体験記事の正体|深海に落ちる理由 #1
withchatの記事を読んだ方から、こんなことをよく言われる。
「余韻が続きますよね」
「本当に体験記事ですよね」
「読んでたら、深いところに落ちました」
「説明じゃなくて、体験でした」
でも正直、
自分で「体験記事」だと書いておきながら、
あまりピンときていなかった(笑)
確かに静かになるし、余韻もある。
でも、解説しているつもりもないし、
癒そうとしているわけでもない。
ましてや、誰かを導こうともしていない。
ただ、普通に書いているだけだった。
それなのに、なぜか
「体験した」と言われる。
その理由が、今回やっと分かった。
表現がきれいだから、だと思っていた
最初は、言葉の問題だと思っていた。
日本語の余韻、
オノマトペの使い方、
比喩や、間の取り方。
だから、
「これは他の言語に翻訳したら崩れるだろう」
と思っていた。
実際、日本文学が他言語に翻訳されるとき、
日本語特有の感覚が失われる、
という内容の記事も書いている。
私が書いていたのは、感情じゃなかった
今回、はっきりしたことがある。
私が書いていたのは、
感情でも、気分でも、物語でもなかった。
思考や心理の“血液の流れ”だった。
・どこで思考が詰まるか
・どこで感情が固定されるか
・どこで「分かったつもり」になるか
・どこで自然に流れが戻るか
それを、
評価も、解釈も、処方もせずに、
順番だけで置いていた。
結果として、
思考と感情の循環構造を
可視化する記述になっていた。
多くの記事が扱っていないところ
多くの記事は、こう書かれる。
症状を書く
原因を書く
解決を書く
一方、私が書いていたのは、
滞留を書く
固着を書く
再循環を書く
しかも、
感情を混ぜず、
評価もせず、
処方箋を出さない。
だから、
依存が生まれない。
だから「体験記事」になる
私は、やり方を書いていない。
正解も書いていない。
「こうなれ」とも言っていない。
ただ、
詰まる
ループする
早く終わらせたくなる
でも終わらない
ちゃんと通ると、自然に抜ける
この通過順だけを残している。
読者は、
説明を読んで理解しているわけじゃない。
同じ順番を、内側でなぞっている。
だから、「分かった」では終わらない。
呼吸が深くなり、
抜けた、と身体が軽くなり、
腑に落ちた、と重心が静かに下がっていく。
人の内側で起きる
未完了プロセスを書いているからだ。
なぜ、深海に落ちるのか
深海というと、
感情が重い場所
暗い場所
特別な場所
そんなふうに思われがちだけど、
私の感覚では違う。
深海は、
未完了のものが沈殿している場所。
表層では処理できなかった思考、
途中で止めた問い、
早く終わらせた感情。
流れきらなかったものが、
下に溜まっているだけ。
私はそこに、
光を当てているわけでも、
掘り返しているわけでもない。
流れの向きを、元に戻しているだけ。
だから、深海に「落ちる」。
でもそれは、
沈むためじゃない。
循環が再開する位置が、
そこだっただけ。
体験を書こうとしていたわけじゃない
私は、
体験記事を書こうとしていたわけじゃない。
ただ、
自分の内側で起きている
詰まりや滞留を、
ごまかさずに通していただけ。
結果として、
・説明にならず
・感情論にもならず
・言語が変わっても崩れず
体験として残る文章になっていた。
この作業を繰り返すことで、
やっと「自分」という輪郭が見えてくる。
英語記事を出し始めた理由
もし「きれいな日本語」が主軸なら、
言語が変わった時点で壊れる。
オノマトペは
「感じを伝える道具」。
でも私は、
文体依存じゃない
日本語マジックじゃない
雰囲気商売じゃない
「感じ」が生まれる前後の構造を書いてる。
オノマトペは武器ではある。
でも、支柱ではない。
だから、
表現を削っても
言語を変えても
口調が変わっても
人は、
同じところで止まり、同じところで抜ける。
むしろ今後は、
日本語:深海・余韻・沈黙
英語:骨格・通過・断定
そんな役割分担もできる。
他の言語に翻訳しても同じ。
私の文章は、
表現が削れても、手応えが残る。
withchatがやっていること
深海に落ちるのは、
感情が重いからじゃない。
流れが、そこにしか残っていなかったから。
私が書いているのは、
人がひっかかって、止まって、
そこから抜けていくまでの
運動そのものだ。
今は、それが分かる。
だからこれからも、
私はたぶん同じように書く。
きれいに書こうとは、しない。
分かりやすくしようとも、しない。
ただ、
流れが詰まらずに通る順番が、
雪が解け、
川へと流れていく様がそのまま現れるように。
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