『大仏開眼』【2010年ドラマ】【実在の人物:吉備真備】聖地奈良5
実にわかりやすい
BGMとしてお楽しみ下さい
【感想】
2024年10月11日投稿
奈良聖地第5弾、奈良と言えばこのドラマは素通り出来ないでしょう。当時観ました。すごく感動したことを覚えています。
この時、学生時代日本史を疎かにしたことを悔やみましたが、仕事していると忘れてしまい頭の片隅に追いやられます。
無職老人となった今、日本史、世界史が無性に興味が沸騰しています。特に奈良県、知れば知るほど今住んでいる場所は、1300年前は東京都のような権力の中心だったのだなと興奮します。
そして、天皇制の継承、文書の保存、それが現在の日本の歴史のエビデンスになっているとは、よく災害や戦争から守り抜いた人々がいると思うと、ワタシもそうゆう仕事にも携わりたかったと痛切に思います。
遺跡発掘作業の仕事はあるようですが、体力いります。
このドラマで奈良の大仏を建造した方々、修復した方々を尊敬します。大仏がお釈迦様=ブッダと言うこともしらず、生きてきたこと猛省中です。
奈良に来られる皆様、奈良公園の鹿も良いのですが、ぜひ大仏や仏像の歴史などを興味を持って調べてから来てください。
地下の近鉄奈良駅を外に出るとすぐお坊さんが噴水の上に立っています。そのお方は行基菩薩様です。奈良の大仏建造に深く煤割のあるお方です。この方を知ればきっと涙が出るほど感動すると思います。
では、また。


【作品情報】
『大仏開眼』NHK大阪放送局制作の「古代史ドラマスペシャル」第3弾として、NHK総合で2010年4月3日と4月10日に放送。
奈良時代の大仏建立を巡る人間模様を、遣唐使・吉備真備を中心に阿倍内親王と藤原仲麻呂の3人を軸に描く。池端俊策氏作、吉岡秀隆さん主演。平成22年度文化庁芸術祭参加作品。
制 作
平城京遷都1300年にあたる2010年、『聖徳太子』『大化改新』に続く古代史ドラマ第3弾としてNHK大阪放送局が制作。大仏建立が国家の大事業となっていく8世紀、どのようにして「日本」という国家の形が出来上がっていったのか、吉備真備を中心に貴族間の政争、税と飢餓に苦しむ民の姿を交えながら描く。
吉岡秀隆さん主演・吉備真備役を務め、ヒロイン・阿倍内親王役石原さとみさん、吉備真備と敵対する藤原仲麻呂役を本作が初の時代劇出演となる高橋克典さんが演じた。
平城宮跡東院庭園
撮影は2009年10月から2010年1月にかけて、京都市の東映京都撮影所にほぼ原寸の大仏半身のセットを設けたほか、文化庁より特別に使用認可を得て平城遷都1300年記念事業にあわせ約9年をかけて復原された第1次大極殿を用いての撮影や、東院庭園での撮影など、平城宮跡でのロケが行われた。赤や紫といった天平衣装や髪型、メイクも当時のまま再現されている。
【あらすじ】
前 編
天平6年、下級貴族の出である遣唐使・吉備真備は僧・玄昉とともに17年ぶりに日本に帰国。唐で得たたぐいまれな学才を認められて阿倍内親王の教育係に抜擢された真備と、唐で見た大仏を日本にも造ることを夢見て権力に食い込む玄昉は、藤原氏と古い貴族たちとの権力闘争の渦中に巻き込まれることとなる。
天平9年、日本中を襲った天然痘で、それまで政治に大きな影響を及ぼしていた藤原の四兄弟が病死し、古い貴族である橘諸兄が権力を握る。疫病、飢饉、戦乱が相次ぐなか、真備は社会事業に取り組む僧・行基と出会い、聖武天皇は河内の智識寺で見た廬舎那仏と寺を支える人々の姿に魅了される。
天平12年に藤原広嗣の乱が勃発すると、藤原仲麻呂は光明皇后を担いで乱に呼応しようとする。右衛士督(うえじのかみ)となっていた真備は、聖武天皇に「藤原氏の作った都」である平城京から出ることを進言し、仲麻呂には藤原不比等が目指した律令国家即ち「戦ではなく法で治める国」の宰相となるべきだと説得する。
後 編
平城京を出て橘諸兄の影響が強い恭仁京へ入った聖武天皇は大仏への思いを募らせる。真備は相次ぐ天変地異や飢饉により国が疲弊し、恭仁京の建設もままならない中での大仏造立に反対するが、聖武天皇に行基を引き合わせ、皆の心が大仏を欲すれば大仏造立に協力するという行基の言葉を引き出させる。天平15年に大仏造立の詔が発せされ、恭仁京恭仁京に大仏が造立されることとなるが、平城京への還都を望む仲麻呂と玄昉は、藤原氏の血をひかない安積親王を毒殺する。
天平17年、都は平城京に戻り、権力を握った仲麻呂によって、玄昉は九州へ追放され、殺害される。
真備は行基から玄昉が大仏に託した願いを聞かされ、玄昉と行基の思いを引き継いで大仏を見届けることを決心するが、絶大な権力を握った仲麻呂によって、筑後守、遣唐副使と京から追いやられてしまう。平城京では、阿倍内親王が天皇に即位し、9年の歳月をかけて造られた大仏の開眼法要が行われたが、そこには真備も行基も玄昉もいなかった。
天平勝宝6年、唐から奇跡の生還を果たした真備が見たのは、権力者となった仲麻呂の支配の下で政治が腐敗し、民が苦しむ姿だった。仲麻呂は再び真備を九州へと追いやるが、後ろ盾だった光明皇太后が崩御するとその権勢にも翳りが生じる。
仲麻呂によって太上天皇となっていた孝謙上皇は、真備を造東大寺長官として京へ呼び戻し、仲麻呂追討の火の手が上がる。真備は盧舎那仏像の前で国を疲弊させる戦にしないことを誓うのだった。
【主要人物】
吉備真備(きびのまきび)
演 - 吉岡秀隆
下級貴族の出で遣唐留学生として多くの知識を学んだ。兵法にも長けており、「戦わずして勝つ」ことを信条とする。
阿倍内親王(あべのないしんのう) → 孝謙天皇 演 - 石原さとみ
藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)
演 - 高橋克典
玄昉(げんぼう)演 - 市川亀治郎
真備とともに帰国した遣唐留学僧。
藤原宮子の病を治したことで権力を得る。
藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)
演 - 苅谷俊介
吉備由利(きびのゆり)演 - 内山理名
葛城王 → 橘諸兄(たちばなのもろえ)演 - 草刈正雄
藤原宮子(ふじわらのみやこ)
演 - 江波杏子
行基(ぎょうき)演 - 笈田ヨシ
