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「無意識が見える」って世界が二重に見えること

「無意識が見える」

と言うと、
一気に怪しく見える。


けど、そんなに変なことなんだろうか。

 

「大丈夫」

と言われた。

でも、
友人の様子を見ると、
やっぱり大丈夫じゃない気がした。

 

「好きだよ」

と言われた。

でも、なぜか不安だった。


「じゃ、またね」
って、

いつものように別れただけなのに。

なんだかもう終わりのような気がする。


職場でも。

「検討します」

と言われた。

でも、その契約は決まらない気がした。


「どうせ断られるかな」

そんな感じがした。


誰もが日常で

「何となく」

を、
感じている。


ただ私は昔から、

少しだけそれが強かった。


みんなが

「優しい人だよ」

と言う人を、

どうしても素直に信じられなかった。


スネイプ先生みたいに、

態度はきついけれど、
ちゃんと勉強に付き合ってくれる先生が、

「あいつ嫌い」

と言われていたり。


笑顔で言葉は優しくて、
人気の先生なのに、

いざ相談すると

「今忙しい」

と流されたり。


世界の評価と、

自分の感じているものが一致しない。

 

その瞬間、

世界が二重に見える。

 

バグる。

 

私は何を見ているんだろう。

 

みんなは何を見ているんだろう。

 

でも、それを説明できなかった。

 

「なんか違う」

としか言えなかった。

 

「考えすぎじゃん」

「ひねくれてる」

「そのまま受け取ればいいのに」

 

そう言われることも多かった。

 

そのたびに、

やっぱり私の方がおかしいのかもしれないと思っていた。


浮かないように。

怒らせないように。

先に察しておくために。


場の温度を読むことが、

安全につながっていた。


普通は、どこを基準にしているんだろう。


言葉?

態度?

雰囲気?


私はずっと自分を守るために、

無意識に、

“状態”を見ていたのかもしれない。


言っていることより、やっていること。

 

笑顔より、目の奥。

 

言葉より、一貫性。

 

だから、ズレていたのかもしれない。

 

無意識を読もうとしたわけではなく、

ズレの理由を探していただけ。

 

ずっと見ていた。

 

なんで私はそう感じるんだろう。

なんでみんなはそう見えるんだろう。



ずっと見ていると、

少しずつ見えてきたものがあった。

 

人は言葉だけを見ているわけじゃない。

 

「大丈夫」

と言われたとき。

私たちは言葉だけを受け取っているわけではない。

 

声の温度。

呼吸の浅さ。

目線の揺れ。

返事までの間。

 

そういうものを、

たぶん同時に受け取っている。

 

でも不思議なことに、

私たちはその大半を説明できない。

 

説明できないから、

気のせいだと思う。

 

証拠もない。

理由も分からない。

 

だから、

言葉のほうを信じる。

 

「大丈夫って言ってたし」

「好きって言ってたし」

「優しい人だってみんな言うし」

 

そうやって、

違和感のほうを疑う。

 

私も長い間そうだった。

 

ただ、

あとから振り返ると、

違和感のほうが合っていたことも少なくなかった。

 

不安だった恋愛は終わった。

 

決まらないと思った案件は、

やっぱり決まらなかった。

 

優しいと言われていた人は、

静かに去っていった。

 

もちろん、

全部当たるわけではない。

 

勘が外れることもある。

思い込みもある。

 

でも、

何度も観察しているうちに気づいた。

 

あれは未来を当てていたわけじゃない。

 

人の心を読んでいたわけでもない。

 

もっと単純だった。

 

私は、

言葉と現実のズレを見ていた。

 

「好き」と言いながら会わない。

 

「大丈夫」と言いながら苦しそう。

 

「検討する」と言いながら決める気がない。

 

その小さな不一致に、

反応していただけだった。


たぶん、

私が無意識と呼んでいるものも、

そんな大げさな話ではない。


神秘的な力でも、

特別な才能でもない。


人間の脳は、

言葉以外の情報も大量に処理している。

 

それを非言語情報というらしい。


言葉で聞くと、

どこか専門的な話に聞こえる。


でも実際は、

誰もが毎日使っている。


「あ、この人今日は元気ないな」


「なんか怒ってる?」


「今は話しかけない方がよさそう」


こういう感覚も、

もともとは非言語情報から生まれている。


ただ、

その処理はあまりにも速い。

 

