自分から退職の花束を受け取る人生
もし今、
交通事故にでもあって突然死んでしまったとしたら。
後悔はあると思う。
もっといろんな場所へ行きたかった。
もっとたくさんの言葉を置いておきたかった。
子どもの成長も、もっと見たかった。
それは間違いなくある。
でも天国で。
私は自分にこう言える気がする。
「まいまい、あほやったね(笑)」
「でも、お疲れさま」
「よく頑張ったね」
そう言って、自分に退職の花束を渡せると思う。
なんでだろう。
私は別に成功したわけじゃない。
お金持ちでもない。
有名になったわけでもない。
それなのに、
なぜか笑顔で花束だけは渡せる気がする。
私は昔から、
いつも浮いていた。
ずっと、立ち回りが下手だった。
会議で、
どう考えても変だなと思うことがある。
数字も合っている。
ロジックも合っている。
でも、そこじゃないだろうと思う。
思わず言ってしまう。
「これって、こうできないんですか?」
すると、
誰かに怒られるわけじゃない。
否定もされない。
ただ、空気だけが静かに変わる。
視線がすっと、
少し泳ぐ。
そして、
「それは分かるんですけどね」
が始まる。
「今のルールだと難しいから」
「今までそうやって対応してきましたから」
「それも考えないといけないですね」
「検討します」
返答は、いつも似たようなものだった。
役所でも同じだった。
保育園の制度について、
「なんで?」
と、
窓口で聞いたこともあった。
後日、知り合いから、
「窓口でそういう態度はやめてくれ」
注意されたこともあった。
私は何度も思った。
もう言わなくてもよかったのに。
黙っていればよかった。
そのまま流せばよかった。
適当に合わせればよかった。
実際、その方が楽だったと思う。
でも私には、
どうしても止まれない瞬間があった。
正義感じゃない。
勇気でもない。
むしろ怖かった。
言った瞬間、
みんなの目線が一気に自分へ向く。
視界がぐらぐら揺れる。
その後どうなるかも、
なんとなく分かっていた。
嫌われるのも嫌だった。
孤立するのも嫌だった。
だから毎回、
言ったあとに一人で反省会を開いていた。
「またやっちゃったな」
「言わなきゃよかったかな」
「もう少しうまくやれなかったかな」
「言い方悪かったかな」
「別の言い方がよかったかな」
何度もぐるぐる考えた。
それでも、
どうしても抑えることができなかった。
ここで動かなかったら、
私は私じゃなくなる。
突き動かされるような衝動。
言葉にすると大げさだけど、
身体の感覚としては、
ずっとそんな感じだった。
家族でも。
友人関係でも。
職場でも。
自分の本音を伝えると、
空気がすっと引く。
「つよいね」
「すごいね」
「よく言えるよね」
誉め言葉の形をしているけれど、
どこか距離のある響きだった。
「私はそこには立たない」
そんな宣言みたいに聞こえることもあった。
震えや迷いまで含めて肯定されたことは、
ほとんどなかった。
でも不思議なことに、
一番深いところでは、
私はずっと自分を見捨てていなかった。
否定しながらも。
疑いながらも。
不安になりながらも。
最後の最後には、
必ずこう言っていた。
「こわかったね」
「えらいね」
「ま、言ってよかったじゃん」
誰にも渡されなかった言葉を、
自分だけは自分に渡していた。
また、あほなことやってんな、
って少し笑いながら。
でも当時の私は、
これを長所だと思ったことは一度もなかった。
むしろ欠陥だと思っていた。
みんなが普通にできることが、
私にはできない。
「そういうものだから」
そう言って流すこと。
空気を読むこと。
波風を立てないこと。
みんなが納得しているなら、
私も納得したことにすること。
「どうしてみんなはできるんだろう」
不思議だった。
私はそれが下手だった。
言わない方が楽だと分かっているのに。
黙った方が得だと分かっているのに。
なぜかそこで止まれない。
私は長いこと、
自分がおかしいのかなと思っていた。
みんな上手に生きている。
みんな大人だ。
みんな空気を読める。
それなのに私は、
また余計なことを言ってしまう。
また一人で落ち込む。
また反省する。
また同じことを繰り返す。
何度も思った。
なんで私はやっちゃうんだろう。
なんでこんなにうまくできないんだろう。
今度こそちゃんとやろうと思った。
違和感を無視して。
できるだけ見ないようにして。
嫌われないようにして。
けどなぜか、
どれだけ評価されても。
どれだけ正しいと言われても。
そんな日々は、
どこか空っぽだった。
逆に、
うまくいかなかった日でも。
落ち込んだ日でも。
泣き崩れた日でも。