光明皇后(こうみょうこうごう)
演 - 浅野温子
聖武天皇(しょうむてんのう)
演 - 國村隼
実在の人物:吉備 真備
奈良時代の公卿・学者。氏姓は下道(しもつみち)朝臣のち吉備朝臣。右衛士少尉・下道圀勝の子。官位は正二位・右大臣。勲位は勲二等。
出 自
下道氏(下道朝臣)は下道国造氏で、孝霊天皇の皇子である稚武彦命の子孫とされる皇別氏族。下道国とは備中国下道郡付近の、下道・川上・浅口などの諸郡と想定される。姓は臣であったが、天武天皇13年(684年)八色の姓の制定を通じて朝臣に改姓した。
経 歴
遣唐留学生として入唐
持統天皇9年(695年)備中国下道郡也多郷(八田村)土師谷天原(現在の岡山県倉敷市真備町箭田)に生まれる。
元正朝の霊亀2年(716年)第9次遣唐使の留学生となり、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂・玄昉らと共に入唐する。唐にて学ぶこと18年に及び、この間に経書と史書のほか、天文学・音楽・兵学などの諸学問を幅広く学んだ。ただし、真備の入唐当時の年齢と唐の学令(原則は14歳から19歳までとされていた)との兼ね合いから、太学や四門学などの正規の学校への入学が許されなかった可能性が高く、若い仲麻呂や僧侶である玄昉と異なって苦学を余儀なくされたと思われる。唐では知識人として名を馳せ、遣唐留学生の中で唐で名を上げたのは真備と阿倍仲麻呂のただ二人のみと言われるほどだった。
聖武朝での異例の昇進
聖武朝の天平6年(734年)10月に第10次遣唐使の帰国に伴って玄昉と同船で帰途に就き、途中で種子島に漂着するが、翌天平7年(735年)4月に多くの典籍を携えて帰朝した。帰朝時には、経書(『唐礼』130巻)、天文暦書(『大衍暦経』1巻・『大衍暦立成』12巻)、日時計(測影鉄尺)、楽器(銅律管・鉄如方響・写律管声12条)、音楽書(『楽書要録』10巻)、弓(絃纏漆角弓・馬上飲水漆角弓・露面漆四節角弓各1張)、矢(射甲箭20隻・平射箭10隻)などを献上し、ほかにも史書『東観漢記』ももたらしたという。帰朝時に従八位下という卑位にもかかわらず名と招来した物品の詳細が正史に記されていることから、真備がもたらした物がいかに重要であったかが推察される。真備は渡唐の功労により従八位下から一挙に十階昇進して正六位下に叙せられるともに、大学助に任官した。この抜擢人事から、真備の唐留学の実績を高く評価して重用しようとする朝廷の強く積極的な態度が窺われる。
天平8年(736年)外従五位下に叙せられると、天平9年(737年)正月に内位の従五位下、同年12月には玄昉の看病により回復した皇太夫人・藤原宮子が聖武天皇と36年ぶりに対面したことを祝して中宮職の官人に叙位が行われ、中宮亮の真備は従五位上に叙せられるなど、急速に昇進する。さらに、天平10年(738年)橘諸兄が右大臣に任ぜられて政権を握ると、真備と同時に帰国した玄昉と共に重用され、真備は右衛士督を兼ねた。天平12年(740年)には真備と玄昉を除かんとして藤原広嗣が大宰府で反乱を起こして敗死している(藤原広嗣の乱)。
天平13年(741年)東宮学士に任ぜられると、天平15年(743年)には従四位下・春宮大夫兼春宮学士に叙任されて、皇太子・阿倍内親王の指導・教育にあたり、『漢書』『礼記』なども教授したという。また、天平18年(746年)下道朝臣姓から吉備朝臣姓に改姓している。これにより、真備の一族が下道氏が勢力基盤を置いていた備中国下道郡だけでなく、吉備地方(備前国・備中国・備後国)全域を代表する大豪族と認められたとする見方がある。しかし、藤原仲麻呂が台頭すると、天平19年(747年)春宮大夫(後任は仲麻呂派の石川年足)・東宮学士を止められて右京大夫に転じた。なお、玄昉は天平17年(745年)筑紫観世音寺の別当に左遷され、翌年に同地で没している。天平20年(748年)真備は釈奠の儀式服制の改定を行った[12]。
藤原仲麻呂政権下での左遷と再度の入唐
天平勝宝元年(749年)阿倍内親王の即位(孝謙天皇)に伴って従四位上に叙せられる。しかし、孝謙朝では大納言兼紫微令に就任した藤原仲麻呂が権勢を強め、左大臣・橘諸兄を圧倒する。この状況の中で、真備も天平勝宝2年(750年)に格下の地方官である筑前守次いで肥前守に左遷された。筑前国はかつて藤原広嗣が反乱の際に最初に軍営を造った場所で、肥前国は広嗣が捕らえられ誅殺された国であったことから、真備のこれら国守への任官は広嗣の乱の残党による再度の反乱を防止するために行われたとする見方がある。
一方、同年には第12次遣唐使が派遣されることになり、大使に藤原清河、副使に大伴古麻呂が任命される。ところが、翌天平勝宝3年(751年)になると真備が追加の副使に任ぜられるが、副使が2名となるだけでなく、大使・藤原清河(従四位下)より副使・吉備真備(従四位上)の方が位階が上という異例の人事であった。結局、天平勝宝4年(752年)出航直前に藤原清河を正四位下(二階)、大伴古麻呂を従四位上(四階)と大幅に昇進させて、体裁が整えられている[14]。同年真備らは再び危険な航海を経て入唐する。唐では高官に昇っていた阿倍仲麻呂の尽力もあり、仲麻呂を案内者として宮殿の府庫の一切の見学が許されたほか、帰国に当たっては鴻臚卿・蒋挑捥が揚州まで同行するなど、破格の厚遇を得られたという[15]。翌天平勝宝5年(753年)6月頃に遣唐使節一行は帰国の途に就き、11月に蘇州から日本へ向けて出航、真備は第三船に乗船すると、鑑真と同じく屋久島へ漂着し、さらに紀伊国牟漏埼(現在の和歌山県東牟婁郡太地町)を経由して、何とか無事に帰朝した。なお、この帰途では大使・藤原清河や阿倍仲麻呂らの船は帰国に失敗し、唐に戻されている。
帰朝しても真備は中央政界での活躍は許されず、天平勝宝6年(754年)正四位下・大宰大弐に叙任されてまたもや九州地方に下向する。この頃、日本と対等の立場を求める新羅との緊張関係が増していたことから、近い将来の新羅との交戦の可能性も予見し、その防備のために真備を大宰府に赴任させたとの見方がある。10年近くに亘る大宰府赴任中、大宰帥は石川年足・藤原真楯・阿倍沙弥麻呂・船王・藤原真先の5人だったが、船王以外はいずれも参議兼官であったことから、真備が大宰府の実質的な責任者であったとみられる。
