくように腕を回した。それは妻としてのプライドであり、幸広への純粋な愛そのものだった。
「私、他の男の人でなんか、絶対に感じないから。感じるわけないじゃん。私が好きなのはパパだけなんだからさ……」
他の男に触れられることを想像するだけで、おぞましさに身震いがする。自分は貞淑な妻であり、幸広だけのもの。他の誰かが触れたとしても、心も身体も、冷たく凍りついたままでいるに決まっている――。慶子は本気でそう信じていた。
けれど、幸広は彼女の顎(あご)を優しく持ち上げ、その濡れた瞳をじっと見つめ返した。
「本当にそう言い切れる? 慶子って、自分で思ってるよりずっと感度いいよ? 俺が触らなくても、他の男の匂いに包まれて、強引にこられたら……身体は裏切るって。俺はさ、慶子がその『知らない快楽』に溺れて声上げちゃう瞬間が見たいんだよね」
その言葉に含まれた淫(みだ)らな毒が、じわじわと慶子の身体にリアルな熱として浸透していくのを確かに感じていた。
第二章:連鎖する背徳――SNSの画面と、崩れゆく境界線
それからというもの、幸広は言葉での説得を重ねるだけにとどまらなかった。ある夜、リビングでスマートフォンの画面を突きつけられた慶子は、血の気が引くのを感じた。画面に映っていたのは、SNSのタイムライン。幸広のアカウントから信じられない言葉が綴られていたのだ。
『私の美しい妻を、目の前で抱いてくれる大人の男性を募集します。妻は非常に感度が良く――』
「パパ、勝手にこんなの募集するとか本気で最低なんだけど!」
怒りと羞恥心で声を荒らげる慶子を、幸広は悪びれもせず抱き寄せた。
「まあまあ、怒らないでよ。ただ、どんな男が応募してくるか見たいだけだから。嫌なら全員速攻で断るし」
最初は「絶対に絶対に見ない!」と拒んでいた慶子だったが、幸広のスマートフォンが震え、ダイレクトメッセージ(DM)の通知が鳴り響くたび、彼女の心はざわめきを抑えられなくなっていった。
数日が経ち、幸広の隣で画面をスクロールしている時、慶子は誘惑に負けて、そっと横から覗き込んでしまった。
「……何これ、この人」
「ん? この人は商社に勤めてる30代だって。慶子の写真を見て一目惚れしたんだってさ。ほら、メッセージ読んでみなよ」
そこには、理性的でありながらも、慶子の身体をどう貪(むさぼ)りたいかが生々しく書き連ねられていた。
「うわ、何言ってるのこの人。よくこんな恥ずかしいこと書けるね……」
顔を紅潮させながらも、いつの間にか慶子は幸広と肩を並べて応募者を「閲覧」していた。
「……なんか、怖そう。この人は無理、パス」
自分を渇望する、見知らぬ男たちの欲望。それを拒みながらも、心のどこかで「女」としてのプライドが満たされていく。幸広と二人で、自分を狙う男たちをゲームのように品定めする――その奇妙な共有感が、慶子の心の防波堤を少しずつ崩していった。
