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女性天皇と女系天皇 伝統とは何か 歴史理性を起動せよ。


 最初に断っておくが、私は保守派でも右翼でもない。
 三島由紀夫のような、天皇制にたいする特別な思い入もない。
 私はただ、ものの道理を語るつもりだ。
 そこんとこ、ヨロシク。

 ニュース解説を見ていたら、元官僚のコメンテーターが、女性天皇と女系天皇を国民の70%ちかくが容認しているのだから、事の良し悪しはべつとして、時代の流れとして、そういう方向で皇室典範を改正することになろうといっていた。

 まえにも書いたが、「コメンテーター」という連中は予想屋にすぎない。
 コメンテーターとは本来、専門的見地から、その事象の性質を解説するのが役目だ。苦くとも、良薬をすすめるのがスジだろう。それが、「事の良し悪しはべつ」にしてしまったら、羊頭狗肉のでくの坊だ。

 かれら本来の役目は、大衆迎合ではなく、まず「女性天皇」と『女系天皇」の相違点についての、明確な歴史的説明と解説にある。将来の予測は、そうした天皇制の在り方を土台にしたものでなくてはならぬ。
 それをすっ飛ばすのは、世間への阿諛と保身という意図があるからだ。

私の天皇論

 天皇とは、シンプルに、日本国民全体を家族とした場合の、「総本家の家長」である。私はそうおもう。

 もっとも始めからそうだったのではない。長い歴史の経過において数多くの艱難辛苦に揉まれるうちに、しだいにそうなった。
 戦前の「現人神」なんていうのも、西欧文明に適応異常をおこした明治政府の一時の迷妄にすぎない。敗戦のおかげでそれもリセットされて、本道にもどり、現在の天皇家のすがたがある。

 帰化人だろうが亡命者だろうが、日本国民となったとたん、かれは日本人という拡大家族の一員であり、天皇家という日本総本家と「親戚」となる。
 天皇は総本家の家長としてふるまい、アマテラス以来の祖霊の祭祀をつかさどる。日本人としての在り方において、総責任を負っているのである。天皇の一挙手一投足が私たちの「規範」となる。それは上からの強制ではなく、まぎれもなく私たちがそれを天皇にもとめているからである。
 よって、日本国民が陛下に最大限の敬意をはらうのは当然の話だ。まさに統合の「象徴」なのである。
「総本家の家長」として、それ相当の「権威」をもつのは当然の話で、そうでなくては、「家族」としての私たちの地位もたもてはしない。
 それはふつうの家族の構造とおなじだ。家長が軽んじられれば、家族全体も敬意をうけなくなる。家長の行動はその家を代表し、その家のエートスをあらわす。
 その点、天皇家は、世界中のどの王家の前でも、いささかもたじろぐ必要のない長い伝統文化と純粋性を保持している。これは、べつだん褒めているのではなく、単純な「事実」である。

――それが、日本の歴史的伝統である。

 だとすれば、皇統が男系の血筋に固定されているのは。べつだんヘンな話ではない。
 一般家庭の家系図もすべてそういうふうになっている。
 いいも悪いもない、それが伝統というものだ。

 天皇家がこれだけ続いてきたのもそのおかげである。いかなる権力者も、姻戚とはなれても、みずからが天皇となることは出来なかった。娘を嫁がせはしても、自分が娶ることは出来ず、その子も相続権がない。地位の安定は男系相続のありがたみだ。

 戦国時代の内乱状態にあっても、日本では、たとえばヨーロッパの30年戦争のように、相手国の民衆をも虐殺するということがなかったのは、意識しようとしまいと、日本人に家族意識があったからだ。
 例外は、信長による長島一向宗や叡山焼き討ちだが、その信長とても、苦境に立てば、天皇に仲介を依頼した。

