【道行き7-3】
【第七章『佳奈』-3】
カフェを出た茉由は、隆夫のところに行くため原チャに乗った。メットを被ったときの違和感は大きかった。髪が短くなって、ワンサイズ大きなメットを被ったように感じたのだ。
病室の前で茉由は一瞬立ち止まる。「だいぶイメージが変わったわよ」といった佳奈の言葉が思い出された。「まさか、『わからない』ってことはないよね」そんなことを考えながら引き戸をノックする。
病室の引き戸は開いたままだった、ベッドの上で隆夫が本を読んでいるのが見える。その隆夫がノックに気づき、引き戸を見てポカンとしている。
「こんにちは、調子はどう?」
いつも通り声をかける茉由を隆夫は凝視している。
「あの~ どなた……」
「エヘヘ、わかんない? わたしよ」
「わたしって……」
そう言って茉由を見つめた隆夫が驚きの声を出す。
「茉由!」
「よかった、違う女の人の名前じゃなくて」
「どうしたんだ、その髪」
「そうか、隆夫は初めてだったね。似合うでしょ! 三年くらい伸ばして切るのよ、私。ヘアドネーションって知らないよね」
「なんだその、ヘアなんとかって?」
「なんとか、じゃなくてヘアドネーションよ。って言っても、男の人はたいてい知らないわね」
「病気とかで髪をなくした子どもたちにウィッグ、と言ってもわからないか。簡単に言うと、人毛で作ったカツラを送るボランティアのことだよ」
「え!」背後から男性の声がして、驚いた茉由が振り返る。
「昌夫さん」
ベッドの上から、隆夫が声をかけた。
「久しぶりにきたけど、おじゃま虫になったみたいだね」
「そんなことないですよ。なぁ、茉由」
照れくさそうに隆夫が言った。
「こんにちは、昌夫さん」
「こんにちは。ずいぶん髪、短くしたんだね。驚いたよ。でもよく似合っているよ」
挨拶した茉由だったが、今まで八雲からもらった言葉たちはどこかへ吹き飛び、佳奈に植え付けられた不埒な言葉だけが頭を支配していた。
「惚れたんでしょ?」
「ネ・タ・ノ?」
「いつになった、体の関係になるの?」
明確に否定できなかった自分の目の前に、今、当人がいる。茉由は鏡など見なくても、自分の顔が真っ赤になっていることがわかる。動きがぎこちなくなり、次の言葉が出ない。
「あ、あ、あの、私、お茶買ってきます」
耐えきれず、茉由は逃げ出すように病室を出た。
「どうしたんだ、アイツ?」
「だから、私は『おじゃま虫だ』ってこと」
八雲は笑いながら隆夫に言う。だが、その瞳は笑っていなかった。
「ヘアドネーションか…… 小百合もしていた。こんなところで同じような人と出会うとは、人生なんて皮肉なものだ」
そんなことを考えている八雲に、隆夫が聞いた。
「ところで昌夫さん、どうしたんですか、今日は」
「久しぶりにお見舞いにと思ってね。それと、少しお願いがあってきた。どうなの、具合は?」
「はい、もう大丈夫です。軽い散歩くらいはできるようになりました」
「それはよかった、包帯まみれのときは本当に心配したよ」
「すいません。なんか今回はいろんな人に迷惑かけました」
「あはは、隆夫らしくないな~ ずいぶん反省したかな」
「はい、本当に申し訳なかったと思っています」
「いいさ、何事も経験だ。ただ、もう少し慎重に行動することも必要だ」
「そうですね、軽率だったと思っています」
「そうだね、自分のことだけではすまないこともある。今回は下月さんに被害が無かったから良かったが、いつもそうとは限らない」
「わかってます。今回はたまたまラッキーだったということも」
「それがわかれば、今回の失敗も無駄じゃないってことだ」
「はい、わかりました」
「ところで、田澤さんからなにか言われた?」
「はい。退院したら、被害者としてあらためて調書を作るからと言われています」
「そうか。ま、協力してやってくれ」
「はい、茉由を助けてくれた人ですから、私はなんでもします」
「わかった。ところでお母さんは今日は?」
