61)極上の美〜アーンとヘンデルの歌
クラシックでもっとも美しい歌を挙げろと言われたら、私の中に即座に浮かぶ二つの音楽がある。
L’heure exquise Raynaldo Hahn
(恍惚のとき)
Lascia ch'io pianga. George Frideric Handel
(私を泣かせてください)
作曲家も、様式も、そして時代もまったく異なるこの二つの歌が、私にとっては心から愛して止まない音楽である。
とは言え、別に「秘曲」でも何でもない。どちらも有名な曲だから、YouTubeで検索すれば、どちらもさまざまな歌手の演奏を、自由にチョイスして聴くことができる。
とりわけヘンデルの「私を泣かせてください」は、一時ちょっとしたブームであって、NHK連続テレビドラマなど色々なテレビドラマの挿入歌としでも使われたし、映画“Farinelli”で使われたということも、この曲が広く知られる一因になっているのかもしれない。
さらに、サラ・ブライトマンなどのいわゆる「クラシカル・クロスオーバー」といわれる、クラシックとポップスの中間に位置するようなタイプの歌手にも取り上げられて一層人気が広がったという印象もある。
その点で、「恍惚のとき」の方はもう少し地味かもしれないが、それでも
フランス系の歌曲をレパートリーにしている女性歌手を中心にして、夥しい数の録音があるはずだ。そういう意味では「今さらそんな曲、常識的すぎて話すことなどない」と、いつもの音楽紹介の時と同様、よくご存知のクラシック・ファンから鼻で笑われるかもしれない。
もっとも最近の「私の好きな音楽シリーズ」では前回の「初期バロック」を除けばこういう「超有名曲」を取り上げ続けているので、そのような眼で見られることは覚悟してはいるのだが、やはり書くからには多少なりとも言いたいことがあるから書くという面もある。
まず、アーンの「恍惚のとき」についてだが、この曲はなんと作曲者が17歳の時に発表した歌曲集のなかの一曲だというのだから、初めてそのことを知った時は実に驚いたものだ。
元来、いくら天才揃いのクラシック作曲家の世界でも、10代で書いた作品がそのまま後世の評価に耐えて残っているという例は決して多くない。
天才としての逸話の博物館のような、かのモーツァルトは例外として、他に私がパッと思いつくのは「交響曲ハ長調」を17歳の時に書いたというビゼーと、「真夏の夜の夢 序曲」を同じく17歳の時に作ったというメンデルスゾーンの名がまず浮かぶ。
どちらも天才的ともいえる素晴らしい作品だが、やはり17歳という年齢を反映してか、音楽は非常に明るく、かつ瑞々しい若さに溢れているように、私には聞こえる。
特に、完全な個人的印象ではあるが「真夏の夜の夢 序曲」は子供らしい
夢、おしゃべり、底抜けの大騒ぎといった振る舞いが音楽によく表されていて、まるで作曲者と一緒に夏の一夜に楽しい夢を見ている気持ちにさせられる。
その点で、このアーンによる「恍惚のとき」はまったく異質と言えるように私には思える。
とにかく、老成しているとは言わないが、私にはこの曲は完全な「大人の音楽」に聞こえるのだ。
アーンという人はヴェネズエラ生まれで、幼少期に家族とともにパリへ移住し、後にパリ音楽院で学んだ。父親が外交官だったためである。
そういう意味では、文化的にはほとんどフランス人として育ったと言ってよい環境にあった。
ただ、その音楽たるやー。
「恍惚のとき」ーこのタイトルからして、すでに「大人の世界」です。
私に言わせれば、この「恍惚」という題名そのものがすでに大人の感性です。子供にも心地よさを感じる経験はあるでしょう。しかし、その感覚を客観的に見つめ、「恍惚」という言葉に結晶化するためには、ある種の成熟が必要ではないでしょうか。
要するに、こういう快感に自覚的でないと「恍惚」という言葉は出てこないと思うわけです。
子供の場合は「気持ち良かった」で終わってしまうと思うんですが、皆さんはどうお考えですか?