 なにも長子相続とかぎったものでもない。

 これが適当な例かどうかわからないが、私の祖父は8人兄弟の末っ子だった。祖父は戦死し、本家の墓に入っていたが、父は経済的余裕ができるとすぐに祖父のために我が家の墓を建てた。
 ところが、私が小学生のころ、本家の墓が末端の分家である我が家の墓地にやってきた。狭苦しい地所に2つの墓がならんで立った。
 当時、祖父の兄はまだ二人健在で、その息子も孫もいた。
 にもかかわらず、家族会議の結果、私の父がひきうけることとなり、家系図や過去帳も届けられた。
 つまり、従兄のうちでもいちばん年若い私の父が、「本家」を継ぐことになったのだ。
 当然のように、墓の移転費用もぜんぶ父がもたされたが、財産も家格もないド庶民であるから、完全に赤字である。

 男系相続において、天皇家でも、その状況に応じて、長子相続に限定せず、女性天皇すら存在した。その場合も、夫が男系皇族でなければその子に継承権はない。
 それは一種の安全装置として機能してきた。

 いまの天皇継承論議において、とりわけフェミニストのあいだでは、相続権がなにか「特権」であるかのように語られているが、本人からすれば、罰ゲームかもしれないのである。
 男女平等たって、重い荷物はやはり男性社員が運ぶべきだろう。そのほうが「合理的」だ。平等なんだから、女子ももてというのは、迷惑千万な話だろう。

 権利には義務がともなう。天皇家業はかれらが考えるほど楽な仕事ではない。孤独な激務である。
 元旦早々から、斎戒沐浴ののち、暖房も効かない密室にひとり閉じこもって長時間の祭儀がある。あとは推して知るべし。華やかな外見とは裏腹に、行動・思想の自由はかぎりなく制限され、責務の重さは私のような下々の者にははかりがたい。
 いいたいこともいえず、したいことも出来ず、ひたすら仕事に向き合う。
 ひるがえっていえばそれは、われわれ国民が、総本家の家長をそういう状態に追いやっているのである。自分のことは省みず、天皇陛下には完璧な人間性を期待している。
「家族」の長として、常住、公平で慈愛にみちた品格ある温容な存在であることを、国民は天皇にもとめているのだ。
 天皇陛下は、ささいな失敗も許されない、日本でもっとも厳しい立場におられる。

 まあしかし、日本国民の深層にこういう家族意識があるかぎり、総本家たる天皇家は存続する。

伝統について

 男子相続は、ジェンダーフリーの現代にそぐわない、あるいは少子化によって皇統が途絶するからという両極の理由で、女系天皇をみとめようという論議が高まっている。

 その根柢にあるのは、いずれも「合理性」である。
 そのくせ女性天皇と女系天皇の明確な区別もつかない程度の「合理性」にとどまる。

 しかし考えてもらいたい、伝統は「合理的」なものではない。
 それどころか、価値――美とか善とか、そういうものはどれも、理屈で割り切れるものではない。
 それらは徹底的に質的なものであり、量に還元したり計算したり出来ないのだ。

 たとえば法隆寺を、現代的でないとか、建築基準法に違反しているとか、強度を高めるという理由で、鉄筋コンクリートにしたらどうなるか。
 たしかに強度は増して頑丈になり、なるほど現代化もするが、法隆寺はもはや法隆寺ではなくなる。
 しかも、いったん失われれば、二度と元には戻らない。

 法隆寺も建ったときは、ピカピカの新建築だったのだ。それが時代をへて、風雨や戦乱にたえながら、シブいすがたの現在がある。いまを生きるわれわれは、いまある法隆寺をこよなく愛している。そこには日本の長い歴史が法隆寺という実体として現前しているからである。
 私たちは夢殿に聖徳太子のおもかげを見る。

 天皇制もそれとおなじだ。いや、法隆寺よりはるかに古い歴史的構築物なのだ。時代を経過しながら、いくたの困難を乗り越えて現在がある。
 女系を容認するということは、天皇制を鉄筋コンクリートにすることであり、いまの天皇の在り方の根本を喪失することを意味する。
 総本家としての天皇はいなくなり、家族としての日本国は永遠になくなる。
 そうすると、W杯の試合後にみんなでゴミを集めたり、災害時にもコンビニを略奪などせず規則正しくならんだりするような、日本人の国民性もしだいに薄れてゆくことになる。日本国民にある「家族」としての絆はバラバラに切り離されてしまうからである。
 そうなったら取り返しはつかない。

