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『ブゴニア』を観ていて、引っかかっていたこと

みんなが納得しているのに、ひとりだけ引っかかることがある。

エマ・ストーンを主演に迎えた誘拐サスペンス映画『ブゴニア』。

私は『哀れなるものたち』が好きで、同じヨルゴス・ランティモス監督の作品だと知って観に行った。

なぜ好きなのか。

理由はシンプルで、

あの作品は「人間の当たり前」を、そのまま通用しなくしてくるから。

倫理とか価値観とか、
普通こうだよねっていう前提が、そのまま通用しない。

でも作品の中では、それが普通として進んでいく。

あの感じが、気持ちいい。

(もちろん、ちゃんと気持ち悪さやグロさもあるんだけど、それ込みで好きです(笑))

※これは映画レビューではなく、「人がどの前提で世界を見ているか」を観測した記録です。

今回は、
「無意識の前提を見てしまうと、世界がどう見えるか」の具体例です。

※一部ネタバレを含みますのでご注意ください。


映画『ブゴニア』とは

映画の内容は、

世界的な製薬会社のカリスマ経営者ミシェルが誘拐される。
犯人は、彼女が地球を侵略するエイリアンだと信じているテディと、その従弟のドン。

正直、

「これ本当にエイリアンなんだろうな」と思って観ていました。

だからストーリーとしての驚きはあまりない。

むしろ、「はいはい、やっぱりね」という感じ。

(※私は原作を知りませんでした。)

でも、それとは別に
ずっと引っかかっていたことがあります。


なぜミシェルは“交渉しなかった”のか

誘拐されている状況で、

「なんで私がエイリアンだと思うの?」

と聞いたとき、
テディはインスタの投稿や、いくつかの根拠を並べて断定してくる。

普通なら、

・その根拠を崩す
・一つずつ誤解を解く

そうやって前提を崩しにいくはずです。

でもミシェルは、それをしない。

処理して、流す。

その代わりにやるのが、

・相手に乗る
・エイリアン前提で話す
・安心させる
・協力する

ここで多くの人が思うはずです。
「いや、これは分かる。自分でもそうする」

でも同時に、私は思ったんです。
「いや、それでもここ詰めないのおかしくない?」

この2つの感覚が、ずっと残りました。

・なぜ、自分がエイリアンだと思われている理由を詰めないのか
・なぜ、相手の感情を逆なでしない設計をしないのか

やり手の経営者で、心理も分かっている設定なら、
ここは外さないはずです。

なのに、やらない。

これは、能力の問題ではありません。

ミシェルの中では、

「誤解を解く」という前提が採用されていない。

代わりに動いているのは、

“その場を抜ける設計”

・「理由を詰めても崩れない」と見ている
・相手を“対等な交渉相手”として見ていない
・主導権(コントロール)を優先している

だから、すべてが中途半端になる。

癖(支配や優位性)が混ざってしまっている状態とも言えます。

現実にもよくある構造が見えます。

整えているのは言葉であって、
現実ではない。

説明はできる。
それっぽく振る舞うこともできる。

知識がある人ほど、
前提を疑わずに“扱う側”に回ることがあります。

分解するのではなく、利用する。
整えるのではなく、コントロールする。

だから、
一見すると賢いのに、どこか噛み合わない。

話は進んでいるのに、何も解決しない。

交渉が下手なのではなく、

前提が違うだけ。

「相手を制御する側」の前提が強く働いている。

前提が違うと、
同じ状況でも“やるべき行動”が変わる。

設定として、
成功した経営者であること、
そしてそもそもエイリアンである可能性も含めて(笑)、

そしてもう一つ。

これは完全に私側の話ですが、
私は構造的に“収束させる側”の思考をしています。

だから、

・誤解は分解して解く
・前提は揃える
・ズレは回収する

という動きを自然に取ってしまう。

でもそれをやると、
この物語は成立しない。

すぐに終わってしまうから。

(すぐ解決要素を見つけてしまうから、
物語にならない病気みたいなものです(笑))

