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“決めない人”ほど偉くなる理由|決めない知性①

「非効率。」

その言葉を見た瞬間、
私は少しだけ止まった。

怒ったわけじゃない。

でも、
“あれ?”と思った。


ある日、
取引先A社の営業担当から、
グループ会社であるB社を紹介された。


その流れで、
A社側から、
自社サービスの提案が来た。


ただ、
そのサービスは、
当時の当社のシステム上、
導入が難しい状態だった。


でも私は、
説明もなく断るのは違う気がした。

営業同士の関係性もある。
紹介してもらった経緯もある。

何より私は、

“ちゃんと向き合う”

という工程を、
飛ばしたくなかった。


だから、
企画側へ相談した。

事情を説明した上で、
先方への説明の場に同席してほしい、と。


返ってきたのは、
こんな言葉だった。


「非効率。次から考えて」


合理的なんだと思う。

見込みの薄い案件に時間を使わない。
工数を増やさない。
利益につながる動きに集中する。

会社として見れば、
むしろ自然な判断なのかもしれない。


実際、
そう考える会社は多いと思う。


でも私は、
その言葉に妙な違和感が残った。


たった30分。

その30分って、
本当に“無駄”なんだろうか、と。


私は営業職も、
営業支援も、
企画寄りの仕事も経験してきた。

だから、
企画側の感覚も分かる。

無駄な工数は減らしたい。
再現性を高めたい。
利益につながる動きに集中したい。

それは間違っていない。


でも同時に、
現場でしか見えないものもある。


「今回は難しくても、
この対応が次につながるかもしれない」

「断るとしても、
雑に扱わなかった記憶は残る」

「関係性って、
数字にならない場所で積み上がる」


もちろん、
それが必ず利益になるとは限らない。

むしろ、
何も返ってこないことの方が多いかもしれない。


でも私は、
そういう“すぐに回収できないもの”の中に、
会社の未来がある気がしていた。


だから、
「非効率」という言葉に、
少しだけ引っかかった。


でも今思えば、
私が本当に違和感を覚えていたのは、
その言葉そのものじゃなかった。


もっと別のものだった。


その場にいた誰も、
この判断に違和感を持っていないように見えたこと。


合理的。
普通。
効率的。


そういう空気の中で、
何かが“当たり前”として処理されていく。

そして、
その当たり前を、
誰も疑問に思っていない。


でも今なら分かる。


あの日、
私が怖かったのは――


人は、
自分で判断しているつもりで、

実は、
何も判断していないことがある、

ということだった。




第1章|「非効率」と言いながら、実行された会議

企画側の「非効率」という発言のあと。

私は企画側に、改めてこう伝えた。


「依頼したのは私です。
長期的な信頼のためにも、誠実に対応したいと思っています」


別に、綺麗ごとを言いたかったわけじゃない。

私はただ、説明もなく断ることが、長期的に見て会社にとって良い判断には思えなかった。


でも返ってきたのは、


「誠実って、哲学ですね。」


だった。


一見すると、柔らかくて知的な返答に見える。


ただ、この一言で、一気に空気が重くなった。


その時、営業課長である上司が言葉を発した。


「現場サイドで調整つかず、申し訳ありません。」


その一言で、
会議は決行される流れとなった。


私は今回のやりとりを見ながら、妙な違和感を覚えていた。


なぜなら、そもそも企画側への依頼は、上司自身が送っていたから。


もちろん、私が相談した。

私の発言では、企画側が動かないと判断したからだ。

だから、上司が企画側へ依頼してくれた。


企画側の「非効率」という返答が、上司に向けられた為、

「依頼したのは私です。」

と、私が発言したのだ。


私は、責任の矢印を曖昧にしたくなかった。


誰が依頼したのか。

何を守ろうとしたのか。

どの時間軸で判断したのか。


そこを、ぼかしたくなかった。


上司は悪気はなかったんだと思う。

むしろ、場を収めたかったんだと思う。


空気を悪くしないために。