速すぎるから、

私たちは結果だけを受け取る。

 

「なんか変だな」

 

という感覚だけが残る。

 

無意識とは何か。

 

私はずっと、

その正体を知りたかった。


ここからさらに不思議なことがある。


同じ人間なのに、

その精度にはかなり差がある。

 

すぐ気づく人もいる。


まったく気づかない人もいる。


同じ場面を見ているはずなのに。

 

同じ会話を聞いているはずなのに。

 

なぜ、こんなに違うんだろう。

 

私はその差も知りたくなった。



最初は、

才能の差だと思っていた。

 

見える人と、

見えない人がいる。

 

そういう話なのかと思っていた。

 

でも、

どうもそれだけではなさそうだった。

 

観察していると、

気づく人にはいくつか共通点があった。

 

まず、

もともと少し拾いやすい人がいる。


これは、視力や聴力に似ているのかもしれない。


たとえば、絶対音感を持つ人。


ドの音を聞けば「ドだ」と分かる。

和音を聞けば、構成音が分かる。

それは特別な能力ではない。


音の階層を分解して認識する神経回路が、

日常的に使われているだけ。


同じメロディを聞いていても、

ただの音楽として聞く人と、

音階の構造として聞こえる人がいるように。

 

人の表情や空気感、

言葉にならない変化を、

自然と拾う人がいる。

 

これは気質のようなものだと思う。

 

ただ、

それだけでは説明できなかった。

 

感度が高そうなのに、

人を見る目がまったく育たない人もいた。

 

逆に、

最初は鈍そうなのに、

驚くほど人を見ている人もいた。

 

違いは何だろう。

 

見えてきたのは、

観測量だった。

 

どれだけ人を見てきたか。

 

どれだけ

「なんか変だな」

を放置しなかったか。

 

人は経験したものしか、

パターンとして持てない。

 

何度も見て、

何度も外して、

何度も考える。

 

そうやって、

少しずつ精度が上がっていく。


観測量に左右される。


「相手を見る」
より、

「自分を見て」
が強い人は、

この精度が上がりづらいのかもしれない。


そして、

もうひとつ。

 

たぶん一番大きいのがこれ。

 

感じている人は意外と多い。

 

でも、

説明できる人は少ない。

 

「なんか違う」

 

までは分かる。

 

でも、

何が違うのか分からない。

 

だから、

自分でも信じられなくなる。

 

気のせいかな。

 

考えすぎかな。

 

そうやって、

せっかく拾った違和感を捨ててしまう。

 

でも、

少しずつ分解してみる。

 

言葉と行動が一致していないのか。

 

約束の優先順位が低いのか。

 

目を合わせないのか。

 

話をすり替えているのか。

 

そうやって、

感覚を言葉にできるようになると、

違和感は

「気のせい」

ではなくなる。

 

私はたぶん、

この三つを無意識に繰り返していた。


少し拾いやすくて。

 

ずっと観察していて。

 

説明しようとしていた。

 

だから、

無意識が見えるように
見えただけなのかもしれない。


ここでまた別の疑問が出てくる。



もし本来は、

誰もが持っている機能なら。

 

なぜ今、

こんなにも差が広がっているんだろう。

 

なぜ、

言葉には敏感なのに、

状態には鈍くなっているんだろう。


その結果、

こんなことが起きる。


相手が遊びなのか本気なのか分からない。


契約に乗り気なのか、
断わる前提なのか読めない。


「そんな人だと思ってなかった」


人に失望する瞬間が増える。


言葉は聞いていた。

 

でも、

状態を見ていなかった。

 

あるいは、

見ていたのに信じなかった。

 

だから、

あとになって驚く。

 

「まさか」

と思う。

 

でも振り返ると、

小さな違和感は最初からあったりする。


その理由は、

能力ではなく、

私たちが生きている環境のほうにあるのかもしれなかった。



私はいつの頃からか、

言葉ばかり見るようになっていた。

 

SNSでも。

 

職場でも。

 

恋愛でも。

 

何を言ったか。

 

どんな言葉を使ったか。

 

そこばかり気にしていた。


「なんでそんなこと言うの?」


「その言い方きついんだけど」

 

「もっと優しく言えばいいのに」

 

そんなことばかり考えていた。

 

でも、

あるとき気づいた。

 

言葉は見ている。

 