 合理に徹すれば合理性を失う。(註①)

 女系論者は、そこまで考えて発言しているのだろうか。
 かれらは、合理性と現時点での多数という、いずれも量的な概念を楯に男系相続維持に反対する。
 かれらは伝統とは何か熟考せず、世界遺産を「モノ」としてしか見ていない。

 あるいは、愛子天皇実現のための女系容認論もある。私にもその気持ちはよく解るし共感もする。
 だからといって、そういう短期的目的のために、男系相続という歴史的基本線を消し去っていいのか。

 天皇制も生きた歴史であり、男系相続という屋台骨を失えば、外形は立派でも中身は希薄化し、事実上、いまある天皇制の崩壊を意味するのである。

 私は保守派でも右翼でもない。
 古いものは何でもいいわけではなく、悪弊を改めるにしくはないと考える。だがその場合も、現在の視点から過去を見下すような行為は許しがたい。
 われわれの現在は、歴史という巨人の肩に乗っているのである。

 70%の国民が賛同しているだって? だからどうした、と私はいいたい。

 かつてチェスタトンは、死者にも投票権をあたえよといった。
 歴史や伝統の重みを心得よという警句だ。

 現在の都合という浅薄な理由で、いったん壊すならば、二千年の伝統あるものを、もし復興しようとすれば、二千年の時がかかることを覚悟しておかねばならない。(註②)
 壊すのは一瞬だが、いったん壊れると再建は不可能なのだ。

 70%のうち、どれだけの人がそのことを理解しているだろうか。それを知って、それでもなお賛成する人はどれだけいようか?

 法隆寺だって、大災害や戦災などでいつ崩落するかもわからない。天皇制もそれが歴史的構築物である以上、永遠のものではない。
 それだけに、風潮に左右されたり、大勢に付和雷同したりせず、長い目でみて、細心の注意をはらって維持することを考えなくてはならない。

 それが二千年の歴史をもつ国に生まれたわれわれの責務なのである。と同時に、神話と歴史ある国に生まれ、そういうものをたくさん抱えていること自体が、どれだけ国民として仕合せなことか、とくと考えてみる必要がある。
 国民全体が、へんな戒律でしばられることなく、しぜんに家族だとおもえる国が、世界中でどれほどあろうか。私たちはそういう稀有な文化と伝統を保持する国民なのだ。(註③)

 ところで、皇室典範に問題がないわけではない。それどころか、大きな問題をかかえた「法律」だとおもう。
 それについては、いずれ改めて語りたい。

註①
 真に合理をつきつめようとすればするほど、現実の不合理という厚い岩盤につきあたるものだ。世の合理主義者のほとんどは、そこまでいっていない。

noteで、民主主義の原則から、女系天皇をみとめるべきだという意見を多くみかけたが、そんなこといいだせば、現在の長子相続もおかしいし、それ以上に、民主主義を絶対的真理だとおもうのならば、天皇も全国民から投票で選ばれるべきだということになろう。

 かれらはみずからが正義だと信ずる「合理性」がはなはだ中途半端なもので、個人の恣意にもとづいて合理と非合理の境界線をあいまいにぼかしたご都合主義にすぎないことを自覚していない。
 もしくは、常識を疑い、論理をつきつめてみようとするエートスがない。
 橋下徹氏の天皇論はその典型で、自身の主張が、合理性の名をかりた個人的感情であることにまるきり気づいていない。

 天皇とは徹底的に血筋のものだ。根柢から不合理なのだ。
 真にそれを否定し合理性を追求するなら、その人はみずからの相続権を放棄すべきである。

 遺産相続にかぎらず、民主主義はかれらのおもうほど完全無欠な合理的制度ではない。それは既得権や猶予条項など、不合理な成分を多くふくんだ現実主義なのだ。
 根幹をなす多数決の原理にしても、多数が賛成したからといって、それが「正しい」とはかならずしもいえないのだが、かりにそれを「正しい」としているだけである。
 合理的でも何でもない。みずからはそうした不合理を享受しながら、他を批判することのむなしさを知らないのだ。

