【道行き1-1】
【第一章『翠1』】
その日は朝から小雨が降る、肌寒い日だった。
徹夜で向こう一週間分の仕事を一気に片付けた八雲は、疲労に耐えきれずソファーに横になった。毛布をかぶり意識を手放したとき、すでに東の空が白み始めていた。
雨音で目を覚まし、時計を見ると午後二時を過ぎている。
カーテンを開け窓を眺める。小雨だが、一度眠りに落ちた体は外出する気を起こさせない。しかし、腹が減ってどうにもならなかった。冷蔵庫を開けても、男のひとり暮らしに食料の備蓄はない。中身はいつも空だ。
しかたなく八雲は、紺のポロシャツにジーンズという冴えない部屋着に撥水性のあるブルゾンを羽織り、傘をさして近くのコンビニに向かった。
十数分歩いてコンビニに着くと、駐車場に奇妙な行動をとる年配の女性がいた。年は七十代くらいだろう。イエローのハイネックカットソーにベージュのカーディガン、濃い茶色のパンツを履いている。
「自分の母親が生きていれば、同年代くらいだろうか」そう考えた八雲は店内に入らず、入り口近くでその女性の行動を見ていた。
女性は雨で髪や服が濡れるのも気にせず、旧式の軽自動車のドアを力任せにガタガタと開けようとしている。だが、ドアは全く開く様子がない。運転席がダメなら助手席、さらに後部座席と、同じことを繰り返すが、軽自動車はグラグラと車体を揺らすだけだった。
やがて女性は諦めたのか、まるで人生が終わったかのように力なく項垂れて、店舗の軒先に歩いてきた。
「どうなさったのですか?」
後ろから若い女性の声がする。八雲が振り返ると、コンビニの制服を着た女性がゴミ箱を片付ける手を止め、不思議そうに女性を見ていた。何度かこのコンビニで見かけたことがある店員だ。長いストレートの黒髪を後ろにまとめ、顔は小さく見えた。口元には優しげな微笑みが浮かんでいる。
項垂れていた女性は、その声に反応して店員に駆け寄った。縋るように早口で話し出す。
「孫が、孫が警察に捕まって、刑務所に」
「え!」驚いて固まる女性店員に、女性はなおも話し続ける。
「車のドアが開かないのです。私、慌ててロックしてカギを取るのを忘れて。早く家に帰ってお金を弁護士さんに渡さないと、孫が、孫が……」
涙声になりながら、女性は女性店員の両腕を掴み訴えた。しかし、女性店員はその場に立ち尽くしていた。何を言っているのか、状況が理解できないようだった。
その様子を見ていた八雲は二人に近づき、年配の女性に話しかけた。
「話に割り込んですみません。もしかしてカギを抜かずにロックしてしまったのですか?」
「そうなんです。早く帰らないとお金が渡せなくて、孫が……」
「わかりました。とにかく、そのままでは風邪をひいてしまいます。一度店内に入って暖まった方がいい。髪も拭かないと」
八雲は女性を落ち着かせようとしたが、興奮している女性は食い下がるように言った。
「でも、そんなことをしている時間はないのです。あと五分で約束の時間なんです」
「落ち着いてください。今は車のロックを解除することが最優先です。私が何とかやってみますから」
女性にそう言ってから、八雲はコンビニの女性店員に尋ねた。
「針金で作ったハンガーを持っていませんか? よくクリーニング店で使うような」
「それなら持ってます、すぐに取ってきます」そう言うと、女性店員はバタバタと走って店内に消えた。
「またやってしまった。やれやれ、この関係ないことに首を突っ込む癖をなんとかしないと、ろくな目にあわない……」八雲はこんなことを考えながら、女性に言った。
「さぁ、あなたも店内で少し休んでください」
八雲は、女性の肩を軽く抱くようにして並んで店内に入った。白髪染めは使っていないのだろう、後で丸くキレイにまとめた白髪が雨に濡れ、崩れかけているのを見て八雲は少し悲しくなった。