でも、

何が起きているかは見ていなかった。

 

言葉と行動が一致しているか。

 

その関係が継続しているか。


本当に見たがいいのは、

そっちだったのかもしれない。

 

そういうものを見る機会は、

少しずつ減っている。

 

たとえばSNS。

 

一文だけが切り取られて拡散される。

 

前後の文脈は消える。

 

発言した人の状態も見えない。

 

残るのは言葉だけ。

 

たとえば職場。

 

「検討します」

 

「前向きに考えます」

 

「調整します」

 

言葉は返ってくる。

 

でも、

何も決まらない。

 

それでも私たちは、

返事があったことに安心する。

 

たとえば恋愛。

 

「好きだよ」

 

「会いたいよ」

 

言葉はある。

 

でも、

会う頻度は増えない。

 

約束は決まらない。

 

優先順位も上がらない。

 

それでも、

言葉があると期待してしまう。

 

私はいつからか、

違和感より言葉を採用するようになっていた。

 

なぜだろう。

 

たぶん、

言葉は分かりやすいからだ。

 

言葉は説明できる。

 

証拠にもなる。

 

他人とも共有できる。

 

でも、

違和感は説明しづらい。

 

「なんか変だった」

 

それだけでは、

根拠が弱いように感じる。


信じてもらえない。

 

だから私たちは、

違和感より言葉を採用する。

 

状態より説明を採用する。

 

すると、

少しずつ神経の向きが変わる。

 

相手を見るより、

言葉を見るようになる。

 

何が起きているかより、

何と言っているかを見るようになる。

 

そして、

使わない機能は鈍る。

 

見ていないわけじゃない。

 

拾っていないわけでもない。

 

ただ、

信じなくなる。

 

本当は最初から感じていたものを、

自分で無意識に却下するようになる。

 

私はずっと、

その不思議さが気になっていた。

 

なぜ、

同じものを見ているはずなのに、

こんなに差が開くのだろう。

 

その答えを探しているうちに、

もう一つ気づいたことがある。

 

もしかすると、

この精度の差は才能ではなく、

「どう生き延びてきたか」

の差なのかもしれない。



私は昔、

無意識が見える人と、

見えない人がいるのだと思っていた。

 

でも今は少し違う。

 

見えている人も、

意外と多い。

 

ただ、

信じていないだけなのかもしれない。

 

あるいは、

見る必要がなかっただけなのかもしれない。

 

私は違った。

 

浮かないように。

 

怒らせないように。

 

先に察しておくために。

 

場の温度を読むことが、

安全につながっていた。

 

今思えば、

人を見る力を鍛えようと思ったことは一度もない。

 

能力を身につけようとしたわけでもない。

 

ただ、

そうする必要があった。

 

だから見ていた。

 

相手の機嫌。

 

空気の変化。

 

言葉と行動のズレ。

 

視線の揺れ。

 

ほんの少しの違和感。

 

それを見落とすと、

困ることがあった。

 

だから、

自然と観測量が増えた。

 

自然と精度が上がった。

 

そして、

説明しようとした。

 

なぜそう感じるのか。

 

何が引っかかったのか。

 

どこがズレていたのか。

 

そうやって振り返るうちに、

感覚だったものが、

少しずつ言葉になっていった。

 

だから私は、

特別な能力があるわけではない。

 

少し拾いやすくて。

 

たくさん見てきて。

 

何度も言葉にしようとした。

 

それだけなのだと思う。

 

でも、

ここでまた一つ疑問が出てくる。

 

もし本来、

誰もが持っている機能なら。

 

なぜ私たちは、

それを使わなくなっていくのだろう。

 

なぜ、

「なんか変だな」

よりも、

説明のつく言葉を信じるようになるのだろう。

 

そして、

なぜ私は、

そこまでしてズレを見続けていたのだろう。



今なら少し分かる。

 

私は、

正しさを知りたかったわけじゃなかった。

 

安心したかった。

 

世界を理解したかった。

 

同じものを見ているはずなのに。

 

同じ言葉を聞いているはずなのに。

 

どうしてこんなに違うんだろう。

 

その理由が知りたかった。

 

だから見ていた。

 

相手を。

 

空気を。

 

関係性を。

 

言葉と現実のズレを。

 

でも、

もっと大きな勘違いもしていた。

 

私は長い間、

見えていることが問題だと思っていた。

 

