【3分間小説】終着駅に降り立ち、愛した記憶を風にほどく|let go ― m-flo loves YOSHIKA
この作品はフィクションです。特定の曲や歌詞にインスピレーションを得て執筆していますが、実在の人物・出来事とは関係ありません。音楽をきっかけに生まれた短い小説としてお楽しみください。
「これ、次の出張の資料です」
営業部に配属されたあの日から、私の視線の先にはいつも一回り年上の彼がいた。OJTとして、仕事のイロハをすべて教えてくれた人。
ほとんど毎日を一緒に過ごす中で、私が彼に特別な気持ちを抱くのは、あまりにも自然なことだった。
彼が既婚者であることは知っている。だから、この気持ちは絶対に胸の奥に閉じ込めて、一生外に出さないと決めていたのに。
「俺、お前のことを部下として見れなくなってきたんだ」
出張先のホテル最上階にある静かなバー。不意に彼に見つめられ、握られた手。私の中で頑丈に閉じていた鍵が、壊れてしまった。
家庭を壊すつもりなんて毛頭ない。多くを望む気もなかった。
だけどあの夜、私たちは理性のブレーキを失い、本能のままに不幸への列車に駆け込み乗車してしまった。
「明日からまた、普通の部下に戻る」
そう言い聞かせながらも、彼と秘密を共有する毎日は、甘くて苦い麻薬のよう。
そんな均衡が崩れたのは、ある雨の日の午後。デスクの電話が鳴った。その日はオフィスに人が少なく、私が受話器をとった。
『XXXさん、いらっしゃいますか?』
「XXXは私ですが──」
『いつも主人がお世話になっております』
名乗らなくても、その一言ですぐに誰かわかった。
受話器の向こうから聞こえたのは、穏やかで上品な女性の声。
初めて聞いた、彼の奥様の声。
『……いつも、主人の仕事のサポートをありがとうございます。出張も多くて大変でしょうに、本当に感謝しています。ただ、主人ももう若くないから、夜遅くまでの“お仕事”は、ほどほどにしていただけると助かります。』
心臓が、ドクンと冷たく跳ねた。
声のトーンはどこまでも優しく、怒りの色など一切ない。だからこそ、その言葉の裏にある「すべて知っている」という静かな牽制が、私の全身の血の気を引かせた。
頭から冷水を浴びせられたようだった。
彼の向こう側にある、私が決して踏み込んではいけない「本物の日常」。それを守る女性の、静かで圧倒的な強さ。
(何やってるんだろう、私)
受話器を置いたとき、私の手は小さく震えていた。
彼を愛していた。だけど、誰かの幸せを搾取してまで続ける恋なんて、幸せじゃない。これ以上は、もうやめよう。
私はその日のうちに、人事部に退職届を出した。
「どうして急に……!」
後日呼び出された会議室で、取り乱す彼の顔を、私は今までで一番冷静な目で見つめた。彼には奥様からの電話のことは言わなかった。それが、私の最後の強がりであり、彼への優しさだった。
「私、やりたい仕事が見つかったんです。今までありがとうございました」
完璧な嘘の笑顔で、彼の引き止める手をそっとすり抜ける。
荷物をまとめた最後の夜、いつも彼と通った改札を、今日は一人で通り過ぎた。ホームに入ってきた電車のドアが開き、乗り込む。窓ガラスに映る自分の顔は、あの出張の夜とは違う顔。
夢のような季節は終わった。これからは、真っ直ぐな光の中を歩いていこう。最寄り駅に着き、一歩を踏み出す。
夜の冷たい空気が、火照った心を引き締めていくのを感じながら、私は振り返ることなく、自分の帰るべき部屋へと歩き出した。
壊れそうな位 不安になるだけ
Oh why 独り占めしたくなるの
何も言わずに ただ君の愛がここに欲しいよ
いいなと思ったら応援しよう!
チップありがとうございます!
大変はげみになります。