気品ある挽歌 萩芒図屏風:長谷川等伯
長谷川等伯譚 全4幕
■登場人物
長谷川等伯 狩野永徳、海北友松らと並び桃山時代を代表する画人
春屋(しゅんおく)宗園(そうえん)
臨済宗大徳寺の名僧、千利休などの茶人や貴人と交わった。
千 利休 わび茶の完成者
クニオ 付け焼刃の美術愛好家
ヨシコ 嵌ればあたる美術愛好家
一幕 天正17年(1589)・師走 京:大徳寺
「おおー 見事だ!!」どよめきが楼閣を揺るがす。落慶供養に参加した僧や客たちの嘆息の声だ。
師走の5日、春屋宗園を導師として、千利休をはじめ多数の檀越が参加して、応仁の乱で焼失した大徳寺三門の盛大な落慶供養が営まれた。
等伯はこの三門の再建に際し、三門楼閣上の天井障壁画を描く栄誉を得たのである。
天井には龍図、天人像、迦陵頻伽(かりょうびんが)像の三図が描かれ、特に龍図は野太く力強い筆致で描かれたいそうな迫力だ。又、濃厚な彩色は龍の動勢をより引き立て、天人像と迦陵頻伽像を優美に飾り立てている。

落慶供養が滞りなく行われた。その後も楼閣に残り天井画を見上げている等伯、傍らには春屋宗園と千利休が。
「長谷川殿、たいそうな迫力ですな。 龍図に長谷川殿の雄大な気迫を見せていただきました。」
いつになく微笑を浮かべた利休は本心から喜んでいる様子だ。
「恐れ入ります」
「まっこと雄大だ、そなたの腕は睨んだとうり京でも抜きんでて達者であるな、剛毅な絵を描いてくれた」
「恐れ多い褒めの言葉、この上もない面目でございます」
「和尚様にはこのような大舞台を与えていただき、力の限り筆を振るわせていただきました」二人の言葉に深く頭を下げる等伯。
この三門の天井画を描く機会を与えてくれた恩人に春屋宗園や千利休の他に前田玄以がいるが、僅か二年後には利休が前田や石田三成の讒言で死ならしめる事態を招くことになろうとは、この時点では想像もできないことであった。
「それにしても良き絵を描かれましたな、闊達な龍だなと感じいっております。さらに、精進されますように」
「ありごとうございます。利休殿の言葉を肝に銘じさらに精進する所存でございます」
この天井画のような大画面を描くは等伯にとって初めての経験だった、しかし前例に囚われずに自在に心を遊ばせることだけを念じて描いただけに、利休の言葉は素直に嬉しく胸にしみた。
二人を見送り、三門の楼閣の天井画を見上げた等伯の胸中にいろいろの思いが去来していた。
等伯は「絵を極めたい!」その思いの一心で、天正9年(1579)居を故郷の能登から京に移した。以来、能登時代の画境を超えたい、新しい境地を開きたいと狩野の門をたたき、狩野松栄(永徳の父)に学んだ頃を懐かしく振り返っていた。
そんな努力の甲斐もあって絵屋として実力を整え、多数の弟子を抱えるまでに至ったが、京の画壇にあってはあくまで絵屋の存在でしかなかった。
しかし、この大徳寺三門の建立は、長谷川等伯が京の人々の人口に膾炙するきっかけとなった出来事であり、長谷川信春を改め等伯と号し絵師の一人として名を広めた特別な年となったのである。
二幕 文禄3年(1594) 京:三条街了頓図子 等伯屋敷・画室
大徳寺三門の天井画を描いて以来、壁画や屏風絵の依頼が増え、等伯は忙しい日々を過ごしていた。
中でも、秀吉の遺児、鶴松の菩提寺として建立された祥雲寺〈現智積院〉に描いた金碧障壁画は大層評判で絵師としての名声を確かなものとした。
そんな喜びもつかの間の初夏、等伯に不運が襲う、後継ぎと期待を寄せていた息子の久蔵が急逝したのである。
画業では、あれほど強烈にライバル視し、御所対屋の狩野永徳の所業に憤怒もしたが、その狩野永徳が2年前に急死して以来、障壁画や屏風に代表されるやまと絵に対して興味を失いつつあった等伯にとって、このほどの久蔵の急逝は水墨画に目を向ける契機ともなったと今に伝わる。
金地着彩障壁画
等伯の心もまだまだ癒えない折節、相国寺から金地着彩障壁画の依頼が舞いこんだ。
以来、等伯は画室に籠り一人瞑想しながら画題の構想を練っていた。その間、いろいろな思いが浮かんでは消え浮かんでは消えていった。
瞑想する内にいつしか「やはり浄土の世界を描こう」という想いに至った。
「金地障壁画との御所望ではあるが(狩野派のような)山水図や花鳥図ではなく仏画を描こう思う」
弟子たちを前に等伯は穏やかな笑みを浮かべながら、画題の構想を口にする。
「仏画であれば久蔵様の菩提を弔うことにもなりましょうぞ」弟子の一人が声を上げた。
「仏画と云っても静かに命が息づく絵柄を描こうと思う」
久蔵を無くしてから悄然としていた等伯であったが、構想を語る口調は悲しみを振り切ったかのように力がこもっていた。
―萩と芒(すすき)だ !