まず、天平勝宝8歳(756年)新羅に対する防衛のため筑前国に怡土城を築き、天平宝字2年(758年)唐の安史の乱に備えるよう勅を受けている[20]。天平宝字3年(759年)以下の通り不安点四ヶ条を大宰府より言上する。この進言は、内容を鑑みて軍事に精通し怡土城を築いた真備によって原案が作成されたと考えられる。
警固式では、博多大津・壱岐・対馬など要害の地には100隻以上の船を不測の事態に備えることを定めているが、現在使用できる船がなく、万一の事態が発生しても間に合わない。
大宰府は三方を海に面しており諸蕃国と向き合っている。一方で東国からの防人の派遣を廃止して以降、国境の守護は日毎に荒廃している。万一の事変が発生しても、我が国の威力を示すことができない。
管内の防人は専ら築城を止め、武芸の修練に努め戦場での陣立てを習うことになっている。しかし、大宰大弐・吉備真備は築城のために防人に対して50日間武芸を教習し、10日間築城のための労役を課すことを論じており、大宰府の中で意見が割れている。
天平4年(732年)に勅があり、西海道諸国の兵士は調庸を全て免除し、同じく白丁は調を免除して庸のみ輸納させることとした。当時はこれにより民は休まり兵は強まった。現在は管内の百姓は窮乏の極みにある者が多く、再び租税や労役の減免がなければ自立することができない。
これに対して、淳仁天皇より以下の勅があった。
公用の食糧を支給し、雑徭によって造船を行う。東国からの防人派遣は衆議により許されない。管内の防人に10日の労役を課すことは、真備の建言を認める。
租税や労役の減免については、行政が理に適って行われれば人民は自然に富強になるはずで、官人はその職務をよく務め、朝廷の委任に沿うようにせよ。
天平宝字3年(759年)6月に新羅を討つために大宰府にて行軍式(軍事行動に関する規定)が作成される、8月に新羅征討を行う方針が決まり、同年9月には船500艘を造ることが決まるなど遠征の準備が進められるが、これに関して、以下の活動記録がある。なお、この遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わっている。
天平宝字4年(760年)平城京から派遣された授刀舎人・春日部三関と中衛舎人・土師関成らに対して、諸葛亮の「八陳」と孫子の「九地」、および軍営の作り方を教授した。
天平宝字5年(761年)新羅征討の軍備を整えるために節度使が設置されると、西海道節度使に任ぜられる(副使は多治比土作と佐伯美濃麻呂)。
大宰府赴任中の真備は対新羅の拠点となる築城を行い、四ヶ条の言上により新羅征討計画に対して重要な示唆を与え、行軍式を作成するなど、唐で学んだ兵学を実践して仲麻呂政権を通じて計画された新羅征討策の一翼を担った。
藤原仲麻呂の乱を通じた復権と右大臣就任
天平宝字8年(764年)正月に70歳となった真備は、致仕の上表文を大宰府に提出する。しかし、上表文が天皇に奏上される前に造東大寺長官に任ぜられ帰京する。また同年にはかつて真備が唐から持ち帰った大衍暦について、30年近くの長きに亘っての準備の末、儀鳳暦に替えて適用が開始されている。
同年9月に藤原仲麻呂の乱が発生すると、緊急で従三位・参議に叙任されて孝謙上皇側に参画する。真備は中衛大将として追討軍を指揮し、兵を分けて仲麻呂の退路を断つなど優れた軍略により乱鎮圧に功を挙げる[7]。天平神護元年(765年)には乱の功労により勲二等を授けられた。天平神護2年(766年)称徳天皇と法王・弓削道鏡の下で正月に中納言へ、同年3月に藤原真楯薨去に伴い大納言へ、さらに同年10月には従二位・右大臣へ昇進して、左大臣・藤原永手と並んで太政官を領導した。これは地方豪族出身者としては破格の出世であり、学者から立身して大臣にまで至ったのも、近世以前では吉備真備と菅原道真の二人のみである。またこの頃には、大和長岡とともに養老律令の修正・追加を目的とした刪定律令24条を編纂し、神護景雲3年(769年)制定させている。
神護景雲4年(770年)称徳天皇が崩じた際には、娘(または妹)の吉備由利を通じて天皇の意思を得る立場にあり、永手らと白壁王(後の光仁天皇)の立太子を実現した。『水鏡』など後世の史書や物語では、後継の天皇候補として文室浄三次いで文室大市を推したが敗れ、「長生の弊、却りて此の恥に合ふ」と嘆息したという。ただし、この皇嗣をめぐる話は『続日本紀』には認められず、この際の藤原百川の暗躍を含めて後世の誤伝あるいは作り話とする説が強い。一方で、宇佐八幡宮神託事件を巡る群臣への不信から文室浄三・文室大市擁立の遺詔が吉備由利を通じて真備に示されたものの、群臣がこれを拒んだとする説もある。
引 退
光仁天皇の即位後、真備は老齢を理由に辞職を願い出るが、光仁天皇は兼職の中衛大将のみの辞任を許し、右大臣の官職は慰留した。宝亀2年(771年)に再び辞職を願い出て許された。それ以後の生活については何も伝わっておらず、宝亀6年(775年)10月2日薨御。享年81。最終官位は前右大臣正二位。
奈良市内にある奈良教育大学の構内には真備の墓と伝えられる吉備塚(吉備塚古墳)がある。
人 物
公務の傍ら、孔子を始めとする儒教の聖人を祭る朝廷儀礼である釈奠の整備にも当たった。著書に『私教類聚』『道弱和上纂』『刪定律令』などがある。在唐中に書を張旭に学び、帰朝後に晋唐の書を弘めた。古筆の『虫喰切』『南部の焼切』が真備の筆とされる一方、それを否定する意見もある。
2019年12月、中華人民共和国広東省の深圳望野博物館が所有する墓誌の末尾に「日本国朝臣備書」と刻まれていることが判明した。墓誌は2013年に河南省洛陽で発見されたもの。文面によると、外国使節への応接、対応を司る官庁・鴻臚寺で接待を担当していた中級官僚の李訓の墓誌。開元22年(734年)6月20日に死去、25日に埋葬された。長さ35cm、幅36cm、厚さ8.9cmの石製。楷書で19行、328字が刻まれている。唐代の書家・褚遂良の影響が見て取れ、真備の真筆の可能性が高いと、氣賀澤保規は分析した。717年-734年の遣唐使としての留学中に書いたと見られている。
