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“ちゃんと生きてるのに空虚”の正体 ① 非効率

「非効率。」

その言葉を聞いた瞬間、私は少しだけ止まった。

怒ったわけじゃない。

でも、
“あれ?”と思った。

たった30分の打ち合わせ。

それが、そんなに無駄なんだろうか、と。

 

ある日、取引先A社の営業担当から、
グループ会社であるB社を紹介された。

B社との契約が進みそうな流れになった頃、
A社からこんな提案が来た。

「うちのサービスも導入しませんか?」

ただ、そのサービスは、
当時私が所属していた会社のシステム上、
ほぼ導入が難しい状態だった。

だから結果だけ見れば、
断る可能性が高かったと思う。

「提案だけでもさせてもらえませんか?」

営業同士の関係性もあったし、
紹介してもらった経緯もある。

私は、
説明もせずに断るのは違う気がした。

何より、
「ちゃんと向き合う」という工程を飛ばしたくなかった。

だから私は、
企画側へ相談した。

事情を説明した上で、
先方への説明の場に同席してほしい、と。

 

返ってきたのは、
こんな言葉だった。

「非効率。次から考えて」

 

合理的なんだと思う。

見込みの薄い案件に時間を使わない。
効率を守る。
生産性を下げない。

会社としては正しい。

実際、
その判断をする会社は多いと思う。

でも私は、
どうしても引っかかった。

 

たった30分。

その30分って、
本当に“無駄”なんだろうか。

 

私は営業職も、
営業支援も、
企画寄りの仕事も経験してきた。

だから、
企画側の感覚も分かる。

無駄な工数を減らしたい。
再現性を高めたい。
利益につながる動きに集中したい。

それは間違っていない。

でも同時に、
現場でしか見えないものもある。

「今回は難しくても、
この対応が次につながるかもしれない」

「断るとしても、
雑に扱わなかった記憶は残る」

「関係性って、
数字にならない場所で積み上がる」

そういう感覚。

 

もちろん、
それが必ず利益になるとは限らない。

むしろ、
何も返ってこないことの方が多いかもしれない。

でも私は、
そういう“すぐに回収できないもの”の中に、
会社の未来がある気がしていた。

 

だから、
「非効率」という言葉に、
妙な違和感が残った。

 

でも今思えば、
私が本当に引っかかっていたのは、
その言葉そのものじゃなかった。

もっと別のものだった。

 

その場にいた誰も、
この判断に違和感を持っていないように見えたこと。

 

合理的。
普通。
効率的。

そういう空気の中で、
何かが“当たり前”として処理されていく。

そして、
その当たり前を、
誰も疑問に思っていない。

 

たぶんそのとき、
私はまだうまく言葉にできていなかった。

でも今なら分かる。

あの日、
私が怖かったのは――

人は、
自分で判断しているつもりで、
実は何も判断していないことがある、

ということだった。

② 哲学


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