みんなと違うところを見てしまうから、

浮くのだと思っていた。

 

だから、

見ないようにしたこともある。

 

気のせいにしようとしたこともある。

 

でも、

結局無理だった。

 

見えてしまうものは、

見えてしまう。

 

違和感は、

なかったことにできない。

 

むしろ、

無視しようとすると、

余計に大きくなる。

 

だから私は、

諦めて観察することにした。

 

なんでそう感じるのか。

 

何に反応しているのか。

 

本当にズレているのか。

 

それとも私の思い込みなのか。

 

何年も、

そんなことを繰り返していた。


無意識のうちに。

 

すると、

少しずつ分かってきた。

 

違和感というのは、

答えではない。

 

ただの通知だ。

 

「何かあるよ」

 

と知らせているだけ。

 

だから、

違和感を信じる必要もない。

 

でも、

無視する必要もない。

 

観察すればいい。

 

確かめればいい。

 

分解すればいい。

 

そうやって見ているうちに、

私が無意識と呼んでいたものの正体も、

少しずつ見えてきた。

 

それは、

未来予知ではなかった。

 

人の心を読む超能力でもなかった。

 

人間の脳が、

言葉になる前の情報を処理している。

 

ただそれだけのことだった。

 

でも、

その「ただそれだけ」が、

思っていたよりずっと大きかった。

 

なぜなら、

私たちの人生のほとんどは、

言葉になる前に決まっているからだ。



「好き」

と言いながら離れていく人がいる。

 

「俺はできる」

と言いながら動かない人がいる。

 

「変わりたい」

と言いながら同じ場所に留まり続ける人がいる。

 

本人も嘘をついているつもりはない。

 

その瞬間は本当にそう思っている。

 

でも、

現実は別の方向へ進んでいく。

 

私はそれが不思議だった。

 

どうしてそうなるんだろう。

 

言葉ではそう言っているのに。

 

本人もそう思っているのに。

 

なぜ結果は違うのだろう。

 

観察しているうちに、

少しずつ見えてきた。

 

人を動かしているのは、

言葉よりも深い場所にあるらしい。

 

頭で考えていること。

 

口で言っていること。

 

それよりも、

もっと下。

 

習慣。

 

反応。

 

恐れ。

 

安心。

 

信じている前提。

 

そういうものの方が、

ずっと強い。

 

たとえば、

「愛されたい」

と言っている人がいる。

 

でも、

本当に信じているのは

「どうせ私は大切にされない」

だったりする。

 

すると、

言葉では愛を求めながら、

現実では愛から逃げる。

 

「成功したい」

と言っている人がいる。

 

でも、

本当に信じているのは

「目立つと叩かれる」

だったりする。

 

すると、

言葉では前に進みたいと言いながら、

現実ではブレーキを踏み続ける。

 

本人も気づいていない。

 

だから苦しい。

 

だから、

「なんでそうなるの?」

になる。

 

私がずっと見ていたのは、

たぶんここだった。

 

言葉と現実のズレ。

 

そして、

そのズレを生み出している、

もっと深い場所。

 

無意識という言葉を使うと、

どこか神秘的に聞こえる。

 

でも実際は、

もっと生活に近い。

 

恋愛。

 

仕事。

 

人間関係。

 

毎日の選択。

 

その全部に、

静かに影響している。

 

だから私は、

人を見ることに興味があったわけではない。

 

無意識が見たいわけでもなかった。

 

ただ、

ずっと知りたかった。

 

人はなぜ、

自分でも分からない選択をするのだろう。

 

なぜ、

望んでいるはずなのに、

反対の方向へ進んでしまうのだろう。

 

なぜ、

同じパターンを繰り返すのだろう。

 

その答えを探していたら、

結果として、

無意識という領域にたどり着いただけだった。



だから私は、

無意識に興味があったわけではない。

 

「なんでこうなるのか」

に興味があった。

 

もっと言うと、

ズレに興味があった。

 

言葉と現実のズレ。

 

理想と行動のズレ。

 

評価と実態のズレ。

 

本人が思っている自分と、

周りから見えている自分のズレ。

 

なぜ、

そこにズレが生まれるのだろう。

 

なぜ、

本人ですら気づけないのだろう。

 

それが知りたかった。

 

だから、

恋愛の記事を書いていても。

 