摩擦を増やさないために。

組織の中で、波風を立てないために。


会社では、こういう“謝罪”がよく使われる。


本当は、誰かを責めたいわけじゃない。

でも、何かがズレたままだと空気が悪くなる。

だから、誰かが「申し訳ありません」と言う。


すると場は、なんとなく収まる。



私は途中で、少し怖くなっていた。


なぜならその瞬間、

「何が問題だったのか」

より、

「どう空気を収めるか」

の方が、優先され始めている気がしたからだ。


そして気づいた。


「なんでこんなに、言っていることと、やっていることが違うんだろう」


なぜなら「非効率」で切り捨てられるはずだった会議は、
実行される流れになったからだ。


しかも面白いことに、A社の提案は、導入検討のテーブルへ乗る流れに変わっていった。


当時導入していたシステム側が、
改定を行っており、

それまで難しかった接続が、技術的に可能になるかもしれない、ということが後に分かったからだ。


現実は、

最初に見えていた“合理性”

だけでは決まらなかった。


責められて終わるはずだった会議は、

結果として、前向きなやり取りへ変わっていった。



第2章|誰も悪人じゃないのに、判断だけが存在しない

ここまでのやり取りを見ると、

企画側も、
上司も、
別に間違ったことを言っているようには見えないと思う。


会社として見れば、
全部合理的だったのかもしれない。


無駄な工数は減らしたい。

利益につながる動きに集中したい。

前例化したくない。

空気を悪くしたくない。

摩擦を増やしたくない。


組織として考えれば、
自然なのだと思う。


私は、

「誰が悪い」

と言いたいわけじゃない。


でも私は、
ある違和感に気づき始めた。


この場で、

“判断している人”

が、
どこにも存在していなかった。


最初、私は企画側の

「非効率」

という言葉に違和感を持っていた。


でも気づいた。


本当に引っかかっていたのは、
その言葉そのものじゃなかった。


“非効率”

と言いながら、
実際には、
会議が止まっていなかったことだった。


本当に、

「非効率だから不要」

と判断したなら、

本来必要だったのは、


「今回は対応しません」


という決定だったはずだ。


でも実際には、
誰もその判断を引き受けなかった。


そこに存在していたのは、

“判断”

ではなく、

“評価”

だった。


(図①:言葉・意思・行動・責任の一致)


企画側は、
「非効率」と評価した。


でも、
会議には参加している。


もし本当に、
「不要」
と判断したなら、

会議そのものを止めればいい。


なのに、
止めない。


上司も同じだった。


「現場サイドで調整つかず、申し訳ありません。」


一見すると、
大人の対応に見える。


でも、
そこにも、

「私はこう判断します」

が存在していなかった。


もし本当に、上司として、

「非効率だからやらない」

と判断するなら、

営業担当が断れないなら、
上司自身が責任を持って断ればいい。


なのに実際には、
自分で企画側へ依頼している。


起きていたのは、


“断るべきだと思っているのに、
自分では断らない”


という状態だった。


企画側も同じだ。


本当に不要だと判断するなら、


「営業側でお断りしてください」


と、
明確に返せばいい。


でも、
誰もそこを引き受けない。


だから、
空気だけが流れていく。


(図②:発言と実際に起きていたこと)

そして、
私が一番怖かったのは、


「誠実って、哲学ですね。」


という言葉だった。


なぜならその瞬間、

“判断”

が、

“思索”

に変わったからだ。


本来その場で必要だったのは、


・今回どう対応するのか

・会社として何を守るのか

・短期合理を優先するのか

・長期信頼を優先するのか


そういう、

“決定”

だった。


でも、

「誠実とは何か」

という抽象論へ移動した瞬間、


“決めなくても、
深く考えている感じ”


が生まれる。


私はここで、
会話のレイヤー自体がズレ始めていることに気づいた。


(図③:レイヤーごとの違い)

