「綺麗すぎる」と思った邦画の話
久しぶりに邦画を観た。
小道具とか、
家の空気とか、
地方の湿度とか、
生活の質感がちゃんとあった。
「ああ、こういう家あるよね」
って思える感じ。
台所とか、
実家の雑多さ、
おにぎりの重さ。
そういう“何気ない生活”の描写はすごく好きだった。
でも途中から、
何度かスン……って戻る瞬間があった。
たとえば、ボクシングシーン。
私は格闘技に詳しいわけじゃない。
お正月に親戚の男性陣が観てるのを、
料理運びながらチラ見する程度である。
でも、それでも思った。
——綺麗すぎる。
血もほとんど出ない。
ボコボコ感もない。
「絶対勝ってやる」みたいな、
生存本能の圧が薄い。
もちろん、
映画としてはちゃんと撮られてる。
エンドロールを見ると、
映像協力も入っているようだった。
たぶん、
“ちゃんとした試合シーン”
として成立させる判断があったんだと思う。
でも個人的には、
あそこは回想くらいの温度で、
もっと短くてもよかった気がした。
勝った試合を“見せる”より、
・取り乱す姿
・減量の空気
・ボロボロの手
・生活の疲れ
そういう方が、
この映画には合っていた気がした。
人が壊れる瞬間。
人生がズレる瞬間。
この映画の核だった気がする。
同じ種類の違和感を感じたのが、
「東大くらい行けます」
のくだり。
東大設定そのものじゃない。
“真正面から説明したこと”
に、少し作為を感じた。
本当に頭いい人って、
会話とか空気でなんとなく分かる。
「謙遜しない」=純粋という設計を選んだのかもしれない。
ただ、
真正面から説明されると、
急に「設定」が見える。
“人生”
ではなく、
“キャラクター”
になる。
母親が癌になったことで、
娘が「医者になる」と言い出す流れも、
少し似ていた。
綺麗なんだよね。
すごく。
でも、
人生って、
もっとぐちゃっとしてる。
逃げる人もいる。
考えない人もいる。
病院が嫌になる人もいる。
だから私は、
“映画の意味”が入るたびに、
少し戻される感じがした。
個人的に一番惜しかったのが、
“手紙”の扱いだった。
映画の中で、
ナズナは手紙を書く。
準備はする。
でも、
結局出さずに置いておく。
私はあれ、
すごく良かった。
言えないまま。
触れないまま。
でも、
そこにある。
あの温度。
なのに最後、
「私の手紙、誰か知ってる?」
って、
夫と娘に聞く場面がある。
もちろん、
強く問い詰める感じではない。
でも、
あそこで少し、
“説明”の方向へ動いた感じがした。
同じ冷め方が、形を変えて何度か現れた。
なんとなく思った。
この映画、時々『走れメロス』になる。
勝利。
夢。
才能。
努力。
感動。
もちろん、それも人生の一部だ。
でも私が好きだったのは、
同じ電車に乗ることとか、
おにぎりを食べることとか、
言えないまま置かれた手紙とか、
そういうものだった。
時々メロスってた。
そんな感覚に少し近かった。
個人的には、
みんな知ってる。
でも触れない。
そのまま生活だけ続く。
あの方が、
この映画には合っていた気がする。
なんというか、
江戸の長屋文化みたいな感じ。
全部言葉にしない。
でも、
気づいてる。
触れない優しさ。
沈黙のまま、
生活だけ流れていく感じ。
結局その電車内での出会いも、
すごく静かなものだった。
痴漢から助けてくれた。
でも、
そのあと特別な会話があるわけじゃない。
ただ、
同じ8:17の電車に乗る。
近くに立つ。
お互いに存在を感じている。
大きいイベントはない。
それだけ。
私は、
『人はなぜラブレターを書くのか』
少し分かった気がした。
「あなたはここにいた」
それを、
未来へ置いていく。
ラブレターって、
告白ではないのかもしれない。
何気ない日常。
普通の会話。
気まずい沈黙。
くすぐったい感覚。
同じ手すりを掴むだけで、少し緊張する。
近くに立つだけで、意識してしまう。
手を繋ぐなんて、もっと先の話だった頃の、
あの妙な距離感。
ああいうものだけで、
本当は人間って描ける。
でも今の時代、
それだけだと、
映画として成立させるのが難しいのかもしれない。
だから、
・東大
・世界一
・病気
・夢
・若い死
みたいな、
“分かりやすい強度”を乗せる。
たぶん、
企画としても、
作品としても、
今はそれが必要なんだと思う。
でも私は、
「何気ない日常を、どう生きるか」
の方が、
ずっと残った。
派手な勝利より、
帰り道、
なんでもない喧嘩、
普通のご飯。
そういうものの方が、
あとから人生に残る気がする。
この映画、
どこまで描くのか、
謎のドキドキを感じていた。
もし、
「お母さん、受かったよ!」
までやっていたら、
急に“完成された感動映画”になっていた気がする。
でも実際の人生って、
そんなに綺麗に終わらない。
受験の日を迎える。
母親はもういない。
それでも朝が来る。
駅まで送る。
会話する。
ナズナが、
「死ぬのなんて、カーテンの向こう側に行くくらい簡単なことだったらいいのに」
みたいなことを言う場面があった。
私は最初、
“死なんて、そのくらい日常の隣にある”
という意味かと思った。
でも実際は、
“それくらい簡単に、娘へ病気を伝えられたらいいのに”
という意味だった。
私は勝手に、
もっと存在的な話へ飛んでいた。
でも、たぶんこの映画は、
そういう映画ではない。
もっと生活の側にいる。
死を特別なものとして描くというより、
「それでも日常は続いていく」。
人生は、感動シーンで閉じない。
映画の日常の余韻を送る。
その心地よさの方が良かった。
