【道行き2-4】
【第二章『車』-4】
明るいシルバーメタリックに再塗装されたその車は、八雲を待っていたかのように静かにアイドリングを繰り返していた。
「2006年式の NISSAN March オーテックジャパン仕様の12SRです」
「どうぞ」とコーヒーを差し出しながら、隆夫が八雲に言った。
「これに乗れと?」
「この車、面白いですよ、さすがはオーテックチューンですね。エンジンは組み直してあります。給排気系だけ若干いじってありますが、パワーとトルクはカタログデータにプラスα程度です。走らせればわかりますよ」
「まいったね~ ちょっと東北回るだけだから、こんな高スペック要らないのに」
「わかるんですか? 見ただけで」ふたりの会話に割って入るように、茉由は八雲に聞いた。
「立ち姿がいい! この車は変なクセがついてないし、事故も起こしてないはずだ。なにより、この車がもつ雰囲気というか独自の存在感がスゴい。そのへんに停まっているそれらしい車とはまるで違う。それにこの落ち着いたアイドリングを聞けば、どれだけ隆夫君が心を込めて組み上げたエンジンかわかる。ブローなんかさせたら、たぶん殺されるね」
「そんなこと、二度としません」
「二度と?」隆夫が言った一言が気になった茉由だったが、その場は聞き流した。
「これから出るんですか?」
運転席に腰を下ろす訳でもなく、左斜め前方から黙って車を見ている八雲に隆夫が聞いた。
「いや、今日はまだ仕事が残っているんだ。それには車があると便利だからさ。ちょっと買い物あるし、出るのは夜中かなぁ~ 二時か三時くらい」そう言いながらドアを開けた八雲は、躊躇するようにそこで動きを止める。
「隆夫君、気のせいかな? マニュアルに見えるんだけど……」
「もちろんです。昌夫さんにオートマなんて用意出来ませんよ。ははは」
「ははは、って、そういう気の使い方は必要ないんだけど……」誇らしげに言う隆夫とは対照的に、八雲は「まいったな……」という顔をしていた。
そんな八雲をからかうように、茉由が聞く。
「あれ、マニュアルは苦手ですか?」
「いや、苦手っていうか…… もう十年以上オートマしか乗ってないからさ。クラッチの踏み方忘れたよ」
「何言ってるんですか、昌夫さん。そうだ、いい機会だから茉由も一緒に乗せてもらえよ。きっといい勉強になるよ」
隆夫のこの提案に八雲はギクリとする。
「な、何を言ってるんですか! 脅かさないでください」
上ずった声で八雲が言う。この大袈裟すぎると思える八雲の慌てように、イタズラ心を刺激された茉由は、この中年男を少しイジメたくなった。
「この車、私が慣らし運転したんです。どんな人が乗るのかなぁ~ って考えながら走ってました。ぜひ、ご教授お願いします」
そういう茉由を、八雲は美しい陶器のように見つめ、すぐ目を逸らした。
「隆夫君……」八雲が裏返った声を出し、すがるような目で隆夫を見る。
「いいじゃないですか、ちょこっとその辺走って見せてやってくださいよ」
隆夫が笑いながら言った。
「なぜ人は、『イヤだ!』と泣きが入った人を、さらにイジメて楽しむのだろう? そこには明確な理由などない。たぶんネコが捕まえたネズミにじゃれるのと一緒だ」そんなことを八雲は考えていた。
「うふふ、さぁ行きましょ! 昌夫先生」だめ押しするように、茉由は助手席でシートベルトを締めながら言う。
「どうなっても知らないよ」そう呟き、「この子もネコだ」と八雲は思いながらシートベルトを締めた。
ギアの位置を確かめるように、八雲がシフトレバーを前後左右に動かしている。
「本当は他人の運転が苦手なんだけど……」助手席に座っている自分の体が少しずつ緊張し始めていることを感じながら、茉由はそんなことを思った。
一速にギアが入り、左足がゆっくりクラッチをつなぐ。アクセルはアイドリングのままだ。「プス」という表現が、もっとも近いだろう。車は動き出すことなくその場でエンジンを止めた。エンストしたのである。
