回文と資本主義経済と吃驚
回文が好きだ。
怪文書と同じくらいに好きだ。
回文というのは、上から読んでも下から読んでも同じ読みになる文章のことである。
たとえば、
世の中ね、顔かお金かなのよ
(よのなかね かおかおかねかなのよ)
という有名な回文がある。
つまりそういうことなんだろうなと、そんな説得力がある。
まあ、どちらも持ちあわせていない僕としては、高く屹立する摩天楼を見上げるしかないのだと苦々しく思う初夏の侯、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
高度に発展したこの現代社会。
拡大再生産を続ける資本の運動はとどまるところを知らず、富が富を産む倍々ファイトを続けているとかいないとか。
持つものと持たざるものの格差は広がる一方なのだけれども、やはり資本主義の世の中なのだな、という実感だけはひしひしと感じざるを得ない。
ともかく資本主義というのは凄まじいものだ。おっかない。クリシェな引用をするならば
資本主義の終わりを想像するよりも、世界の終わりを想像する方が容易だ
というジェイムソンとジジェクが言ったとされるフレーズがある。読んでないからよく分からないし、ジェイムソンとジジェクについて僕は何も知らないのにカッコいいから引用してしまう。
ともかく資本主義は、世界が終わるまで続く、なんなら世界が終わっても続くよね、という予言である。
なんとか、できる範囲で、流れに抗ったり、踏みとどまったりしたいな、なんてことを夢想したりはしている。
対抗することはできなくても、対抗することを考えることが、対抗なのかもしれない。
親孝行について考えることが、親孝行であるのと同様に。
そのためには余白が大切だ。
余白が必要なんじゃなかろうか。
現代人には余白がない。
なさ過ぎるのだ。
資本主義は余白をどんどん埋めていく。空き地が駐車場になるように、駅前が駐車場だらけにならように。駐車場が多過ぎる。
もっと余白をください。
それと長袖もください。まだ朝晩は冷えるから。
余白があればなんでもできる、そんなふうに猪木も言ってた。そんな気がする。
ある学校の先生が、とある授業をしたという。
よかったら次の動画を見てほしい。三分ちょっとの短い動画だ。
老教授が教室に入ってくる。
教壇の前に立つと、その上におもむろに透明な瓶を置く。
まず彼は、鞄から取り出したたくさんのゴルフボールを瓶いっぱいに入れて、生徒たちに尋ねる。「瓶は満杯かね?」
もちろん、まだ満杯ではない。
ゴルフボールが入った瓶には隙間がある。そこに砂利を満杯に入れることができる。
砂利にも隙間がある、そこに砂が入る。
砂で終わりではない、まだ隙間があるから液体を入れることができる。
この動画からはいろいろな教訓が引き出せるかもしれない。
動画では、人生では大事なもの、大きなものから最初に入れること。他の小さなもので満たされていると、大きなものが入らなくなるからね。
という教訓が語られる。
もうひとつオシャレな教訓もあるのでそれは動画を見てのお楽しみ。
逆に、余白があれば、そこにいろいろ詰め込むことができる。という解釈もできるだろう。
余白がなければ何も入れられないのだから。
仮に砂で一杯の瓶があったとしても、無理やりボールを押し込んだら良くない?
そうすれば大切なものをしっかり瓶に入れられるんじゃない?
みたいな解釈も成り立つ。
そもそも人生は瓶じゃないし、大切なものはゴルフボールではないのだ。
あくまで例えに過ぎないから、信じ過ぎるのも良くないと思う。
ところで、僕が一番面白いと思う回文はやはりこれである。
まさかこの文章が回文になるなんて吃驚だろう?でも現にンゲ!モデウロダリクッビ、点なる何、ンブいかが?うょしん部のコカ様~
ンゲ!
の時点で心が全部持っていかれて、
うょしん部のコカ様~
で腹筋が崩壊する。
