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2090年『日本沈没』

【近代刑法思想の限界】

「完璧な安全」がもたらす国家と社会の自死

はじめに ── 「不道徳」と「犯罪」の峻別という難問

近代刑法というシステムは、人類が長い流血の歴史を経てたどり着いた、ひとつの「諦念の結晶」である。
人間は誰しも、頭の中でろくでもないこと、不道徳なこと、時には反社会的な衝動を抱く。
近代刑法は、その「心の中の闇」をあえて取り締まりの対象から外した。
なぜなら、人間の不完全さを認め、行動として表出(既遂または明らかな未遂)しない限りは処罰しないという「諦め」こそが、個人の自由を担保する唯一の防壁だからである。
しかし、もし技術の進歩がその防壁を取り払ってしまったらどうなるか。

本稿は、対話体を用いてその思想的帰結を極限まで押し進めた、ある「思考実験」の記録である。

第一章:可能性の先払い ── 予防拘禁の論理


「ねえ坂間さん」

「なんですか」

「飲酒運転って不思議ですよね」

「なぜです」

「だって事故を起こしてないのに怒られるじゃないですか」

坂間千鶴はコーヒーカップを置いた。
凛々子がこういう話を始めるときは、大抵ろくな結論にならない。
もっとも、ろくな結論にならない可能性だけで人を逮捕できる時代になったら、凛々子は生まれて三日で拘束されていただろう。

「事故を起こす可能性が高いからです」

「可能性」

「はい」

「未来の話ですね」

「そうです」

「未来を理由に怒られる」

「そうとも言います」

凛々子は感心した。感心すると危険である。
人類史はそのことを何度も証明している。

「なるほど」

「何がです」

「未来を先回りして捕まえる」

「捕まえるとは言っていません」

「でも実質そうですよね」

坂間は返事をしなかった。反論しにくかったからである。

飲酒運転。
無免許運転。
速度超過。
信号無視。
一時停止違反。
どれもまだ人を傷つけていない。
しかし処罰される。
なぜなら事故が起きてからでは遅いからだ。
人類は何十万人もの死者を見て、それを学んだ。

正しい。
間違っていない。
たぶん。
おそらく。
できれば。
...。と

第二章:統計による予測という「便利」の罠


「ねえ坂間さん」

「はい」

「強盗も同じじゃないですか」

「違います」

「なぜ」

「強盗は計画だけでは捕まりません」

「でも…交通事故を起こさなくても、交通違反は処罰されます」

「それは」

坂間は少し考えた。

「交通事故は統計的に極めて発生しやすい」

「なるほど」

「だから先に止める」

「便利ですね」

「便利です」

「強盗も統計で予測できるようになったら」

「嫌な話ですね」

「先に止める」

「嫌な話です」

「殺人も」

「嫌です」

「放火も」

「もっと嫌です」

「恋愛も」

「なぜ恋愛が出てくるんです」

「だって危険ですよ」

坂間は認めたくなかったが、恋愛がしばしば人間を愚かにすることは否定できなかった。
もっとも、愚かさを取り締まり始めると国会議員の九割が失職する。

第三章:近代刑法における「優しさ」の正体


「近代刑法はですね」

坂間は言った。

「人間がろくでもないことを考えるのは仕方ないという前提でできています」

「優しい」

「優しくありません」

「そうですか」

「諦めているだけです」

「もっと優しい」

「そうかもしれません」

凛々子は窓の外を見た。
信号待ちの車が停止して縦列で並んでいる。
みんな律儀に止まっていた。
警察官はいない。
監視カメラも見えない。
それでも止まる。
人間は不思議な生き物である。