つまり、ミシェルの違和感は、
彼女の問題というよりも、

私の見ている基準とのズレでもあったんです。


なぜドンはあの行動をとったのか

次に引っかかったのは、ドンの最後のシーン。

多くの人は「なんで?」と思うはずです。

でも、あれは急におかしくなったわけではありません。

ドンはずっと、自分で判断していない。

テディの言葉をそのまま受け取り、
その中で意味をつくっている。

人は、生きるために意味を求めるのではなく、
意味が手に入ったとき、止まることがある。

ドンにとって重要だったのは、

生きることでも、宇宙に行くことでもない。

「自分が信じていた世界が正しかった」という確定。

あの瞬間

・疑いは消え
・不安は消え
・曖昧さが消えた

すべて、“確定”した。

ドンの中で、物語が完成したんです。

そして彼は、そのまま終わらせた。

外から見ると極端に見えるかもしれません。
でもあれは衝動でも、絶望でもない。

あの前提の中で、納得したまま、
自分で幕を引いただけです。

ドンは
生きるために意味を求めてたんじゃない。
意味を得るために生きてた。

だからあの行動は、
絶望でもパニックでもない。
完成した結果です。

納得して終わっただけ。

外から見ると理解できない。

でも本人の中では、一貫している。

感情に振り回された結果ではなく、
前提の中で動いているだけです。


なぜドンは止まれなかったのか

ドンは壊れていたわけではない。

ただ、自分の中にあるはずの「止める機能」を、自分で持っていなかった。

これは、映画の中だけの話ではありません。

現実でも、同じ構造はよく見られます

たとえば、

・宗教やカルトに深く入り込むとき
・強いリーダーに依存するとき
・恋愛で相手の世界をそのまま受け取ってしまうとき

そこでは、自分で判断しているように見えて、
実際には「前提ごと他人に預けている」状態が起きています。

何を信じるか。
何を正しいとするか。

その基準そのものを外に置いたとき、
人は簡単に、その前提の中で一貫して動くようになります。

外から見ると理解できない行動も、
本人の中では矛盾がありません。

※私はこれを、「基底の蓋が自分にない状態」として捉えています。

本来ここは、
生存や境界を守るためのブレーキとして働く部分ですが、
それを外に委ねていると、前提ごと動いてしまう。

ドンに起きていたことは、
特別なことではなく、
構造としては、現実でも繰り返されているものです。


なぜテディは騙されたのか

そして最後。

テディがミシェルに騙されて、
母親の病院で動くシーン。

あれも多くの人がこう思うはずです。

「ここまで判断できる人が、こんな簡単に騙される?」

でもこれも同じです。

能力の問題ではありません。

人は、判断できないから騙されるのではない。
判断しない状態に入ったとき、騙される。

最初のテディは

・ミシェルを疑ってる
・嘘を見抜いてる
・冷静に観ている

ちゃんと“判断モード”にいる。

でも、母親の話が出た瞬間、モードが切り替わる。

・整合性を見ない
・リスクを見ない
・事実確認をしない

「助かる可能性」にだけ反応する。

能力がなくなったわけじゃない。

使わなくなっただけ。

“大事なもの”が入ると、人は判断を止める。

・母親を助けたい
・失いたくない

この感情が前提を書き換えた。

そしてそのまま、
本来なら絶対に選ばない行動を実行してしまう。

結果として起きたのが、
母親に対するあの出来事です。

疑う前提 → 感情 → 前提の書き換え → 判断の変化

だから、見抜けていた人が、
一瞬で騙される。

おかしなことが起きていても、
その前提の中に収まっていれば成立してしまう。

人は、間違って判断するのではない。
前提が変わることで、正しいと思うもの自体が変わる。


ブゴニアという構造

ここまで来て気づきます。

この映画は、エイリアンか人間かの話じゃない。

誰が正しいかの話でもない。

前提がズレたまま、
その中で一貫して動いている人たちの話。

どの前提で世界を見ているかの話です。

そしてもっと厄介なのは、
その前提に自分では気づけないこと。

人は、
見えているものに反応していると思っている。

でも実際には、
見えているものをどう解釈するかで動いている。

そしてその解釈を作っている前提には、
気づけない。

だから、

・自分は正しく見ていると思う
・相手がズレていると思う

でも実際には、

見ている内容じゃなくて、
前提がズレているだけかもしれない。

ブゴニアという言葉は、

死骸からミツバチが生まれると信じられていた考え方に由来します。

見えている現象から、
それっぽい因果関係を作る。

そしてそれを、疑いなく現実だと思う。

今から見れば間違っている。

でも当時は、それが“正しい世界”でした。

この映画で起きていることも、同じ構造です。


そして、私の違和感

ここまで観ていて、
ずっと残っていた感覚があります。

たぶん私は、
こういう前提に完全には乗れない。

一度は納得する。

でも、止まらない。

「それ、本当にそうなの?」

みんなが納得しているところで、
一人だけ引っかかる。

この問いが消えない。

話の中に入り込む前に、

「なんでこの前提で進んでるんだろう」

というほうを見てしまう。

何が起きているのか、
見えてしまう。

誰が間違っているのかではなく、

どの前提で動いているのか。

そして、
その前提がどこでズレたのか。

前提ごと受け取る前に、
前提そのものを見てしまうから。

人は、ブゴニアする。

見えているものから前提を作り、
その中で世界を理解する。

でも私は、
そこに完全には乗れない。

だから、

物語として没入するというより、
ずっと観測してしまう。

ブゴニアできないんじゃない。

ブゴニアに気づいてしまう側だった。

この映画は、
それがそのまま起きている状態だった。

そしてそれは、
映画の中だけではない。

私たちは、
それっぽい理由を集めて、
納得して、

その中で世界を理解している。

でもその前提が、
本当に正しいかどうかは、

ほとんど疑わない。

だから、気づかないまま、
同じことを繰り返している。

そして、それを
“現実”だと思い続けている。


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