この歌曲は、そういう感性が歌詞だけでなく、旋律、伴奏、ハーモニーのすべてで表現されている。言ってみれば、早熟の極みです。
そういう意味では、この曲が成熟した女性の作品だと言われても、まったく自然に感じると思います。少なくとも私には、そう感じられます。
伴奏の、上昇しては少し下降する繰り返し音型から始まるこの歌は、実は
旋律らしい旋律は出てこないと言っても過言ではないくらい、音の動きが少ない。まるでタイトルのごとく「恍惚」とした挙句に時が止まってしまったかのようなゆっくりした動き、ため息のような音の断片が延々と続きます。
すべてを聞いたわけではありませんが、アーンという人の歌曲にはこうした
「抑制の美」というのがよく出てくる。
同じような有名曲で「クロリスに」という曲がありますが、これも似たような手法に聴こえます。とにかく音を徹底的に「小出し」にすることで、聴き手の想像力、イメージといったものを喚起する。
こういう手法がまた、フランス語と実に相性が良い。別に、すべてにおいてフランス贔屓というわけではありませんが、私にとって、フランス語というのはイタリア語と並んで音楽的な言語に感じられます。
言語だけ聴いていても美しいのに、それが美しい旋律と上手くマッチすると
本当に美しい。
次はヘンデルの「私を泣かせてください」ですが、私はこの曲、オリジナルの形で聞くのが一番好きです。つまり、ソプラノと弦楽合奏+通奏低音という編成です。
なぜこの形が良いかというと、やはりバロック時代の歌曲ですから、通奏低音というものは外せない。なにしろバロック時代というのは、「通奏低音の時代」ですからね。
これ、ただ伴奏を即興的につけているというものじゃないんです。私は、通奏低音の真の魅力は即興で付けられる和音そのものよりも、それを支える低音(バス)の動きにあると思っています。
最初は即興的に和音をつけるという目的のものだったかもしれませんが、洗練されるに従って、バロック音楽というのはこの緊張関係ー旋律と、それに拮抗する低音ーによって作り出されるドラマ性にその魅力が宿るようになったと、私は思っています。
さらに言えば、この音響構造というのは「中抜き」なんです。
「旋律と低音部という『上下』がしっかりと固められ、内声部は薄い」
という造りが、バロック音楽の特徴の一つと言えると思います。
実際の古楽演奏を見ていると、上声部と低音部には比較的人数が割かれ、中声部は意外なほど薄い編成が少なくない。
そのためだろうと思いますが、私にはしばしば、バロック音楽が
非常にかっちりした音楽に聞こえます。
それは、一つには形式感が非常に厳格だということもあると思いますが、同時にこの「上下の外殻がかっちりした音楽」という音響上の性格も影響しているように思えます。
すみません。脱線しました。
なぜ私がこの曲のオリジナル版を愛するかというと、そのリズムの刻み方が素晴らしいのです。三拍子ではじまり、二つ打ってちょっと休む。で、ちょっと引っ掛けてまた二つ打って一つ休む。この動きが先ず歌詞と完全に合っているし、ためらう心もさりげなく表す。そして、感情を解放するところではすべての拍に音を乗せ、充分に思いを語り尽くす。
同時代、と言うか同い年にバッハという空前の天才がいたため、やや影が薄く見えることもありますが、私はヘンデルという人も大変な天才だと常々思っています。(とくにオペラのアリアやハレルヤコーラス、チェンバロの為のパッサカリアト短調など、劇的な音楽にその傾向が強いように思います)
つぎは、これまたいつものパターンで「Sunoを使って、どう表現するか?」
という問題になります。
どちらも好きな音楽ですから、私自身これらに似た音楽の生成というのは、何度も試みてきました。
しかし歌曲、オペラのアリアといういわば小編成の音楽であるにもかかわらず、とても難しい。いや、もしかしたら小編成だから難しいのかもしれませんが。
やはりジャンルとして似たものを作ることはできても、
個別の作曲家の持つ「空気感」や「世界観」のようなものを表すのは並大抵のことではないと、つくづく思う最近です。
それでも私は、また挑戦したくなってしまうのです。
その美しさ、また難しさこそが、私を駆り立てて止まないのです。
どうも、ここまでお読みいただきありがとうございました。
