都市は、森を必要とする。環境保全だけでない、森の価値とは。
僕はここ数年、森を訪れたり、森に関する勉強会に参加することが急速に増えました。
きっかけは、公園利活用の担当の時に、宝が池公園(京都市左京区)の森の課題に直面したこと。当初は、環境保全や公園維持管理の側面から、「課題解決」のために、半ば義務的に関わり始めましたが、今はその感覚は変わり始めています。
4月初めの週末も、土曜日は将軍塚エリア「森林庭園構想」の勉強会、日曜日は崇仁地域の「100年の森構想」のトークベントに参加。改めて、森の可能性を感じ、心躍る時間となりました。
まだ言語化しきれないとは思いますが、自分の頭の整理のためにも、今回得られた学びや気づきについて、書き記しておきたいと思います。
将軍塚エリア森林庭園構想

京都市民なら、訪れたことのある人が多いと思われる、将軍塚。東山の山頂にあり、京都市内を一望できるスポットとして、僕も、大学生時代から何度も訪れたことがあります。
この場所にある、「高台寺山国有林」に森林庭園をつくりたいと考える、高田森林緑地研究所の高田研一先生の呼びかけにより、山をまわり、歴史と土と、そこで育つ植物、森の解説を受けながら、森林庭園の可能性について考える勉強会が開催されました
構想策定の目的

言うまでもなく、東山は世界文化遺産「清水寺」をはじめとする歴史的・文化的に重要な社寺があり、京都の景観の重要な構成要素にもなっています。
かつて東山は、アカマツを中心とする森林でしたが、明治時代以降、風致保全政策による禁伐、松枯れなどの影響により、次第にコジイを中心とする薄暗い常緑広葉樹林へと林相が変化していきました。
この構想は、高台寺山国有林の森林の成り立ちやその歴史的価値を改めて整理し、そのポテンシャルを最大限に発揮させるために森林庭園をつくるというものです。
「神の山」「埋め墓の山」「百姓の山」

京都の山々は、神が宿る「神の山」、死者を埋葬する「埋め墓の山」、そして農耕を支える「百姓山」の3つに分類されるそうです(実は、里山と呼ばれる山は「送り火」の山など一部しかないとのこと)。高台寺山の周辺には、長楽寺など、念仏信仰に関わる寺院が存在し、多くの人々が集まり、死後の救済を願う場となっていました。そのため、この一帯は埋葬地としても利用され、「埋め墓」と呼ばれる場所が形成されたそうです。人は亡くなると山に埋葬され、その麓には「参り墓」として手を合わせる場所が設けられたそうです。
山は日本人にとって、信仰の対象であり、土に還った先人たちに思いを馳せる対象であり、自然の恵みをいただく場でもあったということを改めて感じることができました。
自然と人工の調和による美を生み出す、京都の造園技術

この場所の地形は谷が南西に開いており、市街地から強い風が吹き込む構造となっています。そのため、大木が育ちにくく、台風による倒木も頻発することから、もともと豊かな森林は形成されにくかったそうです。結果として、松や低木、草地が中心となる明るい環境が維持され、「菊谷」と呼ばれる地名のとおり、「キクタニギク」が生育できるような開放的な空間となっていました。
こうした歴史と環境を踏まえると、この場所は自然のままの森林を再生するのではなく、造園技術によって人の手を入れ、美しい景観を創出したいとの提案がありました。
特に、日本の造園技術は、自然と人工の調和による美を生み出す点において独自性を持っています。東洋と比較して、気候が安定している欧米の景観は規模の大きさでは優れていますが、近景における繊細な美しさや、不規則性の中に秩序を見出す感性は十分に発展していない。今後は、多様な生態系が共存する空間を目指すとともに、単なる鑑賞空間ではなく、内側に入り込み、多様な視点から自然を体験できる構造を検討していきたいとのこと。
森林庭園が実現すれば、日本的美意識を体現するショーケースとなり得る、維持管理のために観光資源として活用することも期待できる、との考え方が示されました。
京都の造園技術の粋は「光のコントロール」

