ADHDは逃げ道じゃない。僕にとっては現実だ
はじめに|「ADHDのせいにしてるよね」と言われる違和感
ADHDだと分かったとき、僕は少しホッとした。
理由がついたから、救われた――
というよりも、
「説明できる言葉がやっと見つかった」
そんな感覚に近かった。
でも同時に、
この言葉はとても扱いが難しいとも思った。
なぜならADHDという言葉は、
簡単に“逃げ道”として消費されてしまうからだ。
「ADHDだからできないんでしょ、それを言い訳にしてない?」
そう言われるたびに、
僕の中にはずっと消えない違和感が残ってきた。
僕はADHDのせいにしたことはない
はっきり言っておく。
僕は一度も
「ADHDなのでできません」
「ADHDだから仕方がない」
と言ったことはない。
できなかったことはある。
ミスも多い。
忘れ物もするし、遅れることもある。
でもそれを
何かのせいにして終わらせたいと思ったことはなかった。
できなかったことは、事実として受け取っている
できなかったことは悔しいし、反省もする。
ちゃんと謝るし、
次どうするかを考える。
それは、「普通の人」と同じだと思っている。
ADHDがあるかどうか以前に、
社会で生きる以上、
結果が出なかったら向き合うしかない。
「せいにする」という言葉が苦手だった
僕がADHDのせいにしたくない理由は単純だ。
「せいにする」という行為は、
できなかった結果を、その場で肯定してしまう
感覚があるからだ。
それは僕にとって、
どこかで思考を止めてしまう行為に近かった。
受け入れることと、甘えることは違う
ADHDを受け入れた、という話をすると
「じゃあもう無理しないってこと?」
と聞かれることがある。
でも、それはまったく違う。
受け入れたからこそ、向き合えるようになった
受け入れる前の僕は、
「頑張ればどうにかなるはず」
「普通にならなきゃいけない」
と、自分に無理をさせ続けていた。
結果は、
うまくいかない → 自分を責める → 動けなくなる
その繰り返しだった。
ADHDを受け入れたことで、
ようやくスタートラインに立てた。
これは諦めじゃなく、戦い方の変更だった
覚えられないなら、覚えない。
集中できないなら、集中しなくていい形を作る。
それは投げ出しじゃない。
戦い方を変えただけだ。
「何かのせいにする」という考え方への違和感
僕はずっと、
「◯◯のせいでできなかった」
という言葉に、居心地の悪さを感じてきた。
それは誰かを責めたいわけじゃない。
自分自身が、その言葉を使うのが怖かった。
せいにすることは、結果を肯定することだと思っている
「ADHDのせいでできなかった」
その言葉を使った瞬間、
結果がそこで完結してしまう気がした。
でも僕は、
できなかった事実をそこで終わらせたくない。
理由の説明と、責任放棄は別物だ
誤解してほしくないのはここだ。
ADHDを説明することは、
逃げでも言い訳でもない。
ただ、
説明したあとに
「じゃあ仕方ないね」で終わるのが、
僕はどうしても苦手だった。

受け入れることは、諦めることじゃない
受け入れるとは、
「もうできません」と宣言することじゃない。
無理なものは、無理だと認める
無理なものは無理だ。
これは事実だ。
でも、
無理だと認めた上で
どう責任を果たすかを考える。
それが、僕なりの誠実さだった。
「なんとかする」か「責任を取る」か
僕の中のルールはシンプルだ。
なんとかできるなら、なんとかする。
できなかったなら、責任を取る。
ADHDは免罪符じゃない。
でも、現実から目を逸らす理由にもならない。
ADHDは“せい”じゃなく、“そういうもの”
ADHDは、
成功や失敗の原因を一言で片づけるための言葉じゃない。
「ADHDのせいでうまくいかなかった」
この表現を聞くたびに、
僕はどこか落ち着かない気持ちになる。
それは、ADHDという言葉が
“説明”ではなく“結論”として使われてしまう瞬間を
何度も見てきたからだと思う。
良い・悪いの話に回収される違和感
ADHDは、
努力しても治るものじゃないし、
怠けているわけでもない。
かといって、「だから仕方ないよね」で終わるものでもない。
それなのに現実では、
ADHDという言葉が出た瞬間に、
できない理由
成長できない理由
改善しなくていい理由
そういう“便利な箱”に入れられてしまうことがある。
僕は、その扱われ方がずっと嫌だった。
「そういうもの」として受け入れたとき、初めて動けた
ADHDを「自分の一部」「避けられない前提条件」
として受け入れたとき、
僕はようやく、
自分を責めるのをやめられた。
責めるのをやめたからといって、
努力をやめたわけじゃない。
むしろ逆だった。
どうやったらできるか。
どうすれば同じ失敗を減らせるか。
どうすれば人に迷惑をかけにくくなるか。
ようやく、
“前を向いた考え方”ができるようになった。
それでも、責任から逃げない
ADHDを受け入れてからも、
僕のミスがゼロになったわけじゃない。
今でも忘れるし、
抜けるし、
遅れることもある。
それでも、
一つだけは変わらず持ち続けている。
できなかった事実は、僕のものとして引き取る
できなかったことは、
ADHDのせいでも、
誰かのせいでもなく、
僕が起こした結果だ。
だから、謝る。
だから、説明する。
だから、次の工夫を考える。
「ADHDだから」で終わらせない代わりに、
「じゃあ次どうするか」を必ず考える。
それが、
自分に対する最低限の誠実さだと思っている。
ADHDだからできないなんて言ったことはない。
事実としてできなかったことはあるが、
せいにして放棄したことはない。
逃げないことが、自己否定になる必要はない
責任を取る、というと
自分を責め続けることだと勘違いされがちだ。
でも僕にとっての責任は、
自分を殴ることじゃない。
「事実を引き受けて、次に進むこと」
それだけだ。
同じように悩む人へ
もしあなたが、
「ADHDを言い訳にしてると思われたくない」
「甘えてると思われるのが怖い」
そう感じているなら、伝えたい。
受け入れて向き合っている時点で、もう逃げていない
ADHDを理解しようとしている。
工夫しようとしている。
それでも悩んでいる。
それだけで、
あなたはもう逃げていない。
誰かにどう見えるかより、
自分がどう向き合っているかの方が、
ずっと大事だ。
ADHDの周りにも言いたい。
『怠惰』『言い訳』と一言で片付けないでほしい。
改善しようと頑張っているし、
みんなができることを自分もしたい。
ただ、そういう性質であることを理解し、
みんな頑張っている。
それをわかってほしい。
おわりに|ADHDは、僕の現実だ
ADHDは僕を守ってくれる盾でも、
免罪符でもない。
ただ、
生まれつき一緒にある“現実”だ。
その現実を引き受けたまま、
今日も仕事をして、失敗して、考えて、
また進む。
それでいい。
それしかない。
ADHDは逃げ道じゃない。
僕にとっては、
ただの現実だ。