伝 説
吉備真備、『前賢故実(江戸時代後期から明治時代)』より
『江談抄』や『吉備大臣入唐絵巻』などによれば、殺害を企てた唐人によって、真備は鬼が棲むという楼に幽閉されたが、その鬼というのが真備と共に遣唐使として入唐した阿倍仲麻呂の霊(生霊)であったため、難なく救われた。また、難解な『野馬台詩』の解読や、囲碁の勝負などを課せられたが、これも阿倍仲麻呂の霊の援助により解決した。唐人は挙句の果てには食事を断って真備を殺そうとするが、真備が双六の道具によって日月を封じたため、驚いた唐人は真備を釈放した。
真備が長期間に渡って唐に留まることになったのは、玄宗がその才を惜しんで帰国させなかったためともいわれる。真備は袁晋卿(後の浄村宿禰)という音韻学に長けた少年を連れて帰朝したが、藤原長親によれば、この浄村宿禰は呉音だった漢字の読み方を漢音に改めようと努め、片仮名を作ったとされる。帰路では当時の日本で神獣とされていた九尾の狐も同船していたという伝説もある。
中世の兵法書などでは、張良が持っていたという『六韜三略』の兵法をもたらしたとして、真備を日本の兵法の祖としているものがある。囲碁についても日本に初めて持ち帰ったとされる伝承があるが、魏志倭人伝に囲碁と双六がもたらされたことが記載されており、事実ではない。
また、真備は陰陽道の聖典『金烏玉兎集』を唐から持ち帰り、常陸国筑波山麓で阿倍仲麻呂の子孫に伝えようとしたという。金烏は日(太陽)、玉兎は月のことで「陰陽」を表す。安倍晴明は仲麻呂の一族の子孫とされるが、『金烏玉兎集』は晴明が用いた陰陽道の秘伝書として、鎌倉時代末期か室町時代初期に作られた書とみられている。伝説によると、中国の伯道上人という仙人が、文殊菩薩に弟子入りして悟りを開いた。この時に文殊菩薩から授けられたという秘伝書『文殊結集仏暦経』を中国に持ち帰ったが、その書が『金烏玉兎集』であるという。その他、『今昔物語集』では玄昉を殺害した藤原広嗣の霊を真備が陰陽道の術で鎮めたとし、『刃辛抄』では陰陽書『刃辛内伝』をもたらしたとして、真備を日本の陰陽道の祖としている。
『宇治拾遺物語』では、他人の夢を盗んで自分のものとし、そのために右大臣まで登ったという説話もある。
東大寺盧舎那仏像
(とうだいじ るしゃな ぶつぞう)
奈良県奈良市の東大寺大仏殿(金堂)の本尊である仏像(大仏)。一般に東大寺大仏、奈良の大仏として知られる。
聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われた。後世に複数回焼損したため、現存する大部分が再建であり、当初に制作された部分で現在まで残るのはごく一部である。「銅造盧舎那仏坐像」として国宝に指定されている。
概 要
毎年8月に行われる「お身拭い」
東大寺大仏は、聖武天皇により天平15年(743年)に造像が発願された。実際の造像は天平17年(745年)から準備が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会が実施された。 のべ260万人が工事に関わったとされ、関西大学の宮本勝浩教授らが平安時代の『東大寺要録』を元に行った試算によると、創建当時の大仏と大仏殿の建造費は現在の価格にすると約4657億円と算出された。
大仏は当初、奈良ではなく、紫香楽宮の近くの甲賀寺(今の滋賀県甲賀市)に造られる計画であった。しかし、紫香楽宮の周辺で山火事が相次ぐなど不穏な出来事があったために造立計画は中止され、都が平城京へ戻るとともに、現在、東大寺大仏殿がある位置での造立が開始された。制作に携わった技術者のうち、大仏師として国中連公麻呂(国公麻呂とも)、鋳師として高市大国(たけちのおおくに)、高市真麻呂(たけちのままろ)らの名が伝わっている。天平勝宝4年の開眼供養会には、聖武太上天皇(天平勝宝元年に譲位していた)、光明皇太后、孝謙天皇を初めとする要人が列席し、参列者は1万数千人に及んだという。開眼導師はインド出身の僧・菩提僊那が担当した。
大仏と大仏殿はその後、治承4年(1180年)と永禄10年(1567年)の2回焼失して、その都度、時の権力者の支援を得て再興されている。
現存の大仏は像の高さ約14.7メートル、基壇の周囲70メートルで、頭部は江戸時代、体部は大部分が鎌倉時代の補修であるが、台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などに一部建立当時の天平時代の部分も残っている。台座の蓮弁(蓮の花弁)に線刻された、華厳経の世界観を表す画像も、天平時代の造形遺品として貴重である。大仏は昭和33年(1958年)2月8日、「銅造盧舎那仏坐像(金堂安置)1躯」として国宝に指定されている。
現存の大仏殿は正面の幅(東西)57.5メートル、奥行50.5メートル、棟までの高さ49.1メートルである。高さと奥行は創建当時とほぼ同じだが、幅は創建当時(約86メートル)の約3分の2になっている。大仏殿はしばしば「世界最大の木造建築」と紹介されるが、20世紀以降の近代建築物の中には、大仏殿を上回る規模のものがある。よって「世界最大の木造軸組建築」という表現の方が正確であろう。
なお江戸期においては方広寺大仏(京の大仏)の方が、規模(大仏の高さ、大仏殿の高さ・面積)で上回っていた。これは豊臣秀吉が発願したもので、秀吉の造立した初代大仏、豊臣秀頼の造立した2代目大仏、江戸時代再建の3代目大仏と、新旧3代の大仏が知られるが、それらは文献記録(愚子見記、都名所図会等)によれば、6丈3尺(約19m)とされ、東大寺大仏の高さ(14.7m)を上回り、大仏としては日本一の高さを誇っていた。『東海道中膝栗毛』では弥次喜多が大仏を見物して威容に驚き「手のひらに畳が八枚敷ける」「鼻の穴から、傘をさした人が出入りできる」とその巨大さが描写される場面があるが、そこで描かれているのは、東大寺大仏ではなく、方広寺大仏である (なお初版刊行の1802年には、後述のように大仏・大仏殿は既に焼失している )。江戸時代中期の国学者本居宣長は、双方の大仏を実見しており、東大寺大仏・大仏殿について「京のよりはやや(大仏)殿はせまく、(大)仏もすこしちいさく見え給う 」「堂(大仏殿)も京のよりはちいさければ、高くみえてかっこうよし[東大寺大仏殿は方広寺大仏殿よりも横幅(間口)が狭いので、高く見えて格好良いの意か?]」「所のさま(立地・周囲の景色)は、京の大仏よりもはるかに景地よき所也 」という感想を日記に残している(在京日記)。一方方広寺大仏については「此仏(大仏)のおほき(大き)なることは、今さらいふもさらなれど、いつ見奉りても、めおとろく(目驚く)ばかり也」と記している。