最後に、
「まぁ、やってよかったな」
そう思えた日は、
少しだけ静かだった。
長年そんな自分と付き合っていくうちに、
「もう、そうやっちゃうのが私なのかな」
そう思うようになった。
世の中には、
成功している人がたくさんいる。
お金もある。
地位もある。
評価もある。
なのに、
どこか満たされていない人もいる。
この違いは何なんだろう。
長いこと分からなかった。
でも今は、
少し違う場所が見えている。
社会的な成功は、
社会が求める「正解」を取りにいく
ゲームに近いように感じる時がある。
評価される。
怒られにくくなる。
生きやすくもなる。
でも、
なんとなく満たされない。
その違和感に気づいた人が、
瞑想やマインドフルネスに触れることも多いのではないかと思う。
でも、
どれだけ瞑想しても。
どれだけ贅沢しても。
どれだけ自分を満たそうとしても。
その溝が埋まる感じがしない人もいる。
私の体感では、
そこにあるのは幸せ不足じゃない。
もっと別のもの。
検索すると、
「こうすればうまくいきます」
誰かが正解をくれる。
悩みを相談しても、
「あなたは大丈夫ですよ」
誰かが安心させてくれる。
お買い物に行っても、
「レジ袋いりますか?」
誰かが責任を引き受けてくれる。
あたたかい。
やさしい。
居心地もいい。
でも私は、
そういう場面を見ると、
なぜか少し気持ち悪くなる。
なんというか、
ずっと離乳食を食べさせられている感じがする。
噛まなくていい。
考えなくていい。
決めなくていい。
「大丈夫だよ」
「そのままでいいよ」
「これが正解だよ」
やさしい。
でも、
ちょっと怖い。
これ、
育てているんだろうか。
それとも、
噛む力を奪っているんだろうか。
そんなことを思ってしまう。
今の社会って離乳食文化みたいだなと、
ちょっと笑ってしまうことがある。
私自身も何度も食べてきたからだ。
SNSでも。
テレビでも。
ネットでも。
分かりやすく整えられたものだけが並べられる。
違和感を持たなくていい。
不快にならなくていい。
困らなくていい。
判断しなくてもいい。
マザコンを育てる母親を見ているような
甘ったるい違和感。
それが悪いと言いたいわけじゃない。
私だって助けられたこともある。
でも、
もし。
ずっとそのままだったら。
自分で考える前に答えが来る。
自分で感じる前に解釈が来る。
自分で決める前に正解が来る。
その状態が何年も続いたら。
ある日、
理由の分からない空虚さだけが残る。
私はそんな気がしている。
みんな顔色をうかがっている。
みんな正解を探している。
恋愛でも。
仕事でも。
子育てでも。
人生でも。
「どうしたらいいですか?」
「何が正しいですか?」
「失敗しない方法はありますか?」
SNSにも専門家がいる。
本にも書いてある。
すぐに正解が手に入る。
だから安心する。
でも私は、
その安心が少し怖かった。
「分かった」
と思った瞬間に、
疑わないから。
「あ、そういうことか」
「なるほど」
「正解が分かった」
その瞬間、
問いは終わる。
違和感も終わる。
考えることも終わる。
正解を探すことが悪いんじゃない。
私もやる。
でも、
本当に正解だけが欲しいのか。
そこが時々、
わからなくなる。
足りないのは、
正解じゃないのかもしれない。
幸せでもなかった。
あの瞬間。
自分を置いていっても平気だったなら、
何度でも置いていったと思う。
空気を読まないといけない時。
顔色をうかがわないといけない時。
実際、
何度も置いていこうとした。
嫌われるのが怖かった。
でも、
最後だけは無理だった。
そこだけは、
どうしても身体が言うことを聞かなかった。
だからもう諦めた。
笑うしかなかった。
そんな自分でいるしかなかった。
何度置いていこうとしても、
結局やってしまう。
私という生き物は、
そこで止まるらしい。
今となっては思う。
幸せって、
何かを手に入れた状態じゃない。
お金でもない。
知識でもない。
評価でもない。
自己肯定感でもない。
理想の自分になることでもない。
自分を愛することでもない。
もっと静かなもの。
どんなに周りから置いていかれようとも。
自分だけは、
自分を置いていかなかった。
だから私は、
自分に退職の花束を渡せるのだと思う。
「まいまい、あほなことばっかりやってたね(笑)」
「怒られてたね」
「よくやったじゃん」
私はたぶん、
笑いながらその花束を受け取ると思う。
成功したからじゃない。
正しかったからでもない。
嫌われたからでもない。
ただ、
何度置いていこうとしても、
結局最後まで一緒にいた。
そんな自分と。