営業側は、

「どう対応するか」

という、
行動レイヤーを見ていた。


企画側は、

「何を優先するか」

という、
判断基準レイヤーを見ていた。


そして、

「哲学ですね。」

という言葉は、

「世界をどう捉えるか」

という、
さらに上の抽象レイヤーへ移動していた。


(図④:どのレイヤーを見ていたか)


最初から、
見ている場所が違っていた。


行動の話をしている人。

合理性の話をしている人。

哲学の話をしている人。


それぞれ、
ちゃんと話している。


でも、
レイヤーがズレたままだから、
判断だけが進まない。


そして怖いのは、

本人たちに、
その自覚がないことだった。


真面目に。

知的に。

社会的に。

ちゃんと考えているつもりで、

実際には、

“何を守る判断なのか”

が、存在していない。


更に怖いのは、

今回の話が、たった30分の会議だったことだ。

新規事業でもない。

大型投資でもない。

経営判断でもない。

会議をするか、しないか。


それだけ。


やるか、やらないかだけ。



数十秒から、数分もあれば判断できる。


なのに、

非効率になり、

哲学になり、

申し訳ありませんになり、

空気調整になり、

結果として、

最終責任者は、

空気だった。


私は途中から、

何を決める話だったのかではなく、

誰も決めなくていい話に変わっている気がしていた。


もし、その程度のことですら判断主体が存在しないなら。

私たちは普段、

「判断している」

のではなく、

「判断している感じ」

を共有しているだけなのかもしれない。


そこにあったのは、

“哲学”ではなく、

“判断停止を、知的に見せる空気”

だった。


(図⑤:空気で進む会議で起きていたこと)

私は、
気づき始めていた。


この場で唯一、

“言葉”

“意思”

“行動”

“責任”

が、
一致していたのは、
営業側だけだった。


私は、

「説明なしで断るのは違うと思う」

と言った。


だから、
会議を設定した。


「依頼したのは私です」

と書いた。


言葉と、
意思と、
行動と、
責任が、
一本につながっていた。


でも他の言葉は違った。


「非効率」

と言いながら、
会議には参加する。


「申し訳ありません」

と言いながら、
判断主体を曖昧にする。


そして、
誰も決めないまま、
会議だけが進んでいく。


(図⑥:意思決定がある組織/空気で動く組織)

この状態が続くと、
組織は、

“議論しているのに、
何も決まらない”

状態になる。


誰も、
サボっているわけじゃない。


誰も、
悪人じゃない。


みんな、
ちゃんと社会的で、
ちゃんと大人で、
ちゃんと仕事をしている。


でもその中で、
少しずつ、

「私はこう判断する」

が、
消えていく。


その代わりに増えていくのが、


・非効率

・評価

・抽象化

・哲学

・調整

・申し訳ありません


そういう、

“空気を整える言葉”

だった。


そして気づけば、
会議は、

“意思決定の場”

ではなく、

“空気処理の場”

へ変わっていく。



第3章|なぜ“決めない人”が増えるのか

ここまで読んで、

「いや、でも現実はそんなもん」

と思った人もいるかもしれない。


会社には立場がある。

関係者がいる。

予算がある。

前例がある。

社内政治がある。

空気がある。


だから、決めるのは簡単ではない。


でも、ここで見なければいけないのは、

「決めるのが難しい」

という話ではない。


問題は、

“決めない方が、組織の中で安全になっている”

ことだ。


決める人は、必ずリスクを負う。


「今回はやりません」

と言えば、

「関係性を軽視した」

と言われるかもしれない。


「今回はやります」

と言えば、

「無駄な工数を増やした」

と言われるかもしれない。


どちらを選んでも、
誰かの不満は残る。


決める人は、

結果だけでなく、

不満の矢印まで引き受けることになる。


一方で、決めない人は安全だ。


「非効率ですね」

「一度持ち帰りましょう」

「もう少し検討した方がいいですね」

「人によって考え方が違いますよね」

「それは哲学ですね」


こう言っておけば、
会議には参加しているように見える。


ちゃんと考えている人にも見える。


でも、何も決めていない。


この立場が一番コスパがいい。


決めていないのに、

“ちゃんと関わった人”