方広寺(3代目)大仏は寛政10年(1798年)まで存続していたが、落雷で焼失した。
略年表
天平12年(740年) - 聖武天皇は難波宮への行幸途次、河内国大県郡(大阪府柏原市)の知識寺で盧舎那仏像を拝し、自らも盧舎那仏像を造ろうと決心したという。
天平13年2月14日(741年3月5日) - 聖武天皇が国分寺・国分尼寺建立の詔を発する。(類聚三代格など)
天平15年10月15日(743年11月5日) - 聖武天皇が近江国紫香楽宮にて大仏造立の詔を発する。(続紀)
天平16年11月13日(744年12月21日) - 紫香楽宮近くの甲賀寺に大仏の骨柱を立てる。(続紀)
天平17年(745年) - 恭仁宮、難波宮を転々としていた都が5年ぶりに平城京に戻る。旧暦8月23日(745年9月23日)、平城東山の山金里(今の東大寺の地)で改めて大仏造立が開始される。(碑文)
天平18年10月6日(746年11月23日) - 聖武天皇は金鐘寺(東大寺の旧称)に行幸し、盧舎那仏の燃灯供養を行う(続紀)。これは、大仏鋳造のための原型が完成したことを意味すると解される。
天平19年9月29日(747年11月6日) - 大仏の鋳造開始。(碑文)
天平勝宝元年10月24日(749年12月8日) - 大仏の鋳造終了。(碑文)
天平勝宝4年4月9日(752年5月26日) - 大仏開眼供養会が盛大に開催される。(続紀)
なお、開眼供養会の時点で大仏本体の鋳造は基本的には完了していたが、細部の仕上げ、鍍金、光背の制作などは未完了だった
大仏造立の思想的・時代的背景
華厳経と盧舎那仏
大仏は姿の上では釈迦如来など他の如来像と区別がつかないが、『華厳経』に説かれる盧舎那仏という名の仏である。『華厳経』は西暦400年前後に中央アジアで成立し、中国大陸経由で日本へもたらされた仏教経典で、60巻本、80巻本、40巻本の3種類の漢訳本があるが、うち奈良時代に日本へもたらされたのは60巻本と80巻本である。前者は5世紀、東晋の仏陀跋陀羅訳で「旧訳」(くやく)、「六十華厳」といい、後者は7世紀末、唐の実叉難陀訳で「新訳」、「八十華厳」という。盧舎那仏はこの華厳経に説く「蓮華蔵世界」の中心的存在であり、世界の存在そのものを象徴する絶対的な仏である。六十華厳では「盧舎那仏」、八十華厳では「毘盧遮那仏」と表記されるが、これらの原語はサンスクリットの「Vairocanaヴァイローチャナ」であり、密教における大日如来(Mahāvairocanaマハー・ヴァイローチャナ)と語源を等しくする。
『続日本紀』によれば、聖武天皇は天平12年2月(740年)、河内国大県郡(大阪府柏原市)の知識寺で盧舎那仏像を拝し、これが大仏造立のきっかけとなったという。知識寺の跡は柏原市太平寺に残り、7世紀後半の瓦が出土している。なお、ここでいう「知識」とは、信仰を同じくする人々の集団である「同志」「同信」といった意味である。同じ天平12年の10月、聖武の四十賀に際し、新羅で華厳教学を学んだ審祥が金鐘寺にて華厳経を講義している。盧舎那大仏造立の背景にはこうした『華厳経』に基づく信仰があった。
大仏造立の詔
聖武天皇は天平15年10月15日(743年11月5日)、近江国紫香楽宮にて大仏造立の詔を発した。詔の全文は『続日本紀』にあり、以下のとおりである。
朕、薄徳を以て恭しく大位を承く。志(こころざし)兼済に存して勤めて人物を撫(ぶ)す。率土の浜、已(すで)に仁恕に霑(うるお)うと雖も、而も普天の下、未だ法恩に洽(あまね)からず。誠に三宝の威霊に頼り、乾坤相泰(あいやすら)かに万代の福業を修めて動植咸(ことごと)く栄えんことを欲す。粤(ここ)に天平十五年歳(ほし)は癸未に次(やど)る十月十五日を以て菩薩の大願を発(おこ)して、盧舎那仏金銅像一躯を造り奉る。国銅を尽して象を鎔(とか)し、大山を削りて以て堂を構え、広く法界に及ぼして朕が知識となし、遂には同じく利益を蒙らしめ共に菩提を致さしめん。それ天下の富を有(たも)つ者は朕なり。天下の勢を有つ者も朕なり。此の富勢を以て此の尊像を造る。事や成り易く、心や至り難し。但恐らくは、徒(いたづら)に人を労すること有て能く聖を感ずることなく、或は誹訪(ひぼう)を生じて罪辜(ざいこ)に堕せんことを。是の故に知識に預る者は、懇ろに至誠を発して、各(おのおの)介(おおいなる)福を招き、宜(よろし)く日毎に盧舎那仏を三拝すべし。自ら当(まさ)に念を存し各(おのおの)盧舎那仏を造るべし。如し更に人の一枝の草、一把の土を以て像を助け造らんことを情(こころ)に願う者有らば、恣(ほしいまま)にこれを聴(ゆる)せ。国郡等の司、此の事に因りて、百姓を侵擾(しんじょう)して強(あながち)に収斂せしむること莫(なかれ)。遐邇(かじ)に布告して、朕が意を知らしめよ。
(大意)私は天皇の位につき、人民を慈しんできたが、仏の恩徳はいまだ天下にあまねく行きわたってはいない。三宝(仏、法、僧)の力により、天下が安泰になり、動物、植物など命あるものすべてが栄えることを望む。ここに、天平15年10月15日、菩薩の(衆生救済の)誓願を立て、盧舎那仏の金銅像一体を造ろうと思う。国じゅうの銅を尽くして仏を造り、大山を削って仏堂を建て、広く天下に知らしめて私の知識(大仏造立に賛同し、協力する同志)とし、同じく仏の恩徳をこうむり、ともに悟りの境地に達したい。天下の富や権勢をもつ者は私である。その力をもってこの像を造ることはたやすいが、それでは私の願いを叶えることができない。私が恐れているのは、人々を無理やりに働かせて、彼らが聖なる心を理解できず、誹謗中傷を行い、罪におちることだ。だから、この事業に加わろうとする者は、誠心誠意、毎日盧舎那仏に三拝し、自らが盧舎那仏を造るのだという気持になってほしい。たとえ1本の草、ひとにぎりの土でも協力したいという者がいれば、無条件でそれを許せ。役人はこのことのために人民から無理やり取り立てたりしてはならない。私の意を広く知らしめよ。