林業としての伐採と、景観形成を目的とした伐採では、その考え方も手法も大きく異なるそうです。
景観を創出することを目的とする場合、単に木を切るのではなく、「光のコントロール」が極めて重要とのこと。人は一般的に、森の中であっても外であっても、無意識に風景を眺めてしまいがちですが、実際には森の内外で環境は大きく異なります。
例えば、杉林のような単一樹種の森林では、光環境が均一化し、下層植生も限定的となるため、景観としての面白みや多様性が失われやすい。一方で、多様な樹種や構造を持つ環境では、さまざまな生き物が生息し、多様な景観が形成されます。価値のある樹木だけでなく、一見価値が低いとされる樹木も含めて存在することで、空間全体の豊かさが生まれるとのこと。
また、経済的価値だけではなく、「心地よい風が吹く」「気持ちがよい」といった感覚的価値も重要。その中でも、最も重要なのは光の扱いである。光をどのように取り入れ、どのように分散させるかによって、空間の質は大きく変わるとのことでした。
実際、手入れをしていない場所ではシイの木の樹冠が広がり、暗く鬱蒼とした森になっており、適切に人の手を入れた森との差は一目瞭然でした。
一方で、シイの木を完全に排除するわけではなく、地形や土の状態を見ながら一部を「ヌシ」として残すことで多様性にも配慮している点が素晴らしいなと感じました。
美意識を育む京都の造園文化