「つまり」

凛々子は言った。

「考えるだけなら自由」

「はい」

「やると怒られる」

「はい」

「その中間が難しい」

「その通りです」

「なるほど」

凛々子は納得した。
坂間は不安になった。
凛々子が納得したときは、ろくなことにならない。
その予感は当たった。
三十年後に。

第四章:テクノロジーの完成と「全員賛成」の全体主義


二〇六〇年。

人類はついに脳波の完全解析に成功した。
誰が何を考えているか。
どんな夢を見ているか。
どんな衝動を持っているか。
すべて瞬時に記録できるようになった。

国民は歓迎した。
犯罪がなくなると思ったからである。
政治家も歓迎した。支持率が上がると思ったからである。
警察も歓迎した。仕事が楽になると思ったからである。

誰も反対しなかった。
反対するとやましいことが瞬時に収集されるからだ。

「ねえ坂間さん」

「嫌な予感しかしません」

「まだ何も言ってません」

「あなたの場合、それで十分です」

凛々子は新聞を広げた。
新聞はまだ存在していた。
絶滅危惧種だったが。

「強盗予備罪で三万人逮捕」

「はい」

「殺人予備罪で二万人」

「はい」

「詐欺予備罪で五万人」

「はい」

「すごいですね」

「何がです」

「日本人、そんなに暇だったんですね」

「違います」

「違うんですか」

「人間は昔からそうです」

「昔から」

「ええ」

坂間はため息をついた。

「昔は検出できなかっただけです」

第五章:一億総「自宅拘留」社会の到来


二〇六五年。

刑務所が足りなくなった。
刑務所を増設した。
それでも足りなかった。
学校を刑務所にした。
足りなかった。
体育館を刑務所にした。
足りなかった。
ショッピングモールを刑務所にした。
足りなかった。

ついに政府は決断した。
自宅を拘留施設とする。
国民は拍手した。
刑務所に行かなくて済むからである。

その結果、日本中の家が刑務所になった。

「坂間さん」

「なんです」

「外に出ると逮捕される確率があがります」

「そうですね」

「家にいても逮捕されますけど」

「そうですね」

「違いは」

「電波の伝達速度です」

「なるほど」

第六章:完璧なる「犯罪ゼロ」と社会機能の停止


二〇七〇年。

犯罪発生件数ゼロ。
政府は盛大に祝賀会を開いた。
ただし出席者は全員自宅からリモート参加だった。
自宅拘留中だからである。

「ついにやりました!」

総理大臣が叫んだ。

「犯罪ゼロです!」

国民は拍手した。
ただしリモートだった、ほぼ全員拘束中だったから…。

「ねえ坂間さん」

「なんです」

「成功しましたね」

「そうですね」

「犯罪ゼロ」

「ええ」

「理想社会」

「たぶん違います」

「なぜ」

「国民の半分が拘留中です」

「半分なら大丈夫」

「残り半分も未決拘留中です」

「完璧ですね」

第七章:人工知能(AI)と機械への波及


二〇七五年。

AIへの監視が始まった。
理由は簡単だった。
AIも未だにハルシネーション製造業者だから。

「ねえ坂間さん」

「なんです」

「AIが逮捕されました」

「罪状は」

「計算ミス予備罪」

「まだミスしてないんですよね」

「してません」

「予備ですから」

「便利ですね」

「不便です」

翌週。
物流AI停止。
農業AI停止。
医療AI停止。
理由は同じだった。
将来エラーを起こす可能性があるから。

二〇八〇年。

ロボットが拘束された。
故障予備罪。
転倒予備罪。
誤作動予備罪。

人類は安心した。
危険が減ったからである。
同時に工場が止まった。
物流も止まった。
発電所も止まった。
人類は少し困った。

でも…危険は除去できた。
だから良いことだとされた。

二〇八五年。

最後のロボットが停止した。

「坂間さん」

「なんです」

「誰も働いてません」

「そうですね」

「誰も運んでません」

「そうですね」

「誰も作ってません」

「そうですね」

「誰も何もしてません」

「そうですね」

「安全ですね」

坂間は窓の外を見た。
道路には何もなかった。
車もない。
人もいない。
犬もない。
猫もいない。
猫は昔から言うことを聞かなかったので、たぶん真っ先に逮捕されたのだろう。

終章:安全という名の絶滅

二〇九〇年。

日本政府は最後の記者会見を行った。
総理大臣が演台に立つ。
記者はいない。
全員拘留中だからである。
官僚もいない。
全員拘留中だからである。
国民もいない。
全員拘留中だからである。
AIもいない。
停止中だからである。
ロボットもいない。
停止中だからである。

総理大臣は満足そうに言った。

「本日をもって犯罪は完全に根絶されました」

誰も拍手しなかった。
拍手による騒音発生の可能性があったからである。

「我が国は世界で最も安全な国家となりました」

誰も反論しなかった。
反論する者がいなかったからである。

総理大臣は微笑んだ。
そして逮捕された。
権力濫用予備罪だった。

「ねえ坂間さん」

「なんです」

「日本、沈没しましたね」

「海には沈んでいません」

「でも沈没です」

坂間は頷いた。
確かに沈没だった。

国土はある。
建物もある。
道路もある。
橋もある。
法律もある。
だが人間がいない。
正確には全員拘留中である。

「近代刑法って賢かったんですね」

凛々子が言った。

「今さらですか」

「だって」

凛々子は空になった街を見た。

「人間って、少し危険なくらいじゃないと、生きられないんですね」

坂間は黙った。
その発言は正しかった。
しかし正しい発言には危険がある。

二人はその日の夕方、
思想逸脱予備罪で拘束された。

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