入り口近くの商品陳列棚からタオルを取り、袋を破って女性に渡しながら、「とにかく、濡れた所をこれで拭いてくださいね」と言った八雲の口調には、自分の母親に接するような優しさがあった。
「ちょっとお客さん、精算してない商品を勝手に使わないでくださいよ」
アルバイトだろう、二十歳くらいの青年が、あからさまに「迷惑です!」という口調で八雲に言う。
「そらみろ、やっぱりろくなことがないじゃないか」そんな悪態をつく、もう一人の自分の声が聞こえた。
「そう言うなよ、この女性だって必死だったんだ。できることがあれば、手を貸してあげたいじゃないか」
「そして、こんな若造に叱られるか」
「ま、これも私の人生だよ。たとえ自分が意図しなくても、人は誰かの人生に関わりながら生きるものさ」そう自分に答えてから、八雲は青年に言った。
「ちょっと急いでいたので、勝手に開けてしまった。すまなかった、これは私が買うので後で精算してください」
「わかりました」と答えて青年はレジに戻ったが、その態度は不機嫌そのものだった。
八雲からタオルを受け取り女性が濡れた髪を拭いていると、ハンガーを持った女性店員が二人のところに走ってきた。
「これでいいですか?」
「ありがとう」そう言って、八雲はハンガーを受け取る。女性店員から、微かに甘いフローラル系の香りがした。
「さてと、後はペンチがあれば……」独り言のように呟いてから、八雲は女性店員に聞いた。
「このハンガーはいただいていいですか?」
「どうぞ」
「ありがとう、それからペンチはありますか? これを切りたいのですが」
「どうかな? 見てきます」そう言うと、女性店員はまた店内を走って行った。
「乗りかかった船か…… しかたない、やってみるか」
「好みの女が差し出した助け舟に、鼻の下を伸ばして飛び乗ったんだろうが」もう一人の自分が、脳内で冷ややかな声を上げる。
「そう言うなって。人生の楽しみを享受するには、相応の試練がついてくるものさ」
「その試練ってのは、雨の中でハンガーを振り回すことか? 誰かの人生に首を突っ込んで、余計な傷を増やすだけじゃないのか」
「それも一興さ。人生には三つの坂があるって言うだろう? 上り坂に下り坂、そして『まさか』っていう坂だ。今がその三つ目なら、登り甲斐もあるってもんだ」
一見、華奢に見える小柄な女性店員のうしろ姿を目で追いながら、八雲は自分自身とそんな軽口を叩き合っていた。
「どうです、少し落ち着きましたか?」八雲が女性に向き直って聞くと、
「はい、お陰様で。取り乱して恥ずかしいです」と、髪を拭いていた手を止めて女性は答えた。その声には、落ち着き始めた様子が見えた。
「あの…… 車のカギは?」申し訳ないとでも言いたげに、女性は八雲に聞いてきた。
「やってみないとわかりませんが、たぶん大丈夫だと思います」
「すみません、ご迷惑をおかけします」
二人がそんな話をしていると、工具箱を持って女性店員が戻ってきた。
「この中に入っているでしょうか? 工具はこれだけなんですが」
八雲が工具箱の中を物色し、ペンチを見つけると「あった」と手にした。
「よかったら、これも使ってください」女性店員が新しい軍手を八雲に渡した。
「ありがとう。でもこれ、売り物じゃ?」
「大丈夫です」
ひと目で販売品とわかる軍手を渡されて一瞬躊躇した八雲だったが、迷いのない女性店員の目を見て納得したように小さく微笑み、耳打ちするように女性店員に言った。
「この人から詳しい事情を聞いて欲しい。たぶん、ややこしいことに巻き込まれていると思う」
「はい、私もそう感じました。奥の部屋で聞いてみます」女性店員も声を殺して八雲に答えた。
「お願いします」そう女性店員に言うと、八雲は店の外に出る。店舗の軒先でハンズフリーイヤホンを耳にセットしてから、ハンガーとペンチを持って軽自動車の所に向かった。
ーー続くーー