聖武は大仏造立のためには「国銅を尽して象を鎔(とか)し、大山を削りて以て堂を構へ」、つまり、国じゅうの銅を溶かして大仏を造り、山を削って大仏殿を造ると言っている。実際に大仏の原型制作と鋳造のためには大量の土を必要とし、東大寺大仏殿は実際に山の尾根を削って造成されたものであることが、庭園研究家の森蘊による東大寺境内の地形調査で判明している。
時代背景
大仏造立の詔の2年前の天平13年(741年)、聖武天皇は詔して、国ごとに国分寺と国分尼寺を造ることを命じた。そして、東大寺は大和国の国分寺であると共に、日本の総国分寺と位置付けられた。この国分寺造立の思想的背景には護国経典である『金光明最勝王経』(10巻、唐僧の義浄訳)の信仰があった。同経によれば、この経を信じる国王の下には、仏教の護法善神である四天王が現れ、国を護るという。聖武は、日本の隅々にまで国分寺を建て、釈迦像を安置し、『金光明最勝王経』を安置することによって、国家の安定を図ろうとする意図があったものと思われる。
聖武天皇が位に付いていた8世紀前半、すなわち天平時代の日本は決して安定した状況にはなかった。天平9年(737年)には、当時の政治の中枢にいた藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂の四兄弟が、天然痘(疫病)の大流行により相次いで死去した。そのほかにも、天平時代は例年旱魃・飢饉が続き、天平6年(734年)には大地震で大きな被害があり、国分寺建立の詔の出る前年の天平12年(740年)には九州で藤原広嗣の乱が発生するなど、社会不安にさらされた時代であった。聖武による国分寺の建立、東大寺大仏の造立には、こうした社会不安を取り除き、国を安定させたいという願いが背景にあったものと推測されている。
大仏鋳造の経緯
鋳造手法
『東大寺要録』に引く「大仏殿碑文」によれば、天平17年8月23日、平城東山の山金里で大仏造立が開始されている。『続紀』によれば、天平18年10月6日、聖武天皇は金鐘寺に行幸し、盧舎那仏の燃灯供養を行っているが、これは、大仏鋳造のための原型が完成したことを意味すると解されている。「碑文」によれば、鋳造は天平19年9月29日に開始され、天平勝宝元年10月24日に終了した。「恋」は「三箇年八ヶ度」、つまり3年にわたり、8回に分けて鋳造が行われたと言っているが、実年数は2年間強である。「八ヶ度」は、巨像を下から上へ、8段に分けて順次鋳造したという意味に解釈されている。その造像手法は次のように推定されている。
まず、木材の支柱を縦横に組み、これに細い枝や麻縄などを巻きつけ、塑像の芯材の要領で大仏の原型の芯を造る。
大仏のおおよその形ができたら、これに土をかぶせる。かぶせる土はきめの荒いものから塗り始め、だんだん外側へ行くにしたがって粒子の細かい土を塗っていく。こうして金銅像と同じ大きさの土製の像ができる。これを原型または中型(なかご)という。
中型の土が十分乾燥してから、今度は中型を外側から覆うような形で「外型」をやはり粘土で造る。巨像のため、外型は下から上へ、8段に分けて造られた。中型と外型が接着しないように、剥離剤として薄い紙をはさむ、あるいは雲母をまくなど、何らかの方法が取られたはずである。
外型を適当な幅で割り、中型から外す。
外型の内面を火で焼き、型崩れしないようにする。
中型の表面を削る。この作業で削った厚みが、完成像の銅の厚みとなる。
一度外した外型を再び組み合わせる。外型と中型がずれないようにするため型持を入れる。正倉院文書によれば、型持は4寸四方、厚さ1寸の金属片を3,350枚造ったという。
炉を持ち込み、高温で銅を溶かし、外型と中型のすき間に溶けた銅を石の溝から流し込む。
鋳加(いくわえ)、鋳浚(いさらい)という、鋳造後の表面の仕上げ、螺髪の取り付け、像表面の鍍金、光背の制作など、他にも多くの工程があり、これだけの巨像を造立するには想像を絶する困難があったものと思われる。
作業中の事故や、鍍金の溶剤として用いられた水銀の中毒により多くの人命が失われたとも言われる。銅に含まれていた砒素と鍍金に使用された水銀による推定数百人の中毒患者のため、これを専門とする救護院が設けられていた。また、巨大な大仏製造のための銅による鋳造過程での環境破壊の問題についても指摘されている。
開眼供養
こうして、天平勝宝4年4月9日(752年5月26日)には大仏開眼供養会が挙行された。聖武太上天皇(すでに譲位していた)、光明皇太后、孝謙天皇を初めとする要人が列席し、参列者は1万数千人に及んだという。
開眼会当日の様子は次のようなものであった。大仏殿前の庭には五色の幡と宝樹が飾られ、中央には舞台が、東西には『華厳経』の講師と読師のための高座が設置された。大仏殿内は造花と繍幡(刺繍を施した幡)で荘厳されている。玉座には聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇が座す(『続日本紀』、『東大寺要録』)。孝謙天皇は中国風の冕冠を被り、和神事用の白の帛衣という、和中混在した礼服。聖武の礼服も白色と伝わり、和神事用礼服だと推定されていて、唐礼を受容して中国の皇帝的な在り方を目指す過渡的な姿だとされる。孝謙天皇の冕冠の残闕と冠架・箱は正倉院に伝わる[13]。南門からは上位の僧1,026人が入場。本日の開眼の導師を務めるのはインド僧の菩提僧正(菩提僊那)、『華厳経』を講ずる講師は大安寺の隆尊律師、『華厳経』を読み上げる読師は元興寺の延福法師である。大仏の瞳を描き入れる儀式は、聖武太上天皇が体調不良のため、菩提僧正が担当した。菩提僧正が開眼に使用した筆には長大な縷(る)が取り付けられており、列席の人々はこの縷に触れて大仏に結縁した。このあと、唄(ばい)、散華(さんげ)、梵音(ぼんのん)、錫杖(しゃくじょう)という四箇法要が行われ、続いて『華厳経』の講説がある。続いて衆僧・沙弥9,799人が南門から入場し、幄(仮の座席)に着座した。大安寺、薬師寺、元興寺、興福寺の四大寺の僧か数々の珍宝を大仏に献ずる。さらに日本、中国、朝鮮の楽人・舞人らによる楽舞が披露される(『続日本紀』、『東大寺要録』)。当日披露されたのは大歌女・大御舞(おおうため・おおみまい)、久米舞、楯伏舞(たてふしのまい)、女漢躍歌(おんなあやおどりうた)、跳子(とびこ)、唐古楽、唐散楽、林邑楽(りんゆうがく)、高麗楽、唐中楽、唐女舞、高麗女楽であり、これらが夕方まで行われた(『東大寺要録』)。このうちの林邑楽が、仮面劇の伎楽にあたるとみられる。開眼法要で使用された伎楽面は東大寺および正倉院に現存している。
