【ショートショート】倫理缶
明日の会議の準備をしていたら2時間残業してしまった。
今月あと何時間残業できたっけ?明日は定時上がりにした方がよさそうだ。
そんなことを考えながらパソコンをシャットダウンする。
「入社した頃はみんな終電まで仕事したものだけど……」なんて言うと昔話ジジイ認定されそうで口には出せない。
そもそもルールは守るものと小さい頃から教わってきたから、どれだけ面倒なルールでも守ってしまう。悲しい性分だ。
身支度を済ませて会社を一歩出ると雪がちらついていて驚いた。
さっぶ。もう3月なのに。
手袋を家に置いてきたことを後悔する。
最近暖かい日が続いてそろそろ春だと思っていたのに。薄手のジャケットのポケットに手を突っ込んで足早に駅に向かった。
すれ違う親子が「さむいさむい」と手を繋ぎながら楽しそうに歩いている。子供の方は紗代子と同じくらいだろうか。母親のまわりをきゃっきゃと楽しそうにはね回っている。
去年小学校に上がったばかりの紗代子は私ではなく元妻の紗織を選んで行ってしまった。「あなたと居てもつまらないの」と紗織に言われても「わかってただろ」としか返せない私は本当につまらない男だと思う。横で困ったような顔をして「けんかはやめて」と言っていた紗代子の顔が浮かんできた。
紗代子に会いたい。
”寒い”と”寂しい”はとても近いところにある感情だと思う。冷たい風が吹きつける度に、誰もいない家に帰るのが寂しくなる。
少しでもこの冷たい心と手を温めたくて自動販売機であったか~い缶コーヒーを買った。
ガコン
取り出した缶コーヒーをしばらく両手の間で行ったり来たりさせてから、フタを開けて口に含んだ。
熱いコーヒーが喉元を過ぎて少しずつ体の細胞たちが息を吹き返していくのがわかる。
あぁ、これでなんとか帰れそうだ。
飲み干した空き缶を手にしばらく歩いていると、冷たい風にさらされてみるみるうちに温度を失っていく。こうなると空き缶は凶器も同然だ。
一刻も早くこの空き缶を捨ててしまいたい。だけどゴミ箱が見当たらない。
よっぽどその辺の道端に捨ててしまおうかと思ったが私の性格上できるはずもない。
そうこうするうちにまた自動販売機が見えてきた。隣にゴミ箱も併設されているようだ。
良かった、これで捨てられる!と思ってゴミ箱を見たら、あふれるくらい缶が詰め込まれている。ゴミ箱の横にもずらりと空き缶が並んでいて、さながら缶の墓場のようだ。もう1つくらい増やしたって構わないと思う。思うのだけど、どうしても捨てられない。「そうゆうとこが息が詰まるのよ」と紗織の声が聞こえた気がした。
仕方がない。結局私はまた、あったか~い缶コーヒーを買った。
ガコン
こうしてまた、倫理缶が増えていく。

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