として場に残れる。


判断していないのに、

“慎重な人”

として評価される。


責任を引き受けていないのに、

“大人な人”

として見られる。


これが、組織の中で静かに起きている。


決める人は、どこかで必ず外す。


未来は見えないからだ。


でも、決めない人は外さない。


なぜなら、
そもそも判断していないから。


これはかなり大きい。


決める人は、結果が悪ければ評価される。

「あの判断は違った」

「あの進め方は強引だった」

「もう少し慎重にできたんじゃないか」


あとからなら、
いくらでも言える。


でも、その瞬間に決めなかった人は、
失敗の主体にならない。


“判断していない”

から。


だから組織では、
少しずつ学習が起きる。


決めると損をする。


決めない方が安全。


正面から反対すると角が立つ。


裏で言えばいい。


これが積み重なると、
会議では本音が出なくなる。


その代わりに、
会議の外で言葉が増える。


「あれ、どうなんですかね」

「私はちょっと違うと思いましたけど」

「まあ、上が決めたことなんで」

「言っても仕方ないですしね」


陰口は、感情が悪いから生まれるのではない。


陰口は、

“責任を負わずに評価できる場所”

として生まれる。


正面で言えば、
自分の立場が見える。


反対なら、
反対した責任が生まれる。


代案を出せば、
その案の責任が生まれる。


でも裏で言えば、
何も背負わなくていい。


不満は出せる。

評価もできる。

でも責任は取らない。


こんなに安全な場所はない。


決めない組織では、
陰口の方が合理的になる。


賢い判断だ。


だから陰口文化はなくならない。


ここで一番怖いのは、
この構造が“悪い人”によって作られているわけではないことだ。


むしろ増えるのは、
感じのいい人。


空気が読める人。

波風を立てない人。

誰のことも強く否定しない人。

場を荒らさない人。


一見すると、
組織に必要な人に見える。


実際、必要でもある。


でも、その人たちが、

“最後に決めない”

まま評価され続けると、
組織は少しずつ止まっていく。


不思議なことに、
こういう人ほど、
組織の中で上に行きやすい。


敵を作らないからだ。


決めないから、
大きく外さない。


摩擦を起こさないから、
問題児に見えない。


責任を引き受けないから、
失敗の記録も残りにくい。


すると組織の中で、

“決めないけれど感じのいい人”

が、
偉い人として、

安全に、

量産されていく。


会社では、決めない人が、

“評価する側”

にどんどん回っていく。


偉くなった決めない人は、
決める人を評価する立場になる。

決める人は嫌われる。

だから、決める人は評価されない。


そして、
ここが、静かに起きている現実。


決める人は偉くなれない。


不思議な構造だ。


本来必要な、

決める人が、

決める立場になれないからだ。


そして、この構造は自然には治らない。


なぜなら、

決めない人が評価する側へ回り、

次の決めない人を評価するからだ。


組織は時間が経つほど、

決めない人比率が増える。

つまり、

自然治癒しない。


むしろ悪化する。


決めない人は悪人ではない。


むしろ、
優しいかもしれない。

感じがいいかもしれない。

でも、
最後に決める人ではない。


ここを間違えると、会社は泥船になる。


なぜなら、
決めない人が増えた組織では、

問題が起きても、
誰も設計を変えないからだ。


「次から気をつけましょう」

「共有を徹底しましょう」

「関係者で連携しましょう」

「再発防止に努めましょう」


無難で、
一見立派な、
優しい言葉で包まれる。


でも、それで何が変わったのか。


誰が決めたのか。


何をやめるのか。


どの仕組みを変えるのか。


そこが曖昧なままなら、
同じことはまた何度も起きる。


そしてまた、
誰かが頑張る。


誰かが謝る。


誰かが調整する。


誰かが裏で文句を言う。


でも、構造は変わらない。


これが、
日本企業の意思決定構造だ。


努力が足りないのではない。


むしろ逆。


みんな真面目にやっている。

みんな空気を読んでいる。

みんな責任感もある。

みんな自分なりに頑張っている。


それでも前に進まないのは、

“決める人のコスト”