「あれ、おかしいな……」八雲は焦りながらエンジンキーを回す。何事もなかったようにエンジンは再スタートした。全く同じ要領で八雲はクラッチをつなぐ。「プス」またもやエンストである。
「あの…… サイドブレーキ」戸惑いながら、茉由は指摘した。
「あ、サイドブレーキね。そうだった、これを外さないと……」
誰の目にもわかるほど焦った様子で、八雲はサイドブレーキを戻す。エンジンキーを回す。同じ動作がまた繰り返される。本当に「なんとかなった」という状況で、やっと車は動き出した。
「やっぱりそれをやるんだな……」手塩にかけた車が、八雲の運転によってぎこちなく走り去るのを見送ってから、隆夫は車庫のシャッターを締めた。
「隆夫…… この人の運転から、何を勉強するの?」八雲のぎこちない運転に車酔いしそうになりながら、助手席で茉由は考えていた。
「まただ、減速の時はギアを落としてよ!」
「エンストしそうよ、スタートはちょっとアクセルを開ければ!」
ツッコミどころ満載の八雲の運転に、茉由はうんざりしていた。だがそんな茉由のことなど意に介さず、八雲は何かを確かめるようにぎこちない運転を続ける。
「え!」
茉由が声を出しそうになったのは、その道の唯一の難所に差し掛かった時だった。そのコーナーをキレイに抜けるルートはたった一つしかない。しかもそのルートは減速せず、外側いっぱいから加速して抜けるのだ。その難しいアプローチができない一般ドライバーは、フラフラと減速してコーナーを回る。当然、八雲も減速するものと茉由は思っていた。
しかし、八雲は外側に車を誘導する。しかも茉由が寄せたこともないガードレールギリギリからフル加速してコーナーを抜けた。コーナーを回っているのに、加速Gで身体がシートに押し付けられる。茉由は思わず目を閉じそうになった。
「ふう、危なかった!」と息を吐きながら、八雲はコンビニに停車する。
「難しい車だなぁ~」そう呟いてから、車を降りた。
「運転、代わりましょうか?」
「事故られるかと思ったわ」そんなことを考えながら、茉由は外に出た。
「お願いできると、うれしい」そう言いながら、八雲はコンビニに入って行った。
トイレを済ませ八雲が車に戻ると、茉由はもう運転席に座っていた。
「タバコを一本吸わせて」
「どうぞ!」
申し訳なさそうに聞いた八雲に対し、茉由の返事は不機嫌そのものだった。
「事故られるかと思ったけど、よく考えたら、あのルートをあの速度で抜けるなんて、シロートにできることじゃないわ。これってどういうことよ、私をからかって遊んでいたわけ!」と、だんだん怒りがこみあげてきた。八雲の一瞬のハンドルさばきを見逃すほど、茉由はシロートではなかったのだ。
対して八雲は、「感情の起伏が激しい子なんだな……」と、呑気にタバコをくゆらせながら、不機嫌そうな茉由を眺めていた。
運転を代わった茉由は、苛立ちをぶつけるように幹線道路を疾走し、僅か数分で隆夫の自宅に戻ってきた。
タイヤのスリップ音とともに停車した車の運転席から、苛立ちを隠せない茉由が外に出る。
「どうした?」そんな茉由に驚いて隆夫が聞いた。
「だって……」と言ったきり、茉由は俯いている。
「いやぁ~ 驚いた。上手いもんだ」そんなことを言いながら、八雲も車を降りた。
「何かあったんですか?」そう隆夫に聞かれ、
「いや、何も。きっと私の運転が下手すぎたのでしょう」と、八雲は答える。
「そんなバカな……」訳がわからない? といった表情の隆夫を気にする様子もなく、「それじゃ、お借りします」と丁寧に頭を下げて、八雲は運転席のドアを開けた。
「いったい、どういう人なの?」まだ、苛立ちの治まらない茉由が隆夫に聞く。
「何をそんなに苛立っているんだ?」そう隆夫に問い直され、茉由は力なく項垂れると「帰るね」と呟き、原チャを押して隆夫の家を後にした。
「いったい、何があったんだ?」一人残された隆夫はそんなことを考えていた。
ーー続くーー