仕事の話を書いていても。

 

人間関係の話を書いていても。

 

結局いつも、

同じところに戻ってくる。

 

「何が起きているんだろう」

 

という問いに。

 

私は、

人を裁きたいわけじゃない。

 

正しい人を見つけたいわけでもない。

 

嘘つきを暴きたいわけでもない。

 

ただ、

知りたい。

 

何が起きているのか。

 

なぜそうなるのか。

 


「無意識が見える」

という表現も、

本当は少し違うのかもしれない。

 

見えているのは無意識ではない。

 

結果だ。

 

無意識が作り出した結果。

 

行動。

 

選択。

 

態度。

 

関係性。

 

繰り返されるパターン。

 

そういうものを見ているうちに、

逆算するように、

その奥にあるものが見えてくる。

 

川の流れを見て、

上流を想像するように。

 

煙を見て、

火の場所を探すように。

 

私はずっと、

そんなことをしていた。

 

だから今でも、

「なんか変だな」

と思ったとき、

すぐに答えを出そうとはしない。

 

まず見る。

 

観察する。

 

待つ。

 

すると、

時間が教えてくれることがある。

 

違和感は、

答えじゃない。

 

でも、

入口にはなる。

 

そして、

私にとって無意識とは、

たぶんその入口のことなのだと思う。

 

世界が二重に見えていたあの感覚も。

 

ずっとバグだと思っていた違和感も。


私は安心したかったから見ていた。


今でも二重に見える。

 

みんなが信じている世界と、

私が信じている世界。

 

みんなが見ている世界と、

私が見ている世界。

 

それが、

時々ずれている。


例えば、

みんなが

「優しい人」

と言う。

 

でも私は、

その人が優しいとは思えない。

 

例えば、

みんなが

「ひどい人」

と言う。

 

でも私は、

その人の方が誠実に見える。


例えば、

みんなが

「成功している」

と言う。

 

でも私は、

どこか苦しそうに見える。


例えば、

みんなが

「失敗した」

と言う。

 

でも私は、

むしろその人が初めて自分の人生を生き始めたように見える。


だから、

同じ世界にいるはずなのに、

時々違う世界に住んでいるみたいになる。


みんなが見ている世界。

 

私が見ている世界。


どっちが正しいんだろう。


私だけ違うものを見ている気がする。


でもそれは本当にあるんだろうか。


私が見ている世界は本当に存在しているのか。


私はおかしいんだろうか。


気のせいなんだろうか。


振り返ってみれば、

私はずっと同じことをしていた。


世界のズレを見ていた。


言葉と現実のズレを見ていた。

 

人と人のズレを見ていた。

 

そして、

みんなが見ている世界と、

私が見ている世界の答え合わせをしていた。

 

その先で、

たどり着いた言葉が

「無意識」

だった。


その答え合わせを何十年もやってきた。



今でも、

私はよく立ち止まる。

 

恋愛の話を聞いていても。

 

会議に参加していても。

 

映画を観ていても。

 

電車に乗っていても。

 

ただ立っている人を見ていても。

 

「なんか変だな」

と思うことがある。

 

もちろん、

私の勘違いかもしれない。

 

思い込みかもしれない。

 

だから、

すぐには結論を出さない。

 

ただ、

なかったことにもできない。

 

見えてしまったものを、

無理に消すこともできない。

 

だから観察する。

 

時間を置く。

 

もう少し見る。

 

すると、

あとから分かることがある。

 

あの違和感は何だったのか。

 

なぜ引っかかったのか。

 

何がズレていたのか。

 

逆に、

何もズレていなかったのか。

 

そうやって、

私は何度も答え合わせをしてきた。

 

そして、

ひとつだけ分かったことがある。

 

違和感は、

敵じゃない。

 

疑うためのものでもない。

 

否定するためのものでもない。

 

ただの通知だ。

 

「少し見てみたら?」

 

そう教えてくれているだけ。

 

だから、

信じる必要もない。

 

でも、

捨てる必要もない。

 

もし、

あなたにも

「なんか違う」

があるなら。

 

すぐに正解を出さなくてもいい。

 

ただ、

なかったことにしないでおく。

 

それだけでいいのかもしれない。

 

私が長い時間をかけて見てきたものも、

たぶん、

そこから始まっていた。

 

世界が二重に見える。

 

あのバグのような感覚から。

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