が高すぎるから。


決める人は、
嫌われる。


一方で、
決めない人は、
安全に残る。


この評価構造が続く限り、
合理的な行動は一つになる。


決めないこと。


会議は増える。

議事録も増える。

検討事項も増える。

知的な言葉も増える。


でも、決断だけが増えない。



そのとき組織は、

動いているようで、
前に進まなくなる。



第4章|属人企業が生まれる評価構造

会社は、

“決めない人”

を評価しているだけではない。


実際には、

“火が出た後に動ける人”

を、高く評価している。


問題が起きる。


誰かが走る。


調整する。


謝る。


残業する。


そして、

「助かりました」

になる。


この流れそのものが、

“仕事ができる人”

として認識されやすい。


私はこれを、点OSと呼んでいる。


一方で、


そもそも問題が起きないように設計する人。


再発を止めようとする人。


責任線を整理する人。


属人化を減らそうとする人。


こういう人もいる。


私は面OSと呼んでいる。



面OSは、

不思議と評価されにくい。


なぜなら、

“うるさい人に見える”

からだ。


会社では、

起きた問題を消す必要があることは見える。

消した人は、優秀に見える。


でも、

起きてない問題を、

起こさないようにするのは優先順位が低い。


起きていない問題は見えない。


ここが、

点OS評価社会の怖さだと思っている。


以前、
ある設備系サービスの営業をしていた時のこと。


施設内へ設備を設置する案件があった。


営業としては、

まず施設所有者側から契約をとらないといけない。


当然、

契約の交渉がある。

現場ごとに条件も違う。

競合もいる。


営業側は、

・先方のヒアリング

・設置条件交渉

・設置業者への引継ぎ

まで含めて考えることになる。


特に今回は、
施設所有者が設置後の利用者によるトラブルを懸念していた。


だから、

先方の懸念が何なのか。

どうやって解消するのか。

設置業者にどう共有するのか。

かなり気にしながら調整していた。


営業としては、

まず、

“置かせてもらえないと始まらない”

からだ。

 

そして実際、

設置自体は問題なく完了した。


ところが後日、

自社の管理部署からクレームが来た。


「利用者から、
場所が分かりにくいという声が来ています」


内容を聞くと、


“施設内のどこにあるのか分かりにくい”


という話だった。


でも私は、

かなり驚いた。


共有している資料で、

設置業者は迷っていない。


地図上では位置も表示される。


そこまで複雑な施設でもない。


そもそも共有している資料をもって、

管理部署が利用者視点で修正するものだと思っていたからだ。


だから私は、

正直こう思った。


「いや、そこって、
運用設計側で改善する話じゃない?」


営業の第一の任務は契約をとること。


そこから先は、
運用設計の話でもあった。


でも実際には、


「営業がちゃんとやってください」


になった。


構造改善ではなく、

現場へ押し返された。


その時、

かなり混乱した。


営業って、

どこまでやる前提なんだろう、と。


もちろん私は反論した。


「いや、
そこは運用設計として整理した方が良くないですか?」


「同じこと、また起きません?」


「営業個人へ依存するのは、限界があります」


もちろん上司にも相談した。


でも返ってきたのは、同じだった。


「営業がやればいい」


現場実態と噛み合っていない。


“再発を止める設計”


について、
議論されることはなかった。


「こういうクレームがありました」

と、会議で共有はされた。


ただ、
そこで起きたのは、

 

「なるほど。じゃ、次から皆様気をつけてください」

 

だけだった。


私は唖然とした。


問題自体は共有されている。

 

会議もしている。

 

みんな、ちゃんと聞いている。

 

でも、

 

“誰が、どの設計を、どう変えるのか”

 

