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【道行き3-5】

【第三章 『写真』-5】

 夕暮れが通り過ぎ、闇が満ちた駐車場の中で、二人の乗った車を外灯が照らしている。飲み干したコーヒーカップを持って八雲やぐもが外に出る。まだ飲みかけのコーヒーカップを手に、茉由まゆも後を追うように車のドアを開けた。じっと車を見つめる八雲の傍らに、寄り添うように茉由は近づく。

「わかるだろう、この車はスレていない。まるで新車のようだ」
「わかるわ。ヤンチャだけど、とってもいい子よ」
「いい子か、そうだね」
 二人の見つめる先には、照れくさそうに一台の車が佇んでいた。
「さてと、もう帰ろう」
 コーヒーカップをごみ箱に捨て、八雲は車のエンジンをかける。

 乾いたアイドリングの音が心地よく響く。動き出した車の振動が体に伝わり、茉由は体の芯が熱くなる感覚に襲われた。忘れていたその感覚に頬が火照る。
「こんなに男を意識するのって、久しぶりだわ」そう思った茉由だったが、すぐその感情を打ち消した。
「久しぶりじゃない! この感じ、きっと初めて。早く何か話さなくちゃ! そうじゃないと、この人に気づかれてしまう」自分の感情を隠そうと意識は話題を探しているが、脳裏に浮かぶのはファインダーから目を離した時の八雲の笑顔と、裸の上半身だけだった。

「そうだ、明日は何時ごろに行くの?」
「う~ん…… 起きたら、かなぁ~」
「プ! いい加減ね。カメラマンの人って、みんなそうなの?」茉由は吹き出して、笑いながら聞いた。
「みんなは予定組むと思うよ、私はいい加減だけどね」前を向いたまま、八雲が答える。

 八雲の左手は、シフトレバーの上にあることが多い。ハンドル操作は右手一本で行なわれ、左手がシフトレバーから離れることはほとんどなかった。その八雲の左手の上に置いた手のひらが汗ばんでくる。茉由は感情の変化を八雲に知られることが恥ずかしくなり、それを誤魔化すように、後部座席からお菓子の残りが入ったコンビニの袋を引き寄せた。

「お腹空いちゃった。何か食べる? チョコとか」
「あはは、それじゃチョコお願い」
「ハーイ」そう言うと茉由は、板チョコを欠いて八雲の口に入れた。
「何か食べて帰ろうか?」
「うん、でも今日はいい。帰りましょう」
「また食事会はお預け、かなぁ~」
「そうだったわね、また今度ね」そういいながら、茉由はポテトチップスを食べている。

「左利きなんだ!」
「そうなの、左利き」驚いたように聞く八雲に、照れくさそうに茉由は答えた。
「だからだったのか! キミの動きに、見馴れない新鮮な感覚があったんだ。だから思わずシャッターを切ってしまった」
「よかった、左利きで。って、ちょっと待って! じゃ私が右利きだったら、写してくれなかったってこと! ひどい!」
「あちゃ! またやっちゃたか」
 二人の笑い声で、車の中の重く淀んだ空気が入れ替わり、和やかなものになった。

 やがて、車は八雲のアパートに着いた。
「今日はありがとう、楽しい撮影になったよ」
「私こそ、とっても楽しかったです」車を降りた茉由は、ペコリと頭を下げた。
「明日は何時ごろ……」明日も一緒に行けるものと思い、出発の時間を聞こうとした茉由を制して八雲が言う。
「キミはあまり私に関わらない方がいい。明日は私一人で行く、撮影が済んだらそのまま旅に出る」

「関わらない方がいいって、そんな…… 邪魔だってことなの?」
「邪魔とか、そういう意味じゃなくて」
「じゃ、どういう意味ですか?」
「ちょっと待って、大きな声を出さないで」
 まずい! というように、八雲は茉由を制した。
「え!」思わず茉由は、両手で口を塞いだ。ここが八雲のアパートの駐車場だったことを、茉由はすっかり忘れていたのだ。