等伯は故郷の能登を思い出していた。
「久蔵を弔う事にもなる、故郷の萩と芒を描こう」
三幕 2025年・4月 東京藝術大学美術館・相国寺展会場
ひねもす上野公園を足早に横切るヨシコとクニオ。
「そんなに急がなくてもいいのに!」……新緑がささく。
─挽歌
ヨシコがこっちこっちと手招きをしている。そこは他の作品に比べて人影は少ない。
キャプションには「萩芒(はぎすすき)図屏風」・長谷川等伯とある。
「えー 等伯」クニオは思わず声を上げてしまった。
キャプションがなければ等伯とは気づかなかったかもしれない。
「萩芒図屏風」は右隻に萩、左隻に芒が描かれた一双の屏風図だ。


「前面に金伯を押した画面に緑青のみで直接萩の葉と白い花、芒を描いている。鬱蒼と伸びる芒の合間からの野菊が顔をのぞかせている。一双画面を通じて右から」左エと吹く風に草花がなびいており、大画面構成の工夫が見られ、草花の細部表現も緻密である。」
クニオは矯めつ眇めつ眺めながら「挽歌の感情が滲み出ている」そう感じた。
「挽歌ね……葬送の歌ね……そう云われてみれば、風にたなびく萩と芒の姿には寂寞とした感を宿しているわね」
華やかな金地の背景が逆に寂寥感というか哀感のような感情を際立たせる。
─音に耳を澄ませる
クニオが屏風絵に耳を澄ませている。
「どうしたの?」
「萩の葉と芒を揺する風の音が聴こえないかと思って」
「聴こえるはずがないじゃん」
聴こえるはずのない音に耳を澄ますなんて クニオの行動を不信がるヨシコ。
「日本人の心とは何かと問われた一休宗純が詠んだ歌に、
“心とは いかなるものかと 尋ねれば 墨絵に書きし 松風の音”という歌があるんだけどね、この屏風絵を眺めていたら、萩と芒がささやきながら歌っているように見えたんだ」
そういわれて屏風絵を食い入る様に見つめるヨシコ、残念ながら歌を聴くこと叶わなかったようだが、何か見つけたようだ。
「何より線が美しいわね特に芒は、寂寞とした風情の中で等伯の線には気品があふれているわね。 そうね……画題は気品ある挽歌ね」
細見ながら風になびきたわむ芒には、たおやかさと強靭さを秘めているように見える、それが気品を感じさせるのかもしれない。
「ムムー 気品ある挽歌か」
ヨシコの慧眼に恐れ入るクニオ、ヨシコはと見ると鼻が一寸ほど高くなっている。
─等伯の心の表れか
久蔵を失った落胆を、それまで幾多の逆境を乗り越えてきたように。
「この絵は心を静めるように筆を遊ばせたに違いない」
ヨシコとクニオは静かに合掌した。
四幕 文禄3年(1594) 京:三条街了頓図子 等伯屋敷・画室
春の京に宵闇が迫るころ。鴨川の川べりは春宵一刻値千金を楽しむ町衆でにぎわい、喧騒が等伯屋敷にまで届く。
等伯は一人画室に端座して心の内に耳を傾けている。
「萩芒図屏風」は久蔵の菩提を弔うことと隠れた主題とした、絵柄には能登の心象風景を託し、装飾法は信春時代の仏画の経験を生かすができた。
「萩も芒も繊細な情緒を醸し出すことができた、それが、単に仏画に陥ることなく画面に気品を与えられた」満足げに出来栄えを振り返る等伯。
陽も西に落ち鴨川の喧騒も消え、静謐な闇が等伯屋敷に訪れる。行燈を灯すと画室が赤く染まった。
「しかし、やまと絵も金碧画もこれまでだ」
狩野派とは別世界の絵を描きたい、狩野のように伝統に身を置くのではなく、命が静かに息づく絵を描きたい。……想いが募る。
行燈の明かりが等伯の胸中を画室の壁に映しだした。
観る人がそれぞれの心を遊ばせるような意味のある場所(余白)を残した絵を描きたい。
熱い想いが胸中にあふれた、等伯齢53歳にして新しい画境に挑む。
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