だけが、存在していなかったからだ。


そこで行われていたのは、

 

“改善”

ではなく、

 

“注意力の追加”

 

だけだった。

 

もちろん、

短期的には、それでも回る。

 

人が頑張れば、一旦は防げる。

 

でも、それは、

設計が改善されたわけではない。

 

“人間側へ、さらに注意を要求しただけ”

だ。


そしてこれは、

かなり合理的でもある。

 

システムを変えなくていい。

 

責任線を整理しなくていい。

 

運用を変えなくていい。

 

予算もいらない。

 

工数も少ない。

 

一方で、

「共有しました」

「注意喚起しました」

という形は残る。

 

短期合理だけで見れば、

“気をつけて下さい”

は、かなり優秀な対応でもある。


感じもいい。


だから組織は、

そこへ流れていく。

 

でもその結果、

設計ではなく、

人間側の注意力だけが、

永遠に増え続ける。

 

人は、必ずまた忘れる。

 

するとまた、

 

「共有されていなかった」

「認識不足だった」

「気をつけましょう」

 

が繰り返される。

 

でも、

構造は変わらない。


ここに、

点OS評価社会の本質が出ている。


本来見るべきだったのは、


「なぜ利用者が迷ったのか」


ではなく、


「なぜそのズレが、
現場個人へ返される構造になっているのか」


「その責任は、
誰が、どうやって、実行するのか」


その設計を考えることだった。


私は、責任を負いたくないわけではない。

設計の提案をしただけだった。


もちろん、

“うるさい人”

として、処理された。


でも実際、
多くの人は、
そこで止まらないんだと思う。


空気を乱さず、
謝って終わる。


その方が、
安全だからだ。


会社は、

そこを見ない。


営業が吸収すれば、

一旦回る。


ここが重要だ。


属人企業は、

問題を解決しているのではない。


“気づける人”

へ、

問題を吸収させている。


そして吸収材は、消耗したら交換される。



第5章|疲弊するのに上がらない賃金

短期で見ると、
点OSはかなり合理的だ。


問題が起きる。


誰かが対応する。


数字を戻す。


空気を整える。


今期を守る。


一旦、回る。


だから会社は、
その構造を続けてしまう。


でも私は、

ここに一番大きな問題があると思っている。


誰も、

長期で見ていない。


そして長期で見ると、

この構造、

誰も得していない。


決める人は、

疲弊して消える。


一方で、

決めない人は残る。


でも、

設計は変えない。


すると、

問題は再発する。


また誰かが頑張る。


また現場が吸収する。


また空気で乗り切る。


でも構造は変わらない。


だから全員、

永遠に疲れる。


ここで怖いのは、

みんな真面目だということだ。


サボっているわけじゃない。


みんな責任感がある。


空気も読んでいる。


ちゃんと働いている。


だから、

余計に止まらない。


本来なら、

「この設計、おかしくない?」

となるはずの場所でも、

誰かが吸収してしまう。


すると会社は、

学習しなくなる。


だから多くの会社は、

“壊れる直前”

まで動かない。


動くのは、

炎上した時だ。


その時だけは、

会社全体が一気に動き出す。


緊急会議。


再発防止。


全社共有。


特別対応。


外部コンサル。


大量の資料。


でも、

本当はその前から、

現場ではずっと小さく壊れていた。


“回っている”

ように見えるだけ。


実際には、

疲弊して回している人がいるだけ。


しかもその人は、

気づける人だったりする。


責任感が強い人。


現場を見れる人。


放置できない人。


だから吸収してしまう。


そして、

吸収できる人ほど、

仕事が増える。


見えるから。


やってしまうから。


すると今度は、

“できる人”

へ仕事が集中し始める。


属人化だ。


でも会社は、

それを能力だと思う。


「あの人がいれば回る」


「対応力がある」


「責任感が強い」


もちろん、

本人の能力もあると思う。


でも実際には、

設計不全を、

人間で吸収しているだけのことも多い。


だから、

人が辞めた瞬間、

急に崩壊する。


引き継げない。


回らない。


誰も分からない。


属人化とは、

優秀な人がいる状態ではない。


“設計されていない状態”