「とにかく、撮影は私の仕事なんだよ。私は仕事をするために、明日また奥新川に行くの。わかるよね」
「だから撮影の邪魔はしません。さっき『楽しかった』って昌夫まさおさんも言ったじゃない」
 その時一階の玄関が開いた。ちょっと危なそうな男性が顔だけ扉から出して二人に言う。
「うるさいぞ! 痴話喧嘩ならよそでやれ!」
「すみませんでした」八雲はその男性にすぐ謝った。
「ということ。わかった?」
「ごめんなさい」小さな声で八雲が言うと、茉由も小さな声になり謝った。
「私…… 本当にごめんなさい。もう帰ります」
「夜だから気をつけて」

 茉由は原チャを押して駐車場を出て行った。茉由の姿が見えなくなるまで見送り、八雲は機材を持って階段を上った。遠くで原チャのエンジン音が聞こえた気がして玄関で振り返ったが、「気のせいか……」というように頭を振り、部屋に入った。

 この二人のやりとりを、向かいのアパートの陰でじっと息を殺し見つめていた人影がいたことなど、八雲は全く気づいていなかった。もちろん、それは茉由も同じだ。

 翌朝といっても、まだ空を星たちが占拠している時刻の国道を、八雲は一人西に向かって車を走らせた。目的地は昨日と同じ奥新川である。
 今回の仕事は、昔、世話になった東京の編集者から、「奥新川駅周辺の全容が欲しい」という依頼があったためだ。

 朝日が当たる駅舎やその周辺施設などを撮影した八雲は、駅を離れ、手つかずの清流「北沢川きたざわがわ」と「南沢川みなみさわがわ」、その川に架かる橋や、今は使われていない吊り橋なども撮影した。この北沢川と南沢川はここで合流して「新川」となるようだ。この新川は作並さくなみのニッカウヰスキー仙台工場付近で広瀬川に合流する。

 撮影が終わり午前中に奥新川を後にした八雲は、作並温泉に立ち寄った。日帰り温泉に浸かり昼飯を食べ、一時間ほど昼寝をしてから西へと車を走らせる。
 今回の八雲の旅の狙いはただひとつ、「水平線に沈む夕陽を撮る!」宿泊地も決めない「放浪の旅」だが、宿は「眠れればどこでもいい」と考えていたし、今回は車があるので、宿がなければ車中泊で乗りきるつもりだった。

 いろいろと寄り道をして、八雲が庄内地方しょうないちほうに到着したのは夕方に近い時間だったが、運良く「湯野浜温泉ゆのはまおんせん」に泊まることができた。
 山形県は温泉の宝庫だ。こんな海岸線に近いところにまで温泉宿がある。「日本海に夕陽が沈んでいく絶景が、露天風呂から見える」という宿に泊まることになった八雲だったが、気分は優れない。それもそのはず、空一面を厚い雨雲が覆い尽くし、雨こそ降ってはいないが、太陽はその雲の上にある。

「今日は無理か……」そんな独り言を呟きながら、八雲はパソコンの電源を入れた。メモリーカードから奥新川の写真を取り込み、専用ファイルにまとめる。「好きな物を使って下さい」という短いメッセージを付け加えて依頼主に送信し、最後の仕事は修了した。
 そのファイルに入れなかった写真がパソコン上に残された。それは「茉由」を撮したものだった。画面で一枚ずつめくっていく。「半狂乱になって怒った顔も写したかったな……」そう考え、一人で笑ってしまった。その写真をファイルにまとめ「下月さん」という名前を付けて保存した。

 朝が早かった八雲は、夕飯を済ませると温泉に入り、早々と布団にもぐり込んだ。
「添い寝してくれる女が欲しいだろう、連れてくればよかったんだ」
「冗談言うな、添い寝で我慢できるわけないだろう」
「別にいいじゃないか、それでも。人生は、予期せぬことの繰り返しじゃないのか?」
「ふざけるな! オレは寝るんだ、邪魔するな!」
 もう一人の自分の軽口に腹を立てた八雲は、幾度も寝返りを繰り返す。だが、なかなか睡魔はやってこない。瞼の裏に見えるのは、茉由の笑顔ばかりだった。

  第三章『写真』 ー完ー



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