『正倉院文書』のうちには、『蝋燭文書』と称する巻物があり、内容不明とされていたが、これが大仏開眼会に列席した万僧の交名(名簿)であることが判明し、「1万数千人」は誇張ではなかったことがわかった。開眼の際に使用した筆や墨、筆に結び付けられた紐である開眼縷(る)、当日大仏に奉納された伎楽に使用された面などは、正倉院宝物として現存している。「天平宝物筆」と呼ばれる仮斑竹(げはんちく)製の筆は長さ56.6センチ、「天平宝物墨」と呼ばれる墨は長さ52.5センチ。縹縷(はなだのる)は長さ190メートルに及ぶ[16]。『続紀』は当日の様子を、「仏法東帰してより斎会の儀、未だ嘗て此の如き盛なるはあらず」(日本に仏教が伝来して以来、これほど盛大な儀式はなかった)と述べている。
仕上げ作業 光背と支え
なお、開眼供養の時点で、大仏の仕上げはまだ完了していなかった。『東大寺要録』に引く「延暦僧録」によると、「鋳加」作業は天平勝宝2年正月(750年)に始まり、開眼供養より後の天平勝宝7歳正月(755年)まで掛かっている。鋳加とは、鋳造後、溶銅がうまく回らなかったり、空洞ができたりした箇所に再度銅を流し込んだり、銅板で補強したり、はみ出した部分を削ったり、8段に分けて鋳造した継ぎ目を接合(鋳からくり)したりといった一連の仕上げ作業のことである。こうして仕上げが終わり、表面をやすりで平滑にしたところで、初めて鍍金の作業に入る。「大仏殿碑文」によると鍍金開始は開眼会直前の天平勝宝4年3月14日(752年4月2日)、完了は「正倉院文書」に天平宝治元年(757年)と記載されていることから、開眼会の時点では鍍金は未完成である。光背はさらに後の天平宝字7年(763年)に着手し、宝亀2年(771年)に完成した。
このように、大仏の仕上げが未完成の状態で開眼会を挙行した理由については、聖武天皇が病気のため、実施を急いだという説もあったが、天平勝宝4年(752年)が、『日本書紀』などの主張する仏教伝来の年(欽明天皇13年・552年)から200年目の節目の年に当たり、この年の仏誕の日(4月8日)に合わせて開眼会を実施したとする説が有力となっている。開眼会は、実際には1日順延されて旧暦4月9日に実施されているが、順延の理由は定かでなく、天候のためかとも言われている。
台 座
大仏の台座には奈良時代当初の部分が比較的多く残っている。台座は大小各14枚の蓮弁からなり、表面には釈迦如来像を中心に、蓮華蔵世界を表した図様が線刻され、奈良時代仏画の遺品としても貴重である。蓮弁の図像については、『華厳経』に基づくとする説、『梵網経』に基づくとする説、『華厳経』・『梵網経』の両方の要素を取り入れているとする説がある。
平安時代後期に東大寺を訪れた大江親通は、『七大寺巡礼私記』(保延6年・1140年頃成立)の中で、大仏の台座は天平勝宝4年(752年)から同8年(756年)にかけて造られたものだと書き残している。これが正しいとすれば、大仏は像本体が初めにでき、台座は後から鋳造されたことになる。最初にこれを取り上げたのは足立康で、彼は昭和9年(1934年)、台座後鋳説を主張した。以後、技法面から考えて台座が先に鋳造されたはずだとする説(香取秀真など)と、台座後鋳説が対立しており、台座内部の本格的な調査が行われていないこともあって、結論は出ていない。
資材調達
銅
大仏建立に用いられた銅の量は記録によって差異があるが、約500トンと考えられている。『東大寺要録』が引用する縁起文によれば、大仏建立に用いた銅は「西海から」集めたとしており、銅のほとんどは山口県の長登銅山やその近隣の銅山で産出された銅でまかなわれたことが推察される。大仏創建当時のままと思われる部位、大仏殿西回廊横から出土した銅塊、長登銅山の銅鉱石のヒ素濃度との間には強い近似性が認められている。
金
当時の日本では金は産出されないと考えられており輸入に頼っていたことから、大仏の鍍金のために全国で探索が行われていた。天平21年(749年)に陸奥国遠田郡涌谷で金が採掘されると、聖武天皇は神仏の奇跡であるとして天平から天平感宝へ改元した。遠田郡を治る陸奥国守の百済王敬福が大仏の鍍金料として金900両(約13kg)を献上した(『続日本紀』)。産金関係者には位が授けられたが、その1人である日下部深淵は自身が神主であった神社を黄金山神社と改めた。
東大寺と橘奈良麻呂
天平勝宝4年(752年)に、大仏の鋳造が終了し、天竺(現在のインド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が盛大に挙行された。そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められ、竣工したのは天平宝字2年(758年)のことである。だが、このような大規模な建設工事は国費を浪費させ、日本の財政事情を悪化させるという、聖武天皇の思惑とは程遠い事実を突き付けた。実際に、貴族や寺院が富み栄える一方、農民層の負担が激増し、平城京内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、租庸調の税制が崩壊寸前になる地方も出るなど、律令政治の大きな矛盾点を浮き彫りにした。