「後で来ると思います」
「そうか」と言って、なにかを考えていた八雲に隆夫が言う。
「ところで、昌夫さんのお願いって、なんです?」
「そうそう、あの車をもう少しの間、貸してほしくてさ」
「なんだ、そんなことですか。いいですよ、いつまで使ってても」
「そんなに長くは必要ないんだ。あと半月くらいでいいんだけど」
「大丈夫です、使ってください」
「ありがとう、助かるよ」
「今日もあの車で?」
「そうだよ、そこの合同庁舎に用事があってね」
「合同庁舎?」
「パスポートを受け取りに来たんだ」
「え! パスポートって、外国行くんですか? 旅行? どこに行くんですか?」
「旅行じゃない、仕事だよ。イスラエルに行く」
「イスラエルって…… 今戦争してる国じゃないですか!」
病室の出入り口で、「バサ」と買い物袋が落ちる音がした。
「ごめん、落っことしてしまった」
すぐ買い物袋を拾いながら、照れくさそうに茉由が言う。だが、その顔面は蒼白だった。
「どうしたんだ。顔色悪いぞ、茉由」
「うん、大丈夫。髪切ったからかな〜 なんだかちょっと……」
茉由が言い訳のように言う。
「大丈夫か?」
「……ちょっと私、家に帰って少し休むわ。ごめんね隆夫」
そう言うと、「これ、頼まれた本」と言って隆夫に昨夜買った小説を渡し、茉由は病室を出て行った。
「どうしたんだろう? あいつ」
隆夫にそう問いかけられた八雲は、なにかを考えているようで、なにも答えなかった。
「お帰り、早かったな」
そう言う昇に返事もせず、茉由は自分の部屋に入る。
「どういうこと? イスラエルって、仕事って、戦争してる国に行くって…… 私、なにも聞いてない!」
茉由はどこをどう走って帰ってきたのか、まったく記憶がない。原チャのエンジン音すら、自分の心音のようにうるささを感じなかった。「八雲が日本からいなくなる」ということを立ち聞きしてしまい、どうすればいいのかまったくわからい。頭の中がパニックになり、自分を制御することができなかった。
「おい茉由、どうしたんだ」
いつもとまったく違う茉由を心配して、昇が部屋の外で声をかける。
「なんでもない。ごめんなさいお父さん、ちょっと一人にしてほしいの」
「わかった、心配だっただけだ。なにかあったのなら言いなさい」
「大丈夫、ちょっと一人で考えたいの。ごめんなさい」
「わかった、私は店にいる。落ち着いたらコーヒーでも飲みにきなさい」
「ありがとう、お父さん」
「やれやれ」というように頭を振りながら、昇は店に戻って行った。
茉由は自分のベッドにうつ伏せになっていた。涙が流れる、なぜか無性に悲しい。悲しくてやり切れない気持ちのまま、時だけが流れていた。
いつの間にか茉由は眠っていた。目を覚ますと、もう夕暮れになっている。「夕ご飯、作らないと……」そんなことを考えながら、茉由はベッドから起き上がる。立ち眩みがして、茉由はベッドサイドに腰掛ける。電気もつけずに、ただ茉由はそのまま項垂れていた。
「茉由、入るぞ」
ドアをノックする音がして、昇の声がする。
「はい」
「どうしたんだ、電気もつけないで?」
茉由の部屋に入った昇は電灯のスイッチを入れる。部屋が明るさを取り戻した。
「ごめんなさい。心配かけて」
「ま、お前もいろいろあるんだろう。夕食にカレーを作ったんだが、食べないか?」
「ありがとう、お店に行きます」
「そうか、じゃ先に行って用意しておく。すぐ来るか?」
「うん」
「わかった」
開け放たれた部屋のドアから、スパイスの効いたカレーの匂いが微かに流れ込んできた。ふらつく足で茉由は店に行った。昇が二人分のカレーをテーブルに用意している。客は一人もいない。
「お店、どうしたの?」
「夜は休みにした」
「ごめんなさい」
自分のことを気遣って店を閉めてくれた。その昇のやさしさが茉由にはありがたかった。とても客に見せられるような顔でないことは、茉由自身が一番わかっていた。
ーー続くーー

