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2026.02.15 死を語り、生を抱きしめる。〜デスカフェで流れた、静かな時間〜

2026年2月15日。
金沢・清川町の由屋るる犀々に、約15名が集まりました。
コーヒーの湯気、テーブルに置かれたお菓子。
そして、少しだけ緊張した空気。
テーマは「死を語り、生を考える。」
普段は、なるべく避けてしまう話題。
でもこの日は、あえて向き合いました。

トークテーマ➀「あなたにとって死とは?」

「今、生きているので、死は想像でしかない。」
「昨夜、身内が亡くなりました。」
その言葉が出たとき、会場の空気が一瞬、止まりました。
誰も否定しない。誰も評価しない。ただ、静かに聞く。
“亡くなった瞬間は、すっきりした変な感じでした”
という声もありました。
悲しみは、すぐにやってくるとは限らない。
あとから、ゆっくり波のように来ることもある。
その揺れを、みんなが受け止めていました。

トークテーマ②死のそばにある、生きる力。
「死を通して教えられたことは?」

多くの人が口にしたのは、
人は、最後まで生きようとする。
死の間際まで、生きる意志は消えない。
その姿を見て、
何気ない日常が、どれほど尊いかに気づいた。
朝起きること。
誰かと話すこと。
コーヒーを飲むこと。
当たり前の一日が、
奇跡のように思えてくる。

トークテーマ③「余命宣告されたら?」
「やりたいことを全部やる。」
「人生は、そんなに悪くない。」
そして問いが投げかけられました。
余命は、宣告されるべきか?
多くの人が「知りたい」と答えました。
元気なうちに知りたい、と。
でも、全員ではありませんでした。
知ることは、勇気。
知らないことは、守り。
どちらも、その人の生き方。

トークテーマ④納得できる死はあるのか
「納得して死を迎えるには?」
「見っともなくても、不格好でもいい。
 これまで生きてきた証があればいい。」
でも、ある人がぽつりと。
「納得できる死って、あるの?」
その問いに、会場がまた静かになりました。
もしかしたら、
“納得”よりも大切なのは、
不完全なままでも、生ききった時間があること。

参加者から投げかけられた質問
「突然死の場合、残された家族はどうすればいいですか?」

“もしかしたら”が、後悔になる。
“なんで”を何度も繰り返す。
「今も夫は生きているような気がします。」
その言葉に、うなずく人、目を伏せる人、
そっと息を整える人。
グリーフは、整理できるものではありません。
でも、分かち合うことはできる。
この場は、
“答えを出す場”ではなく、
“抱えたままでもいいと知る場”でした。
心の底に蓄積された処理できない「わだかまり」や
「悔やむ気持ち」を解き放ち、こころが自由になれる
時間でもありました。


参加者の声
アンケートには、こんな言葉がありました。

  • 納得する死はないと思った

  • 不完全さを良しとして生きたい

  • 何気ない日常が、こんなに素晴らしいとは

  • 人生時計で言えば、私は今23時かもしれない

死を考えたはずなのに、
最後に残ったのは、より良く生きる話でした。


最後に
参加したお坊さんが言いました。
「人間は、必ず死ぬ。」
当たり前の言葉なのに、
胸にまっすぐ入ってきました。

丸谷理事長は、こう結びました。
「最期まで、どう生きるかが大切。」
死を語ることは、
生をあきらめることではない。
むしろ、
今日を丁寧に生きるための時間。
日常では話せないからこそ、
こういう場が必要なのだと思います。

重いテーマなのに、帰る頃には、
なぜかみんな、少しやわらかい顔になっていました。
死を語り、生を抱きしめる、考える。
そんな午後でした。

講師/菅朱弥
テーブルFA/丸谷・藤橋・米田
記録/受川


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