「正しさ」に縛られる人へ──肩書きで信頼を語る人が苦手な理由
今回の記事はこちらの続きになっております👇
前回お伝えした神社の宮司さんは、話の最後にこう言った。
「俺はもともと教師で、ここまで信頼を積み上げてきたからこそ、宮司になれた」
その瞬間、私の中の違和感センサーが反応した。
「はいはい。自分は今まで正しいことをしてきた。それを証明したいし、認めてもらいたいってことね」
(即・翻訳)
私、こういうの正直すごく苦手です。
もちろん、このセリフには「認めてほしい欲」だけじゃなく、もっと深い構造が潜んでいる。
それは、本人さえも──そして時に相手までも苦しめてしまうもの。
正しいことをしている(ように見える)
礼儀正しくて、経歴もちゃんとしていて、立派に見える。
それ自体は悪いことじゃない。
けど、その正しさって、誰が決めた正しさなんだろう?
正しさが“免罪符”みたいに使われた瞬間、距離が生まれる。
「正しいこと=人として信頼できる」という図式は、本当にそうなのだろうか。
教師だから、宮司だから、医者だから、社長だから…。
そういう肩書きや過去の実績だけで「自分の言うことは正しい」と信じている人を見ると、私は「その仕様、しんどそうだな」と思ってしまう。
正しさが押しつけに変わる
「俺はちゃんとしてる」
この言葉は、ときに裏返る。
「だから、お前も私の基準でちゃんとしろ」
言葉にせずとも、空気で伝わる。
それは安心ではなく、圧力だ。
しかも「その基準」って、本人が心から納得してるものとは限らない。
社会や常識に合わせた、借り物の正しさの場合も多い。
その正しさ、本当に必要?
信頼は、肩書きや過去の実績から生まれるんだろうか?
私はそうは思わない。
信頼って、いま目の前でどう関わるかでしか築けない。
過去の正しさをいくら並べても、態度が冷たければ信頼はゼロ。
型にはめた“正しいふるまい”だけでは、希薄で脆い信頼しか残らない。
自分が作った正しさに苦しむ人
皮肉なのは、そういう人自身もまた、その正しさに縛られていること。
「ちゃんとしてなきゃいけない」
「信頼を裏切っちゃいけない」
そうやって自分をがんじがらめにして、身動きが取れなくなっていく。
私はこれを「正しさの足かせ」と呼んでいる。
「俺も背負っているんだから、お前も背負え」
──これは自分の足かせを他人にも押しつけてしまうエゴの反応なのかもしれない。
正しさは“選べるもの”に
正しさは全部捨てろって話じゃない。
ただ「絶対の鎖」ではなく、選べるものにすればいい。
これは相手のため?それとも自分の体裁のため?
いま必要なのは「正しさ」より「思いやり」じゃない?
この正しさ以外に、もっと良い方法はない?
正しさを選べるようになったとき、人はやっと呼吸できる。
余裕が生まれ、そこからほんとの信頼が芽吹く。
あなたにとっての正しさとは?
正しさは、守りにもなるし、呪いにもなる。
社会の中で暴走したとき、それは戦争にまで姿を変える。
だから私はもう、「俺はちゃんとしてる」という空気に従わない。
勝手にちゃんとしていればいい。
私は私の「ちゃんと」を生きる。
いま、この瞬間にどう関わるか。
そこにしか、本当の信頼はないから。
あなたへ
ここまで読んで「わかる…」と心にざわつきを感じたなら、それはあなたの中にも“正しさの足かせ”が眠っているサインかもしれません。
もし「私も正しさに縛られてるかも」と思ったなら、安心してください。
それを自覚した瞬間から、足かせは少しずつほどけていきます。
私は記事やセッションを通して、その正しさの足かせを言葉にし、ほどいていくお手伝いをしています。
🌱 自分で市場と人生を育てていく思想をまとめています👇
▶「考えすぎじゃない?」と言われ続けてきた違和感
🪞ここは、正しさよりも、あなたの判断を澄ませる場所です。
もし読み終えたあと、
「理解した」よりも「どこかが動いた」と感じたなら。
それは、あなたの中の“前提”が揺れ始めたサインです。
withchatで扱うのは、意思決定を鈍らせている“前提構造”。
励ましも、ノウハウも扱いません。
あなたが戻らない位置に立つための時間です。
もしこの感覚に覚えがあるなら、ここから読むのがおすすめです。
