第1章|〈判断〉という設計の対象——カラカスの公園とバリオから(後編)
前編では、カラカスの公園(Parque del Este)とバリオを歩いた経験をもとに、建築的批評とランドスケープ的批評が、それぞれ異なる地点で機能しなかったことを書きました。
それでも人は、その場で振る舞いを選ばされていた。
後編では、その「選ばされていた」という経験の正体を、もう少し丁寧に掘り下げてみます。
〈判断〉と呼ぶことにした理由
公園でも、バリオでも、共通していたことがあります。
人が、意味を理解したり、関係性を把握したりするよりも前に、どう振る舞うかがすでに方向づけられていた、ということです。
私はこれを〈判断〉と呼ぶことにしました。
ただ、この〈判断〉は、いわゆる「意思決定」や「主体的な選択」とは異なります。自分で考えて選んだ、というよりも、気づいたときにはすでに選んでいた、という感覚に近い。
建築・環境の分野では、「アフォーダンス」(空間が人に行為を誘う性質)や「ハビトゥス」(社会的な経験の積み重ねが身体に刻まれた傾向)という概念が、似たような現象を説明するために使われてきました。ただ、前者は空間と身体の適合関係に焦点を当てており、後者は時間をかけた学習の蓄積を前提としています。
〈判断〉はそれらとは少し違う層にあります。空間への適合や、社会的な学習が成立するよりも前の、もっと即時的な次元——場に入った瞬間から要請される、身体的な反応のことです。
どこで立ち止まれるか。どの速さで歩くべきか。視線を向けていい方向、避けるべき方向はどこか。どこから先は踏み込んではいけないのか。
これらは、考えて判断するのではなく、気づいたときにはすでに身体が選んでいる。
公園とバリオ、〈判断〉の違い
ここで少し立ち止まりたいのですが、公園とバリオでは、〈判断〉の性格がかなり異なっていました。
公園では、判断の余地が広かった。振る舞いの調整は緩やかで、「なんとなくここには長居しにくい」「あの方向には歩きづらい」という程度の、柔らかい方向づけでした。
バリオでは、判断の余地が極めて狭かった。「誤れば即座に危険へと接続する」という強度で、振る舞いが要請されていた。学ぶ時間も、試す余地もない。
形式も強度も、まったく異なります。でも、どちらの場においても、既存の設計言語では十分に扱われてこなかった何かが、露出していた。
その共通点を「〈判断〉の条件」と呼んでおきたいと思います。
「未完の設計」とは何か
ではその「条件」は、設計の対象になりうるのでしょうか。
ここで「未完の設計」という言葉を使いたいのですが、これは「設計が途中で終わっている」という意味ではありません。設計の失敗でも、設計の不足でもない。
建築的な読み解きでも、ランドスケープ的な読み解きでも、なお説明しきれずに残ってしまった〈判断〉の条件が、確かに存在している——その状態のことを指しています。
既存の設計言語では、まだ十分に扱われてこなかった対象が、場の中に露出している。その意味での「未完」です。
公園では、それは「建築的には回収されない余剰」として現れていました。バリオでは、「ランドスケープ的には包摂しきれない差異」として。どちらも、今ある言葉の外側にある。
カラカスは、その未完の状態が比較的はっきりと見えた場所でした。でも、同じようなことは、別の都市や、日常的な場所にも起きているはずです。
これからやっていきたいこと
この「未完の設計」を、結論として閉じるつもりはありません。
〈判断〉の条件を設計の対象として捉え直すとはどういうことか——それを、異なる都市や場を歩きながら、繰り返し確かめ、少しずつ書き換えていくことを試みていきます。
うまく言えないまま書き続けることになると思います。でも、「うまく言えない」と正直に言いながら進む方が、この問いには誠実な気がしています。
次の場所でまた書きます。