天平勝宝8年5月2日(756年6月4日)、聖武太上天皇が没する。その翌年の7月に起こったのが、橘奈良麻呂の乱である。旧暦7月4日に逮捕された橘奈良麻呂は、藤原永手の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた」と謀反を白状した。ここで、永手は、「そもそも東大寺の建立が始まったのは、そなたの父(橘諸兄)の時代である。その口でとやかく言われる筋合いはないし、それ以前にそなたとは何の因果もないはずだ」と反論したため、奈良麻呂は返答に詰まったと言う。
東大寺と藤原仲麻呂
これに対して飯沼賢治は「そもそも東大寺での大仏建立は聖武天皇の意思であったのか?」という事に疑問を呈する説を出している。飯沼説は聖武天皇による大仏建立計画は甲賀寺での建立中止時に挫折し、東大寺における大仏建立は光明皇后および彼女を支えた藤原仲麻呂が深く関与していたとするのが主旨である。
皇后の父で奈良時代初期の政治を主導した藤原不比等の仏教政策は所謂「国家仏教」の確立であり、行基教団の弾圧もその政策の一環であった。娘である光明皇后もその遺志を継承して国分寺の建立など官寺の建設計画に関与していった。ところが、夫の聖武天皇が行基や知識集団に接近して民間の協力を得て大仏建立を決意した事はその政策の否定につながるものであり、許容できない物であった。このため、聖武天皇と光明皇后の仏教観の対立は政治的対立も絡んで大仏計画に深く影を落とし、その結果皇后が勝利して大仏建立計画は白紙化されて、彼女の建立した福寿寺をルーツの一つとし、「国家仏教」の中核になる筈である奈良の東大寺にて国家事業として大仏を建立するという天皇の計画とは全く異なる計画が開始されたとする(なお、皇后の仏教政策には唐の則天武后の影響も受けていることを指摘する)。また、政治的には天皇に近かった玄昉や行信が左遷され、政権の中枢も橘諸兄から皇后の後ろ盾を受けた藤原仲麻呂主導に移ることになったとする。
なお、飯沼は紫香楽宮放棄の原因になったとする宮周辺での謎の不審火は皇后側によるもので、天平勝宝元年(749年)に起きた宇佐八幡宮の託宣の入京も天皇側の大仏建立の主導権を取り戻すために仕掛けた反撃の一環と解する。更に光明皇后の崩御後に藤原仲麻呂が急速に没落した背景の1つに、父である聖武天皇の仏教観に共感しながらも母の光明皇后に抑圧されていた孝謙天皇が母の崩後にその意向を公然と表明して政治的にも巻き返しを図ったことが原因で、宇佐八幡宮が聖武ー孝謙派であったことが後の宇佐八幡宮神託事件にもつながっていくと説く。
焼損と復興
東大寺大仏殿(1709年再建、国宝)
大仏には、完成後数十年にして亀裂や傾きが生じ、斉衡2年(855年)の地震で被災し、首が落下した。真如法親王(高岳親王)が東大寺大仏司検校に任じられ、造東大寺所に属していた斎部文山らの活躍によりほどなく修理され、貞観3年(861年)朝廷が大法会を開催して大仏の修理落成供養を行っている。
その後大仏および大仏殿は、平安時代末期と戦国時代に兵火で焼損、焼失している。
平重衡の兵火による焼失
1回目は治承4年(1180年)の東大寺と興福寺の僧兵集団と平重衡との戦いの兵火の延焼によるものであった。この時、南都の街は炎に包まれ、興福寺が全焼、東大寺も伽藍の主要部を焼失した。兵乱後、重源が大勧進職として再興に奔走した。「勧進」とは仏と縁を結ぶように勧めることで、転じて寺院の再興などのために寄付を集めること、またその役を担う僧のことを指した。平氏政権を倒した源頼朝が再建の主導となり、重源は当時来日していた宋の鋳工陳和卿らの協力を得て大仏を再興した。文治元年(1185年)に開眼法要が営まれた。この時、開眼の筆を執ったのは後白河法皇であった。また、大仏殿の落慶法要は建久6年(1195年)、後鳥羽天皇、源頼朝、北条政子らの臨席のもと行われた。
松永・三好の兵火による焼失
大仏と大仏殿の2回目の焼失は永禄10年(1567年)、松永久秀と、松永と対立関係にあった東大寺にあえて布陣した三好三人衆軍の戦いの最中に焼失した。この火災の原因について、大仏殿を狙った攻撃、夜襲の際の失火、三好三人衆軍の陣中にいたキリシタンによる放火、などの諸説があり定かではない。
前回の焼失の際とは時代背景も違い、復興事業はなかなか進まなかった。豊臣秀吉は奈良の大仏に代わる、新たな大仏の造立を計画し、京都に方広寺大仏(京の大仏)が造営されたが、東大寺大仏再建への着手は行わなかった。なお京の大仏は地震等の被害のため何度か再建されているが、寛政10年(1798年)に落雷で焼失するまでは、規模(大仏の高さ、大仏殿の面積と高さ)で、現在の東大寺大仏・大仏殿を上回っていた。
東大寺大仏殿は仮堂で復興したが、それも慶長15年(1610年)に大風で倒壊した。大仏の頭部は銅板で仮復旧されたままで、雨ざらしの状態で数十年が経過した。
貞享元年(1685年)、公慶は江戸幕府から大仏再興のための勧進(資金集め)の許可を得て、ようやく再興が始まった。こうして元禄4年(1691年)完成し、翌元禄5年(1692年)に開眼供養された大仏と、宝永6年(1709年)に落慶した大仏殿が現存する。大仏殿は創建当時と比較して約4分の3の規模になっている。
前述のように宝永6年(1709年)から寛政10年(1798年)までは、奈良(東大寺)と京都(方広寺)に、大仏・大仏殿が双立していたが、方広寺大仏は寛政10年(1798年)に落雷で焼失した。
大仏の現状
銅合金に含まれる鉛と砒素の重量%。1~14番は大仏各部、15~17番は大仏殿西回廊横出土銅塊。
大仏のどの部分が天平当初のものであるかについては、資料によって小異がある。『奈良六大寺大観 東大寺二』によれば、右腋から下腹にかけての部分、両手の前膊と袖の大半、両脚のすべてが奈良時代のものであるとする。『週刊朝日百科 日本の国宝』の解説(1998年)は、右腋から腹、脚部にかけての部分が当初。蓮肉、蓮弁は台座後方に当初のものが残るとし、体部の大半は室町時代末期の補修、頭部は江戸時代のもので、鎌倉時代の補修部分は背中の一部に残るのみだという。
これまで像の螺髪(らほつ:仏像の頭髪を表す巻貝状の突起)は、平安時代に編纂された『東大寺要録』に基づき966個と言われてきたが、東京大学生産技術研究所准教授の大石岳史の研究グループが行ったレーザー光解析により、実数は492個(うち9個は欠けている)であることが判明した。
