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【道行き3-3】

【第三章 『写真』-3】

 熊ケ根駅くまがねえきを左に見てから、その向いにあるコンビニの駐車場に八雲やぐもは車を入れた。
「どうしたの?」そう聞く茉由まゆに八雲は言う。
「トイレを済ませてから行こう」
「私はまだ大丈夫よ」
「ダメ、奥新川駅おくにっかわえきはトイレないから」
「え! ないの?」
 トイレがないという八雲の一言に驚き、茉由は聞き返した。

「駅にはまだあると思うけど、男女共有の和式のどっぽん便所だよ。そこでする? 昔は川の近くにもあったけど、そこも和式のどっぽん便所で…… 薄暗くて…… 臭くて…… 変な虫がいっぱいいて……」
「もういい、トイレに行きます」聞いているだけで気持ち悪くなりそうだった茉由は、八雲の話を止めて車から降りた。

 ついでにお菓子と飲み物を買い込んで、八雲が運転席のドアを開ける。並んで歩いてきた茉由は、迷うことなく助手席へ。車が走り始めるとすぐ、茉由は自分が不思議な安心感に包まれていることに気づいた。
「どうして? 私、ぜんぜん緊張してない。それだけじゃない、無意識に助手席に乗ってる」こんなことは、茉由自身ほとんど経験したことがなかった。
 別れた夫、みのるの運転でも、こんなことはなかったし、父、のぼるの運転などは最悪だった。「なぜこんな人が、免許取れたの?」と、免許行政が信じられないくらいだった。

「一番近いのは、尾形おがたのおじさまか隆夫たかお……」だが隆夫の運転でも、茉由はいつも緊張で右足を踏みしめていた。つまり、あるはずのない助手席のブレーキペダルを踏んでいたのだ。
 ところが茉由は今、無意識に助手席を選んでいた。さらに、このことに何の疑いも持たずこれまでの時間を過ごしていたことが、とても恐ろしいことのように感じた。
 だが、「でもいいわ、これはこれで悪くない。たぶん年上の男性に惹かれる若い子って、こんな感じなのね」そんなことを考えながら、茉由は瞳を閉じた。猛烈な眠気に逆らえなかったのだ。エンジンの音と路面から伝わる振動が、とても心地よかった。
「かわいい寝顔だなぁ〜」助手席でうたた寝している茉由の寝顔を盗み見て、八雲はクスクスと笑った。

 ニッカウヰスキー工場の入口を横目に見ると、奥新川駅に向かう道の入口はもうすぐだ。道端に立つ二体の大きなこけしが、作並温泉さくなみおんせんが近いことをドライバーに知らせている。
 八雲はスピードを少し落として、左側を注意深く見ながら走る。そば屋の看板を見つけると「ここだな」と小声で呟き、左折して林道のような細い道に車を入れた。

 大きなそば屋の看板の隣にあった小さな立て看板に「奥新川橋」という表記があった。そのそば屋までの数百メートルは舗装路だったが、その後はラフロードになる。車のフロントガラスには、鬱蒼とした杉の木立が広がっていたが、やがて車は杉林を抜け、さらに山の奥地に入って行く。荒れた林道は上下に大きく車を揺らす。そんな車の動きに驚いて茉由が目を覚ました。

「な、なに! いったいどこを走っているの?」
 車のフロントガラスには、茉由が見たこともない山の様子が映し出されている。なにがどうなっているのか、とっさに判断がつかない茉由に、車を走らせながら八雲が言う。
「起きたか、もう少しで着くよ」
 変わらない口調で話す八雲とは対称的に、いや、そんな八雲の声などまったく聞こえないほど、茉由はパニックになっていた。
「私が寝てる隙にこんな山の中に連れ込んで、なにをする気! 停めなさい! 警察呼ぶわよ! 訴えてやる!」