だ。


でも点OSでは、
その状態が評価される。


なぜなら、
今期は回るから。


短期では合理的だから。


すると最後に残るのは、


誰が決めるのか。


誰が責任を負うのか。


どこで摩擦を引き受けるのか。


“意思決定”

だけになる。


でも今の日本企業は、

長年、

そこを削り続けてきた。


決める人は偉くない。


一方で、

決めない人は大量に残っている。


設計の改善は、あまり見込めない。


その時組織は、

動いているようで、

前に進まなくなる。


誰かが得しているなら、

まだ仕方ない。


でも実際には、

誰も得していない。


現場は疲弊する。


管理側も疲弊する。


会社も利益が残らない。


賃金も上がらない。


人も辞める。


若手も育たない。


会議だけが増える。


なのに、

構造だけは変わらない。


だから私は、

今の日本って、

“努力不足”

ではないと思っている。


努力で、

構造問題を、

延命し続けている。



最終章|設計が変わらない限り、戻る

ここまで読んで、

「じゃあ、どうすればいいんだろう」

と思った人もいるかもしれない。


でも私は、

ここで簡単に、

「もっと主体的になろう」

とか、

「自分で決めよう」

とは言いたくない。


なぜなら、

問題は個人の意識だけではないからだ。


設計が、

そうなっている。


決める人は消える。


空気を読む人が残る。


火消しが評価される。


設計を変える人は、

“うるさい人”

になる。


その構造のままなら、

一瞬変わっても、

また戻る。


今の日本社会って、

能力不足というより、

“意思決定の設計不全”

なんじゃないかと思っている。


しかも、

その状態でも、

社会は、

静かに、

普通に回っている。


だから、

問題が見えにくい。


でも実際には、

現場で、

誰かがずっと吸収している。


誰かが、

気づいている。


誰かが、

疲弊している。


誰かが、

空気を壊さないように、

黙っている。


そして、

その上に、

“正常運転”

が成り立っている。


人は、

自分で判断しているつもりで、

実は、

“判断した空気”

を、

自分の意思だと思い込むことがある。


「普通はこうだから」


「みんなそうしてるから」


「大人だから」


「現実的に考えて」


その言葉の中に、

本当に自分の意思があるのか、

分からなくなることがある。


しかもそれは、

本人に悪意があるわけではない。


むしろ、

真面目な人ほど、

そうなる。


空気を読む。


責任感がある。


頑張る。


周囲に合わせる。


だから、

社会は回る。


でも、

回ることと、

前に進むことは、

別だ。


私は、

この数年、

ずっとその感覚を見ていた。


頑張っているのに、

疲弊していく人。


真面目なのに、

報われない人。


会議は増えているのに、

何も決まらない会社。


改善しているはずなのに、

同じ問題を繰り返す組織。


そして、

みんな薄々、

気づいている。


でも、

止まれない。


止め方が、

分からない。


その構造自体が、

“正しい働き方”

として、

長年インストールされてきたからだ。


だから私は、

本当に必要なのは、

「もっと頑張ること」

ではないと思っている。


必要なのは、


誰が決めるのか。


何を守るのか。


どこで責任を負うのか。


どこを、

設計として変えるのか。


そこを、

曖昧にしないことだ。


決めることには、

摩擦がある。


責任もある。


嫌われることもある。


でも、

そこから逃げ続けた先にあるのが、


今の日本の停滞ではないかと思っている。


そして、

もし今、


「ちゃんと働いているのに、なぜか疲れる」


「会議ばかり増えて、何も変わらない」


「頑張っているのに、前に進んでいる感じがしない」


そんな感覚があるなら。


あなたは今、

“決める側”

にいるだろうか。


それとも、

“空気を整える言葉”

を積み重ねているだけだろうか。


AIに任せたいのは分析ではない|決めない知性②


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