ねぇパパ。僕の声を聞いてよ
「ご飯できたよー」
声をかけたが息子からの返事は無い。
平日の昼間。次男は保育園。妻は友人と出かけている。家には不登校の長男と在宅ワークの私2人きりだ。
お昼はラーメンがいいと言うので作ったものの、さあ一緒に食べようと思ったらこれだ。

目の前の越えられない壁。
それはコミュニケーションを断絶するパソコンの壁だった。
イヤホンをしてYoutubeを見ながらラーメンをすする長男に、こちらの声は届かない。
どうしてこうなったんだろう
◇◇◇
10年前、長男は2812gで生まれた。
予定日の7月10日には出てくる気配はなく、難産の末生まれたのは翌日だった。
「よっぽど納豆が嫌だったんだね」なんて妻と笑っていたけど、確かに今でも納豆は食べない。
初めての子育てで妻も私もてんやわんやだった。ちょっと泣けばおろおろと心配する。妻は産後うつに突発性難聴とヘルニアになり、私は寝不足で車の事故を起こした。育児ってそれくらいの緊急事態を連れてくるとは聞いてなかった。
箱入り息子ってこういうのを言うんだろう。まるで桐の箱に目いっぱい詰め込んだ緩衝材で守られた高級ワインのように、私たちは長男をとても大切にした。神経質すぎると両家の祖父母にたしなめられたが、当時は力加減が全く分からなかった。
ちょっとうちの子違うぞと思ったのが3歳だった。
駅ビルの人ごみの中を家族三人で歩いていると、後ろから5歳くらいの女の子に軽くぶつかられた。
そのことにぶちギレた長男はその子を追いかけて後ろから飛び蹴りをかました。
とにかく癇癪のひどい子だったので激しい性格とは思っていたが、見事なドロップキックを目の当たりにした私と妻は、緩衝材の中身が高級ワインではなくて実は鉄アレイだったと思い知った。
3歳児健診でドロップキックの話をすると専門機関を紹介され、あっさりと自閉症スペクトラムとラベルを貼られた。
とにかく息子は予定通りに動けない。行く直前になって行きたくない、がデフォルトだし、思い通りにいかないと軽いパニックになる。失敗が怖くて新しいことはなかなかできないし、負けることは死ぬことと同義なくらい勝ちにこだわる。感覚過敏で肌着が着れない。特技は重箱の隅に転がっている小さなネガティブ要素をつついて最大限大きく膨らますことだ。
それでも保育園は頑張って行ったし、小学校も3年生まではきっちり通っていた。
そんな長男を見て、もうこの子は大丈夫だ。普通の子と同じように社会でやっていける、なんて思い始めていた。喉元過ぎればなんとやら。当時の自分に言ってやりたい。普通ってなんだよ。自閉症スペクトラムなめんなよ。
それこそ赤ん坊の時は人一倍泣いて自己主張が強かった息子は、発語も早く、「パパ見て」 「パパ聞いて」とアピールが凄かった。全力で愛しているのに、それじゃ足りないといつも泣いていた。
それがいつしか、次男が生まれ、長男の叫びはさらに悲痛なものに変わっていた。
「僕のパパ返せ」
「僕のママを返してよ」
「寂しいんだよ」
分かっていたけど、どうしようもないじゃないか、と大人の論理で長男の声を聞いてやれなかった。
このあたりから相当無理をしていたんだろう。もう、その場限りの「がんばってて偉いね」の言葉は効力を失っていた。
◇◇
4年生の6月で長男の心はポッキリ折れてしまった。彼は自分を守るため無理をするのをやめた。
そこから学校に行かず、家で動画とゲームの世界にこもるようになった。
その姿に妻は絶望し、私は後悔した。
ごめんね。
こんなになるまでがんばらせてごめん。
君の声を聞いてあげれなくてごめん。
守ってあげれなくて、寄り添ってあげれなくて本当にごめん。
私も自分を守るため自分を責めた。
◇◇◇
そんなことを思いながら目の前のパソコンを見つめていたら、思わず視界がぼやけてきた。
ずずーずずー
鼻をすすりながら、ラーメンをすする。
机の下で長男と足が当たった。
こちらに意識が向いたのを感じ、立ち上がって合図をする。
片耳だけイヤホンを外した長男に「おいしい?」と聞いた。
「うん」
「もやしとひき肉のオカワリいる?」
「うん」
「キノコは?」
「キノコはいらない。ありがと」
まだその声を聞けたことに少し安堵する。
そしてこの声を聞かせてくれるうちに、
まだ私の声が届くうちに、
「パパ、聞いてくれてありがとう」
と言って貰えるようがんばるよ。
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