「違う、落ち着け! 落ち着けって!」
 八雲の言うことなど、もう茉由にはなにも聞こえない。髪を振り乱し、鬼の形相で八雲を睨んでいる。
「停めないなら、勝手に降りるわ!」そう言うと茉由は、ドアを開けようとノブをガチャガチャと動かしたが、ロックが掛かっていてドアは開かない。
「危ない! 危ないから止めろ。今、停めるから」
 しかたなく、八雲は道幅が広くなったところで車を停めた。間髪を容れずに茉由はロックを外してドアを開け、逃げるように車外へ飛び出した。

「ふざけないで、いったいどういうつもり! 絶体警察にいうからね!」
「だから、落ち着け。私はただ、奥新川駅に向かっているだけだ」
「こんな山の中に駅があるって言うの! そんな嘘、小学生にも通じないわ」
「とにかく私の話を聞け、ちゃんと話すから」
「はぁ、はぁ」と肩で息をしながら髪を振り乱し、鬼の形相のままで茉由は八雲を睨みつけた。
「知らなかったのか? いいか、奥新川駅は全国的に有名な秘境の駅なの」
「秘境の駅?」

「そう、秘境の駅。だからこんな山道を走って行くのさ。数年前までは駅の近くの集落で三人ほどが暮らしていたそうだけど、今、その集落で暮らしている人がいるのかさえわからない」
「……」
「だから、トイレも先に済ませて来たんじゃないか」
「そんな…… だってそんな話、聞いてなかった」だんだん落ち着いてきた茉由まゆは、息を整えながら八雲やぐもに言った。
「話そうとしたけど、キミが眠ってしまったからね」
「本当ね、本当にそうなのね!」
「嘘など言ってないよ。どうして私が嘘を言わないといけないの?」
「だって、『ヌードの写真撮りたい』とかって言うから……」
「そんなことで……」

 八雲は呆気にとられたが、やっと落ち着いてきた茉由を見て安心したように、向かいの山並みを見つめた。
「見てごらん、あの赤い鉄橋が仙山線せんざんせんだよ」
 八雲の指さす先を茉由は目を細めて見た。そうと教えてもらわなければ見逃すほどの小さな赤い鉄橋が、山の中腹に見えた。
「あれが仙山線の線路なの?」
「そう、こんな山の中を走って山形に向かう。奥新川駅は宮城県側の一番西にある駅なんだ。そこに行く道は、この林道しかないのさ」そう言いながら、八雲は道路脇の石に腰を落とした。
「このJR仙山線せんざんせんは、日本初の交流電化が行われた路線なんだ。そして、途中で他の市町村を通ることなく仙台市と山形市、つまり県庁所在地同士を直接結ぶ、JR唯一の路線なんだよ」
「そうなの、私、なにも知らなかった……」
「わかってくれたなら、それでいい」
「あなたがなにも言わないから…… 最初に説明されれば、私だってこんなことしないわ」
「はいはい、私の説明不足でした。ごめんなさい」
「私も勝手に取り乱して、ごめんなさい」
「ついでだから、ひと休みしよう」そう言うと、八雲はポケットからタバコを取りだし火を着けた。

 車のガラスを鏡にして、手櫛で髪を直していた茉由が「何か飲みますか?」と、八雲に聞いた。
「キミは車の中にいなさい」
「大丈夫よ、そっちに持って行くわ」
「熊が出るよ」
「熊ですって!」茉由はギョッとした顔をし、急いでドアを閉めた。

「なぜ、あなたは外でタバコなんか吸ってたの? 熊が怖くないの」気を取り直し、走り出した八雲に茉由が聞いた。
「自然界の生き物はタバコが嫌いなのさ、だから寄ってこない」
「そうなの?」
「そう。こんな体に悪いものをわざわざ作って、火をつけて煙を吸うなんてバカな生き物は人間だけ。賢い野生動物たちは、みんな『ヤバい』ってすぐわかるんだよ」
「……」
「着いたら鈴を着けてね。熊避けだから」
「わかった」

 やがて、車は短いトンネルに差し掛かった。

  ーー続くーー



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