苫米地理論を読む #2――認知の抽象度と独我論の関係
苫米地博士の潜在ポテンシャル理論(NDU論文)の読解の続きです。
論文は苫米地博士のブログサイトで閲覧できます。
前回の記事では、Ego制御方程式における「T(認知的射程時間)」の意味を読み解きました。
未来へとTを延ばすことによって認知(=世界把握)が未来に最適化される構造を考えました。
その後、AIを使って論文の読解を進める中で、空と利他性の関係についての洞察を得ることができました。それについて記事を書きたいのですが、その前段階として定理2と定理3を踏まえる必要があります。そのためにこの記事を書くことにしました。
定理1で認知の最適軌道が沿うEgo制御方程式が示されましたが、定理2では他者との共有認知(社会的認知)の軌道が同様に共有安定領域(Shared-TCZ)に収束すること、そして定理3では制御方程式に抽象度が組み込まれ、共有安定領域が低次の共有領域と高次の統合された共有領域の2つの様相で表現されることが示されています。
この論理の中で利他性が単に表層的なものではなく、進化における最適性として示されるのですが、その理解の基盤となるのが認知と抽象度の関係であると個人的に捉えています。
「抽象度」というのは苫米地博士のコーチングにおいて重要な概念ですが、私はあまりよくわかっていませんでした。それが今回、定理2と定理3を読み解くことで自分なりに理解を深めることができました。
私が捉えたのは「そもそも認知には抽象度が備わっている」ということです。特定の認知に抽象度が備わっているのではなく、どんな認知にも抽象度は備わっているということです。
定理2の数式
それでは定理2を見ていくことにしましょう。
まず拡張された制御方程式から。
定理2におけるEgo制御方程式
π_i = arg min_{u_i(t)} ∫₀ᵀ ( V_i(x_i(t), t) + Σ_j γ_ij S_ij(x_i, x_j) ) dt
Σ_j γ_ij S_ij(x_i, x_j)が、定理2で新たに加わった項です。
以下はAIによる項目の概説です。
Σ_j
「全ての他の主体j(j≠iである全てのj)について、以下の値を足し上げる」という意味です。つまり、主体iは、自分以外の全ての主体との関係を同時に考慮しているということです。
γ_ij(結合係数・社会的結合の強度)
主体jが主体iの認知軌道に、どれほど「重み」を持つかを決める係数です。
γ_ij が大きいほど、主体jのことを「強く気にかけている、影響を受けている」ということになります。
S_ij(x_i, x_j)(主体間の認知状態の距離)
主体iの認知状態x_iと、主体jの認知状態x_jがどれだけ「離れているか」を測る関数です。
距離が大きいほど(二人の認知状態が大きく異なるほど)、Sは大きくなります。距離が0に近いほど(二人の認知状態が似ているほど)、Sは0に近くなります。
式全体の意味
では、以上の要素を組み合わせると、定理2の制御方程式は何を言っているのことになるのでしょうか。
主体iは、以下の二つを同時に最小化しようとしています。
自分自身の認知的不快感・不安定性(V_i)
他者との認知状態の距離(Σ_j γ_ij S_ij)
つまり、主体iは「自分が安定すること」と「他者と整合すること」を同時に追い求めているということです。
この制御方程式を前提として、共有トータル・コンフォートゾーン(共有TCZ、TCZ_η^shared)が 定義されます。
TCZ_η^shared = { x ∈ ∏_i TCZ_i | Share(x) ≥ η }
共有TCZが成立するためには、以下の両方が満たされなければなりません。
全ての主体が自分自身のTCZ_i内にいる(個人的安定)
主体間の整合度がη以上である(社会的整合)
他者の認知を把握できるのか?
ここで重要な問いが生じます。
定理2の制御方程式では、主体iとは別の主体jの認知状態x_jが記述されていますが、果たして主体iはそれを把握することができるのか、というものです。
言い換えれば、自分以外の認知状態を把握できるのか、という問いです。
定理1におけるEgo制御方程式はある種の独我論的構造でした。
主体の認知状態xが可能世界の集合Wでの現在地を示し、認知=世界(把握)という構造です。
ここで他者(主体j)が存在するとしても、それは主体の認知の中に含まれているはずです。
しかし、定理2の制御方程式では主体iとは別の主体の認知状態(x_j)が記述されています。いわば第三者的な視点から記述されているわけですが、定理1の独我論的な認知構造でそのようなことが可能なのでしょうか。
抽象度が導入された定理3
この問題を解く鍵は定理3で導入される抽象度にあります。
定理3の制御方程式
π_i = arg min_{u_i(t)} ∫₀ᵀ ( V_i(x_i(t), t) + Σ_j γ_ij S_ij(x_i, x_j) + η_i A(x_i(t)) ) dt
定理2との違いは、最後の項 η_i A(x_i(t)) が加わったことです。
A(x_i(t))(抽象ポテンシャル)
Aとは、主体iの認知状態xが、「どれだけ低い抽象度に留まっているか」を測る関数です。
別の言い方をすれば、「より高い抽象度へ向かうまでの距離」を数値化したものになります。
A(x_i(t))が大きいほど、その認知状態が低い抽象度に留まっているということです。そして、最高の抽象度(全てを包摂する最小上界LUB)に達したときは、A = 0になります。
η_i(抽象バランスパラメータ)
