目的と手段、そして、おちんぎん
目的と手段を取り違えがちである。
僕は。
たとえば働いているのは、ある意味で生活費を稼ぐためであり、僕がいちばん好きな表現をさせてもらうならば、おちんぎんを貰うためだ。なぜこの表現が好きなのかは、自由に想像してくれたらありがたい。ともかく、働くことそれ自体は目的ではないはずだ。
もちろん“目的を持って働くこと”を否定するものではない。しかし、それだって働くこと自体が目的なのではなく、もともと何かの目的があり、それを達成する手段が労働なのだとしたら、やはり労働は目的たりえない。
労働はどこまで行っても手段である。
そんな風に思っているにもかかわらず、僕は、なにやら働くことを目的としてしまい、働かなければならぬ、働くべき、などと夜な夜な、世迷言を繰り返している。べき思考が強すぎるのだ。
ハンナ・アーレントは、働くことを労働と仕事と行為に分けた。“労働”とは生命を維持するための反復的な活動で、生み出されるものは消費されて後に残らない。
残る“仕事”と“行為”というのは“労働”とはちょっと違う。読んでないからあまり詳しくは書けないけれども。
急にふわふわしたことを言い出して大変申し訳ない気持ちでいっぱいなのだけど、まあそういうことだ。
結局のところ、僕は生活のあらゆることで手段を目的にしてしまいがちだという結論に辿り着く。“目的”を、おざ…、なおざ…、おざなりにしてしまうという欠陥がある。
※“おざなり”と“なおざり”はちょっとちがう。どっちがどっちかは良くわからない。
たとえば、毎日歯を磨く。
それはお口くさーい、と言われないためであり、虫歯にならないためである。その目的はお口を清潔にすることである。
毎日の決まったルーチンとして、洗面台の前に立ち、歯磨き粉を歯ブラシに載せ、おもむろに口の中に入れる。口の中の水分と歯磨き粉が混じり合い発泡し、爽やかな味が広がる。ミント味。
この味を感じると、なんだか歯磨きをやり切った気持ちになってしまう。
歯磨き粉の美味しい味を感じたからヨシ!
とそんな感じでビシッと着地することになる。思わず洗面台の前でテレマーク姿勢。
本来、歯を磨くとは、口腔内、特に歯の間に挟まった食べカスなどを取り除き、さらには目に見えないミュータンス菌などの虫歯の原因になるものをできる限り除去すること、と定義できるだろう。つまりそれが目的である。
だからその目的を見失ってはいけないよ、と。まあ、そういうことなんですけれども。
そう思いながらも、毎日毎日、ミントの美味しい味に翻弄されている。