 現在、もっとも先進的で合理的な党と目される、チームみらいの公式コメントを読むと、意外にも、私とほとんど同じ見解がしめされていた。
 かれらは非合理をみとめることの合理性、先進性は過去から生ずることの意味に、気づいているのだ。

註②
 言語も歴史的存在者である。
 日本においても、明治時代、戦後と、二度にわたって、かなづかいを変更し、漢字を制限し、極端な話、ローマ字化しようという機運が盛り上がったことがあった。
 前者で強力な歯止めとなったのは、森鴎外であり、後者では福田恆存。二人の文学者だった。
 それでも、新かなづかいとなり、新漢字となった。しかしこのくらいですんだのは、かれらのおかげである。

 韓国では民族運動の結果、漢字を完全に駆逐してハングルのみとなり、中国では文化大革命と簡体字の採用という二段階の措置により、それ以降、両国の現代人は自国の古典と外国語のように向き合うことになった。
 かれらは古典との紐帯を喪失し、伝統を奪われたのだ。いいかえれば、心のよりどころを失くしたのである。

 ずいぶん前のことだが、中島みゆき氏が国語審議委員に就任したさいのコメントを読んだことがある。

「見れる」「着れる」といった「ら抜き言葉」は、国民の大半が常用する現在の状況を考えると、もう国語として認めていいのではないか――

 かの女はそういっていた。
 しかしそれは、倉庫に大きなネズミの穴ができたが、出入りに便利なので広げようというのと一緒だ。そんなことすれば、日本語という「倉庫」は倉庫としての機能をいちじるしく損なうことになる。

 どれほど多数であれ、現状追認という理由での改変はよくない。
 すべてのものは、自然のままにまかせれば、いずれ拡散し崩壊する宿命にある。エントロピーの法則を観よ。

 国語もその例外ではない。黙っていても、文法はどんどん崩れてゆく。
 だからこそ逆に、国語が構造的にゆるんで来ていないか、定期点検し、タガを締め直す必要がある。国語審議委員会はそのための組織であるはずのものだ。
 現状追認というのは、破損個所を拡大し、崩落に手を貸すことにほかならない。

 日本語は、ほんとうに倉庫であり、そこには数え切れぬ日本の歴史的宝物が収納されている。したがって取扱いには厳重な注意を要する。
 だから鴎外・漱石も、太宰も三島も、そんな汚い言葉遣いはしない。

 天皇制反対者はたいてい明治以降・戦前の天皇制の在り方に批判的なひとびとである。
 私も「現人神」なんてあほらしいとおもう。
 それは、二千年の歴史うちのたかだか五十年間に、明治政府の西欧文明にたいする適応異常から生じた現象にすぎない。
 むろん、天皇がそのようなかたちで将来も利用される可能性があることは、私も否定しない。が、「主権在民」なのだ。私たちがしっかりとして、そういう方向に行かぬように心がければすむことだ。
 私たちに、自己を信じ、自由と平和を守り抜く気概がありさえすれば、そんなことになるはずがない。

註③
もちろん、そうした家族意識に否定面がないわけではない。なにごとも、長所の裏側に欠点がある。
 拡大家族としての日本には、美点もたくさんあるが、それゆえの欠点も数え切れぬほどある。そのことを見過ごしてはならない。
 しかし、歴史や伝統は私たちが選びとるものではなく、私たちを構成する主要な成分なのだ。したがって、対象化しにくく、単純に否定できるものではないし、かりにそうしてみてもどうにも仕様がない。取扱いには特別な配慮を要する。
 ここに、「歴史的理性」の有用性がある。
 そして私は、以上の文章を、歴史的理性の演習として書いてみた。
 


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神原 伊津夫 福田恆存さんや、そのほかの私が尊敬してやまない人たちについて書いています。とても万人うけする記事ではありませんが、精魂かたむけて書いております。