「光にはさまざまな強度や性質があり、強い光もあれば弱い光もあり、木漏れ日も存在する。また、風が通り抜けるための大きな隙間があっても問題はない。重要なのは、それらをどのように組み合わせ、人が美しいと感じる空間として成立させるかである。」
そう語る高田先生は、弟子の造園家、太田氏とともに、どの木を残し、どの木を切るのかについて、検討を重ねてきたそうです。
判断軸は、「何を実現したいのか」という目的意識。どのように見えることが望ましいのか、また、手前の植生や左右の構成、さらには約200メートル先にある森の輪郭までを視野に入れ、どの木をどのように処理すべきかを判断する必要があります。
また、切り方そのものにも高度な技術が求められます。例えば、無造作に枝を切断すると、それだけで景観は損なわれ、人に「美しくない」という印象を与えてしまう。したがって、単に切るのではなく、抑える、あるいは枝分かれの位置で処理するなど、適切な方法を選択することが重要とのこと。
さらに、「どこから見られるか」という視点も不可欠。一方向だけでなく、二方向、三方向、さらには四方向からの見え方を想定し、人工的な印象を極力排除するよう工夫する。切断位置についても、可能な限り自然に見える箇所を選び、形状の違和感が生じないよう配慮する必要があるそうです。
他にも、
○曲がった木や老木、さらには枯れ木であっても、それを見せる意図がある場合には重要な構成要素となる。
○人の動線を誘導するための伐採も重要。かつての里山では、網の目のように道が張り巡らされ、人々が自由に行き来していた。そうした歴史も踏まえながら、安全に歩けるネットワークを整備し、多様な体験が可能な空間を構築する必要がある。
といった点まで考慮しているとのこと。
こうした美意識をとことん追求した技術は、京都の造園文化として継承していくべきものと強く感じました。
構想実現に向けた課題
1.多大な労力とコスト
こうした作業には多大な労力とコストが伴います。例えば、一日に処理できる本数は限られており、作業量に対して費用が高額になることもあります。そのため、単純な面積や量で評価されると、その価値が理解されにくく、経済性と景観価値の両立は、大きな課題の一つであると感じました。
2.人材の不足
従来のスギ・ヒノキ中心の植林手法が一般化していますが、本来は地域の特性に応じた樹種選定や植栽手法を再検討する必要があります。また、日本には長い時間をかけて培われてきた美意識があり、それに基づく自然景観のあり方が存在します。
しかし、それを具体的に言語化し、共有する試みは十分になされていませんでした。現場を担う方が、自らその思想を語り、共有していく必要がありますが、そういった知識を持った人材が不足しているのが現状です。
3.苗の不足
クヌギやモミジといった「売れる種の苗」だけが生産され、日本らしい多様な森をつくるための苗が足りないという課題も深刻です。最近、森づくりに関わる複数の方から「育苗がしたい」という声を聞いていましたが、このような背景があるということを理解しました。
4.関係人口の不足
個人的に、この問題の解決が鍵なのではと感じたのが、関係人口の不足です。今回集まった勉強会の参加者は、林業や製材関係者、森づくりや環境保全に取り組む方が中心となっていました。
日本の文化や精神性に興味を持った海外の方、ネイチャーポジティブに関心のあるビジネスパーソン、アーティスト、クリエイターといった層は確実におられます。
現状は、今回のような構想に関わる接点がつくれていません。
また、地域や教育機関と連携することにより、苗づくりや森づくりをすることもできるのではと感じます。専門性の高い取り組みではありますが、いかにライトな層が関わりたくなるような活動を企画するかも重要だと感じました。
都市に多様な価値を生む森
「茶庭においても同様に、意図的に要素を隠し、それを見出す力を来訪者に問う構造がある。本来はそのような高度な美意識に基づいて整備が行われるべきであるが、現状の公共事業では「見えて分かりやすいこと」が優先される傾向にある。」高田先生の指摘はおっしゃるとおりだと感じました。
この構想は、単なる森林整備ではなく、また、生物多様性の回復といった環境保全だけでもない。日本の美意識と価値観を体現する重要な試みであると言えます。
京都基本構想で言うところの「自然への畏敬と感謝の念を抱けるまち」また、「学藝衆構想」を具現化するものと感じます。
先日実施した基本構想のイベントでアンケートをとったところ、「歴史と文化」「共同体」と比較して、自然に対する項目への注目が低かったのが現実です。自然と人間との距離感が遠くなっていることに危機感を覚えます。
個人的には、文化も共同体も、自然という土台がなければ育つものではないと思うからです。
しかしながら、今、京都のあちこちで、今までとは異なる形で森に目を向ける活動が広がっています。京都は「大学のまち」ですが、卒業後は大半の学生が京都から離れるのも現実。ですが、京都に残ったり、関係性を続ける若者は、自然との関係性を大事にする方が多いとの肌感覚があります。
東京でも、敷地全体の約1/3に相当する約3,600m²もの森を整備するような事例も生まれています。これまで、企業が森に関わるのは、社会貢献的な意味あいが強かったかもしれません。しかしながら、森に関わること自体が企業に価値をもたらすという認識が広まってきていると感じています。
個人的にも、宝が池公園や船岡山公園、京北地域、そして京都市立芸術大学の小山田徹学長が提唱する「崇仁地域100年の森構想」などに関わる中で、森の価値を再認識する動きを広めていければと考えています。

森は、専門的な知識を持たずとも、自分なりの美意識を感じさせてくれる存在。それは、創造性と想像力の源泉になります。京都に多様な文化や工藝が息づき、ノーベル賞受賞者を何度も排出しているのも、文化や多様なコミュニティの土台に、自然との共生を前提にした様々な営みがあるから。
森から得られる美意識とは、桜や紅葉がきれいとか、表面的な美しさだけではありません。
多様性の中に見出される、自分なりの解釈。
生だけでなく、死に対しても、目を向けることにより湧き上がる感情。
人間では感知できないものに対する想像力。
長尺で世界を捉えることにより想いを馳せられる物語。
そこにあるものから何かをつくる創造性。
人間中心的な視点では生まれない美意識が得られると感じています。
また、自然が比較的コントロールしやすい西洋と異なり、東洋では、自然は人間の手に負えない畏敬と感謝の対象であり、人間は自然の一部と考えられてきました。人間中心主義ではない謙虚さが日本人本来のメンタリティであったと基本構想からも解釈できます。
僕は、こういったことが今の時代に必要なものと感じており、自然と人間の関係性を捉えなおす取組を公園で行っています。
将軍塚エリアにおける森林庭園構想が少しでも実現に近づくよう、僕も森の関係人口を増やしていけるように努めたいと思います。
