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「あなたのためを思って」という優しさの空気

ある日、友人たちに言われた。

「その内容、強すぎるよ」

「もっと分かりやすく言った方がいい」

「比喩が多いから、普通の人には伝わりづらい」

「読んだ人がショック受けると思う」

「“私がおかしいのかもしれない”って、
普通そんなタイトルつけないよ」

 

みんな、
優しい顔だった。

本気で、
私のことを心配してくれていたと思う。

 

その中には、
20代で安定した仕事を辞め、
ネイリストとして独立した子もいた。

当時はまだネイルで生計を立てるなんて、
認識されていない時代だった。

周囲から反対されながら、
自分で道を選んできた人だった。

だから最初、
私が東京へ行って、
withchatを始めた時も、
応援してくれていた。

 

でも途中から、
少しずつ言葉が変わり始めた。

 

「もう少し受け入れられる形にした方がいい」

「東京にいる意味ある?」

「40過ぎたら、
もう少し落ち着いた方がいい」

「それ、
読んだ人が何かあった時、
まいに影響あると思う」

「もっと気楽にやったら?」

 

その子だけじゃない。

 

ビジネスで成功している子。

自分でビジネスを始めたけど、
うまくいかなかった子。

専業主婦になった子。

長年会社員として働いている子。

 

人生はみんな違う。

でも、
不思議なくらい、
戻そうとしてくる方向は似ていた。

 

もっと安全な方へ。

もっと分かりやすい方へ。

もっと受け入れられる方へ。

もっと普通の方へ。

 

もちろん、
悪意じゃない。

 

むしろ、
みんな現実を生きてきた。

挑戦したことも、
傷ついたことも、
失敗したことも、
諦めたことも、
ちゃんとある人たちだった。

だからこそ、
心配してくれていたんだと思う。

 

でも私は、
あの日、
かなり揺れた。

 

顔では笑っていたけど、
正直、
涙目だった。

 

「私がおかしいのかな」

「変な方向に行ってるのかな」

「もっと普通にした方がいいのかな」

 

帰ってから、
何度も反芻した。

何回も。

何回も。

何回も。

 

でも、
その時、
私は少し不思議だった。

 

なぜなら、
私はちゃんと揺れているのに、

“感覚そのもの”

は、
消えていなかったから。

 

怖かった。

でも、
違和感も残っていた。

 

私は、
withchatで、
何か特別なことをしたいわけじゃなかった。

 

ただ、

「人は、
本当に自分で決めているのか」

を、
ずっと見ていた。

 

なぜ、
違和感があるのに合わせてしまうのか。

なぜ、
空虚なのに続けてしまうのか。

なぜ、
“自分で決めた”
と思っているのに、
どこか感覚が死んでいくのか。

 

私は、
そこを見たかった。

 

でもその時、
気づいた。

 

空気って、
圧力だけじゃない。

 

むしろ怖いのは、

「あなたのためを思って」

として来る時だった。

 

優しさ。

心配。

現実的なアドバイス。

社会性。

安全性。

 

人は、
そういう空気の中で、
少しずつ、
自分の感覚を手放していくことがある。

 

しかも怖いのは、
本人に悪意がないことだった。

 

みんな、
ちゃんと優しかった。

ちゃんと社会的だった。

ちゃんと現実を見ていた。

ちゃんと私のことを想ってくれた。

 

でも私は、
その優しさの中で、

“自分の感覚を、
社会向けに調整されていく感じ”

が、
少し苦しかった。


このままの私ではダメだって、
遠回しに言われている気がして。

 

特に、
「もっと分かりやすく」

という言葉が、
ずっと残った。

 

私は、
すぐ比喩を使う。
概念化してしまう。

構造を置く。

 

でもそれは、
分かりにくくしたいわけじゃない。


感覚からくる言葉だから。

感覚に触れたかった。

説明では届かない場所に、
触れたかった。

 

でも、
それを削っていくと、

“伝わる”

代わりに、

“自分の感覚”

まで、
少しずつ削れていく感じがした。

 

私は、
そこで止まった。

 

あの日、
私が守りたかったのは、

“正しさ”

じゃなかった。

 

“自分の感覚との一致”

だった。

 

もちろん、
withchatが、
これからどうなるかは分からない。

失敗するかもしれない。
何かリスクに巻き込まれるかもしれない。

大きなことは起こらず、
このまま静かに続いていくだけかもしれない。

 

でも私は、
少なくとも、

“空気に合わせて、
感覚を失った状態”

では、
続けたくなかった。

 

だから私は、
戻った。

 

「私がおかしいのかもしれない」

まで行って、

怖くなって、

揺れて、

何度も反芻して、

それでも、
もう一度、
自分の感覚を見に戻った。

 

そして私は、
内容を変えるんじゃなく、

さらに研いだ。

原液の度数を上げた。


たぶん私は、

“伝わるように薄める”

より、

“感覚の純度を保ったまま届ける”

を、
選びたかったんだと思う。


私は、
私の感覚からくる言葉たちを置いていくのが、

楽しくて、

嬉しくて、

「おら、わくわくすっぞ」で、

愛おしい。


withchatを、
色々思う人がいるのも分かる。

それでも、
私はこのまま活動を続けることに変わりはない。


たぶん、
withchatって、

“揺れない人”
になることじゃない。

 

揺れる。

怖くなる。

戻りたくなる。

受け入れられたくなる。

 

でもそのあと、

“自分の感覚へ戻る”

ことなんだと思う。

 

だから私は今、

「正しいか」

より、

“自分の感覚を、
どこまで明け渡さずにいられるか”

を、
見ている。



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