η_i は、主体iが「抽象度を高めることにどれだけの『コスト』を払うか」を調整する係数です。
ここで重要なのは、A(x_i(t))という項が単独で機能しているのではなく、η_i という係数と組み合わされているということです。
言い換えれば、その主体が「より多くの人を理解したい」「より広い世界を認識したい」という動機の強さを示しています。いわば世界理解への欲求度合いです。
η_iが大きいとき、その主体にとって「世界理解」が非常に重要だということになります。その場合、arg minの制御方程式では、A(x_i(t))を小さくするために、より高い抽象度へと向かう必然性が強まります。
逆にη_iが小さいとき、その主体にとって「世界理解」はそれほど重要ではありません。その場合、より低い抽象度に留まっていても、arg minの制御方程式上、大きなペナルティが生じません。
定理3における三つの同時最適化
定理3の制御方程式を見ると、主体iは「三つの異なる目標を同時に最小化」していることになります。
第一の目標:V_i(x_i(t), t)(個人的安定性)
定理1と同じ。自分自身の不快感や不安定性を最小にする。
第二の目標:Σ_j γ_ij S_ij(x_i, x_j)(社会的整合性)
定理2で加わったもの。他者との認知状態の距離を最小にする。
第三の目標:η_i A(x_i(t))(世界理解への欲求に基づく抽象度上昇)
定理3で新たに加わったもの。主体のη_iという個性に応じて、より高い抽象度へ向かうことを求める。
これは、「自分の『世界理解への欲求の強さ』に応じて、世界をより広く認識する」ことを求めています。
すべての認知に抽象度が備わっている
さて、定理3で抽象度が導入されたおかげで先ほどの問い「主体iは他者の認知状態(X_j)を把握できるのか」を解くことができます。
簡潔に述べれば「一定以上の抽象度を持つ主体は、自分自身を他者と同等に客観的に把握する認知構造を持つ」ということです。
一般的な認知のイメージと対比すると下図のようになります。


一般的な認知のイメージが、自分(i)を視点としてそれ以外の世界(他者jを含む)を照射するのに対し、抽象度を伴う認知では自分の上方の視点から自分も他者も含めた世界を照射するというイメージです。
この構造によって、定理2で他者の認知状態を把握できることが説明されます。定理2では明示されていなくても、認知の視点は自分と他者を両方含みうる位置にあるということです。
また定理1のEgo制御方程式においてもこの抽象度は潜在していると考えられるます。i=自分だとしても、その自分の可能世界の軌道を把握すること自体、認知の視点が自己から離れた場所にあることを示唆しているからです。
そして、定理1の制御方程式を「独我論的」と表現しましたが、この構造を前提とするとそうではないということにもなります。そもそも認知の対象として「自己」というものを認識している時点で、「自己」は認知の構成要素の一つであり、「自己」以外の構成要素が存在することを示すからです。
本当の独我論では、自分以外に何も見出さないので、逆に自分も見出せないはずです。「自分=認知の視点」という構造では自分は認知の視野に含まれないからです。
社会的認知と個人的認知のパラレルな階層性
このように認知に不可欠の要素して抽象度が備わっていると考えると、社会的認知(共有TCZに収束する認知)についても理解を深めることができます。
個人を起点として考えた時、社会的認知というものはイメージしにくいものです。「認知=個人」という信念が強固なため、個人を超えた認知というものは実体がないものと感じられます。
しかし、個人よりも低い抽象度での認知を考えた時、それが存在することの確信が高まります。
絶対的に感じられる個人の認知も、身体を構成する目や神経、脳などの働きを要素として構成されたものではないか?そう考えると個人的認知自体が高い抽象度の認知であるみなすことができます。
個人的認知の抽象度<社会的認知の抽象度
身体器官認知の抽象度<個人的認知の抽象度
身体器官の認知というとイメージしにくいですが、各器官なりに把握した情報ということができるでしょう。
いずれにしろ、個人的な認知を起点とするとそれらはまさに感覚というべきもので、認知とは程遠いものと感じられますが、それと同じ隔たりが個人的認知と社会的認知との間でもあるのでないでしょうか。
Ego制御方程式で自分を理解する
空と利他性について論じるための前段階として、定理2と定理3でのEgo制御方程式での抽象度についてみてきました。
この記事を書くにあたり感じたのは、数式を理解することの難しさです。AIを使いながら読み解いていますが、一度で理解することはままならず、行ったり来たりを繰り返しています。
この難しさは制御方程式のS_ij(x_i, x_j)として表すことができるでしょう。私をiとし、論文の著者である苫米地博士をjとしたときに、私の論文数理の理解度はまさに両者の認知の隔たりS_ij(x_i, x_j)となります。
私の中で、この隔たりの重みγ_ijが小さくなかったために、それを最小化するためにこの記事を書いたと理解できます。
そして、私が自分自身の認知と行為について、自分という視点から離れて考えることができるのは、これまでみてきたように私の認知もある程度の抽象度があるからだと解釈できます。
論文では、抽象度は単なるパラメーターではなく、空をトップ要素に持つ包摂半順序束における階層性の度合いであるされています。
この抽象度の極限としての空から利他性が導かれることについては別の記事で書きたいと思います。
